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第一部
二章(2)
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パタリと本を閉じ、ソファーの背もたれに深く体を沈めながら、クラリスはふぅ、と息をついた。その手にあるのはエッタに王立図書館で借りてきてもらった、隣国ラウウィスの言葉で書かれた小説だ。それを数日かけて読み終わったため、ひと息ついたところだった。
「あっ、クラリス様、やっと読み終わったのですね。もうそろそろ夕食の時間ですよ」
部屋の隅で今日ルークの講義で使った資料をまとめていたエッタがこちらの様子に気づき、クスクス、と笑い混じりにそう言った。その言葉に窓の外に視線をやれば、いつの間にかどっぷりと日が暮れていた。薄暗くなっていたことにも、燭台に明かりが灯されていたことにも、まったく気づかなかった。思わず目をしきりに瞬かせる。
するとエッタがまた笑った。資料を机に置くと、こちらに近づいてくる。
「クラリス様、こちらの本は明日にでも返却してよろしいでしょうか?」
その言葉に、クラリスは慌てて手を振った。
――ええ、お願い。
するとエッタは、どこか眩しいものを見るかのように目を細めた。
一年。ルークと出会った、あの人生の転換点とも言える日から、それだけの月日が経った。彼との出会い――正確には彼によってもたらされたものの数々によって、クラリスを取り囲む世界は大きく変貌を遂げた。
一番重要な変化は、やはり手話だろう。毎回毎回手のひらに字を書いていたのと比べて、言葉を伝える早さが大幅に短縮されたのだ。そのおかげで軽快なやりとりもできるようになったし、言語そのものにも興味を抱き始めた。今は外国語の読み取りと書き取り、聞き取りを、ルークに内緒でこっそり練習している。めったに驚かない彼をびっくりさせるのが目標だった。
彼が驚くさまを想像して、クラリスは思わず口元を押さえた。引き締めようとしたけれど、どうしても頬が緩んでしまい、笑いがこらえきれない。おそらく声を発することができたならば、大声で笑ってしまっていただろう。そう確信できる。
(驚かせるためにも頑張らないといけないわね)
外国語も――ほかの勉強も。そう思い、自然と顔が歪んだ。正直、言語にまつわる勉強以外はしたくない。どこか小難しくてよくわからないし、それをするくらいなら外国語を少しでも長く勉強していたいと思う。
今後のためにもこのままではいけない、というのは理解しているが……やはりやる気は出なかった。はぁ、とため息をつく。我儘だというのはわかっているが、嫌なものは嫌だった。
むっ、と頬を膨らませていると、侍女によって夕食が運ばれてきた。エッタはその侍女から夕食の乗ったカートを受け取ると、手際よく食事を並べていく。その横で、これまた別の侍女が毒味をしていた。
(まぁ、とりあえず……)
今は夕食を摂ろう。勉強のことは後回しに。そう思いながら、クラリスは目の前に並べられていく食事を眺めていた。
ルークによる講義は午前十時から始まり、昼食を挟んでお茶会などが行われる三時ごろになると終わるようになっている。
ちなみに侍女の中でも一番仲が良く信頼のおけるエッタは、その時間だけはそばを離れていた。最初のころこそルークを警戒してともにいたものの、今では彼を信頼しきっており、その間にやりたいことがあるそうだ。よく知らないけれど。
翌日、ルークはいつものように時間通りやって来ると、なぜか参考資料は一切開くことなく「王女殿下」と呼びかけてきた。普段なら真っ先に参考資料を開き、クラリスが何か疑問を抱いたらすぐに該当箇所を示せるように準備しているのに、だ。そのことに首を傾げながらも、――なに? とクラリスは尋ねる。
ルークはわずかに視線をさまよわせたあと、ゆっくりと唇を開いた。
「王女殿下はどんな生活を送ってこられたのでしょうか?」
――どういうこと?
不可思議な質問だった。最近難航している――自覚はある――経済学とかの講義に関係あることなのだろうか? だけど学問に、どうして生活が関係あるのだろう?
ルークは困ったような表情で、珍しく訥々と言う。
「率直に言いまして、私と出会う前の王女殿下がどのような生活をなさっていたのか、まったくわからないのです。……実は友人に、私の当たり前があなた様の当たり前ではないのだから、そこらへんの擦り合わせをしたほうが良いと言われまして……」
……それと学問が何か関係あるのだろうか? そんなことを思いつつ、クラリスはとりあえず問われたことに答えるため手を振った。
――どんなって……今とそう変わらないわ。教育係がいる間は今日と同じようなスケジュールで、いないときは……ただ無為に時間を浪費していただけ。それくらいよ。
「そうですか……」とルークは呟くように言うと、指を顎にあてて目を伏せた。その仕草は何か思考に没頭するときの彼の癖で、こうなってはなかなか話を聞いてくれない。というよりどうやら話しかけてもあまり声が届かないようだった。訊きたいことがあって問いかけても、いつも無視される。
クラリスはため息をついて、目を閉じた。この間に今学んでいる言語の復習をしようと思ったのだ。
頭の中で昨夜読んだ外国語の文章を組み立てたり分解したりして遊んでいると、「あ、」というルークの声が届いた。そっと瞼を押し上げる。
ルークは何らかの手がかりを掴んだようで、その瞳はいつにも増してキラキラと輝いていた。
「王女殿下、もしかして一度も城外に出たことがありませんか?」
――ええ、そうね。
「エッタから城の外の生活の話を聞いたことは?」
――……確か、なかったはずよ。エッタはあまり話したがらないから。
するとルークは「なるほど」としきりに納得していた。どこか嬉しげなのは伝わるけれど、いったい彼が何をわかったのか皆目見当もつかない。首を捻っていれば、「では、」とルークが口を開いた。
「今度一緒に城下へ向かいましょう」
――…………はい?
クラリスは思わずそう、手を動かすことしかできなかった。城下――すなわち城下町。城の外。どうしてそのような話になるのかよくわからず……いや、クラリスが出たことないから、というのは把握しているが、どうしてそれをする必要があるのか理解できず、混乱したのだが、そんなクラリスをよそに、ルークは良い案だ、とでも言うようにしきりに頷いている。
「では、私は話を通して参りますので、戻って来るまでは自習をしておいてください。失礼致します」
――え、ええ……わかったわ。
クラリスがそう手で返せば、ルークはどこか楽しげに部屋を出ていった。一人残され、クラリスはしばらくその場で呆然としていることしかできなかった。
「あっ、クラリス様、やっと読み終わったのですね。もうそろそろ夕食の時間ですよ」
部屋の隅で今日ルークの講義で使った資料をまとめていたエッタがこちらの様子に気づき、クスクス、と笑い混じりにそう言った。その言葉に窓の外に視線をやれば、いつの間にかどっぷりと日が暮れていた。薄暗くなっていたことにも、燭台に明かりが灯されていたことにも、まったく気づかなかった。思わず目をしきりに瞬かせる。
するとエッタがまた笑った。資料を机に置くと、こちらに近づいてくる。
「クラリス様、こちらの本は明日にでも返却してよろしいでしょうか?」
その言葉に、クラリスは慌てて手を振った。
――ええ、お願い。
するとエッタは、どこか眩しいものを見るかのように目を細めた。
一年。ルークと出会った、あの人生の転換点とも言える日から、それだけの月日が経った。彼との出会い――正確には彼によってもたらされたものの数々によって、クラリスを取り囲む世界は大きく変貌を遂げた。
一番重要な変化は、やはり手話だろう。毎回毎回手のひらに字を書いていたのと比べて、言葉を伝える早さが大幅に短縮されたのだ。そのおかげで軽快なやりとりもできるようになったし、言語そのものにも興味を抱き始めた。今は外国語の読み取りと書き取り、聞き取りを、ルークに内緒でこっそり練習している。めったに驚かない彼をびっくりさせるのが目標だった。
彼が驚くさまを想像して、クラリスは思わず口元を押さえた。引き締めようとしたけれど、どうしても頬が緩んでしまい、笑いがこらえきれない。おそらく声を発することができたならば、大声で笑ってしまっていただろう。そう確信できる。
(驚かせるためにも頑張らないといけないわね)
外国語も――ほかの勉強も。そう思い、自然と顔が歪んだ。正直、言語にまつわる勉強以外はしたくない。どこか小難しくてよくわからないし、それをするくらいなら外国語を少しでも長く勉強していたいと思う。
今後のためにもこのままではいけない、というのは理解しているが……やはりやる気は出なかった。はぁ、とため息をつく。我儘だというのはわかっているが、嫌なものは嫌だった。
むっ、と頬を膨らませていると、侍女によって夕食が運ばれてきた。エッタはその侍女から夕食の乗ったカートを受け取ると、手際よく食事を並べていく。その横で、これまた別の侍女が毒味をしていた。
(まぁ、とりあえず……)
今は夕食を摂ろう。勉強のことは後回しに。そう思いながら、クラリスは目の前に並べられていく食事を眺めていた。
ルークによる講義は午前十時から始まり、昼食を挟んでお茶会などが行われる三時ごろになると終わるようになっている。
ちなみに侍女の中でも一番仲が良く信頼のおけるエッタは、その時間だけはそばを離れていた。最初のころこそルークを警戒してともにいたものの、今では彼を信頼しきっており、その間にやりたいことがあるそうだ。よく知らないけれど。
翌日、ルークはいつものように時間通りやって来ると、なぜか参考資料は一切開くことなく「王女殿下」と呼びかけてきた。普段なら真っ先に参考資料を開き、クラリスが何か疑問を抱いたらすぐに該当箇所を示せるように準備しているのに、だ。そのことに首を傾げながらも、――なに? とクラリスは尋ねる。
ルークはわずかに視線をさまよわせたあと、ゆっくりと唇を開いた。
「王女殿下はどんな生活を送ってこられたのでしょうか?」
――どういうこと?
不可思議な質問だった。最近難航している――自覚はある――経済学とかの講義に関係あることなのだろうか? だけど学問に、どうして生活が関係あるのだろう?
ルークは困ったような表情で、珍しく訥々と言う。
「率直に言いまして、私と出会う前の王女殿下がどのような生活をなさっていたのか、まったくわからないのです。……実は友人に、私の当たり前があなた様の当たり前ではないのだから、そこらへんの擦り合わせをしたほうが良いと言われまして……」
……それと学問が何か関係あるのだろうか? そんなことを思いつつ、クラリスはとりあえず問われたことに答えるため手を振った。
――どんなって……今とそう変わらないわ。教育係がいる間は今日と同じようなスケジュールで、いないときは……ただ無為に時間を浪費していただけ。それくらいよ。
「そうですか……」とルークは呟くように言うと、指を顎にあてて目を伏せた。その仕草は何か思考に没頭するときの彼の癖で、こうなってはなかなか話を聞いてくれない。というよりどうやら話しかけてもあまり声が届かないようだった。訊きたいことがあって問いかけても、いつも無視される。
クラリスはため息をついて、目を閉じた。この間に今学んでいる言語の復習をしようと思ったのだ。
頭の中で昨夜読んだ外国語の文章を組み立てたり分解したりして遊んでいると、「あ、」というルークの声が届いた。そっと瞼を押し上げる。
ルークは何らかの手がかりを掴んだようで、その瞳はいつにも増してキラキラと輝いていた。
「王女殿下、もしかして一度も城外に出たことがありませんか?」
――ええ、そうね。
「エッタから城の外の生活の話を聞いたことは?」
――……確か、なかったはずよ。エッタはあまり話したがらないから。
するとルークは「なるほど」としきりに納得していた。どこか嬉しげなのは伝わるけれど、いったい彼が何をわかったのか皆目見当もつかない。首を捻っていれば、「では、」とルークが口を開いた。
「今度一緒に城下へ向かいましょう」
――…………はい?
クラリスは思わずそう、手を動かすことしかできなかった。城下――すなわち城下町。城の外。どうしてそのような話になるのかよくわからず……いや、クラリスが出たことないから、というのは把握しているが、どうしてそれをする必要があるのか理解できず、混乱したのだが、そんなクラリスをよそに、ルークは良い案だ、とでも言うようにしきりに頷いている。
「では、私は話を通して参りますので、戻って来るまでは自習をしておいてください。失礼致します」
――え、ええ……わかったわ。
クラリスがそう手で返せば、ルークはどこか楽しげに部屋を出ていった。一人残され、クラリスはしばらくその場で呆然としていることしかできなかった。
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