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第一部
四章(4)
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去っていくジェラードの背中を見つめながら、クラリスはほっと息をついた。あの視線から解放されたことが嬉しくて、安心して。ついついその感情を顔に表してしまうと、「クラリス様」とルークに厳しい声で呼ばれた。……最近こんなことばかりな気がする。気を引き締めなければ。
そんなことを思いながらにっこりと作り笑いを浮かべると、ルークは「そうです」とでも言うように一度頷いて、口を開いた。
「それで、何を言われたのですか? 表情が固くなっておりましたが」
その問いかけに、クラリスはにこにこと笑いながら視線を逸らした。
……もし先ほどのことを話したのならば、ルークはどう思うのだろう? 上に立つ者でありながらこんなに優柔不断で問題を先送りにしているのだ。あまり良い感情は抱かないに違いない。
だから言わなかった。言えなかった。彼に嫌われてしまうのが、怖くて。
(贅沢なことよね……)
はぁ、と、小さくため息をついた。
平民の中にはその日生きるので精一杯な人もいる。それなのにクラリスは生きるのに困ることなく、大切な人に嫌われたくないと、平民たちにとっては優先順位の低いであろうことを一番に気にかけていた。それを贅沢と言わずして何と言おう?
そう思い、自分のことを情けなく思っていると、視界の隅でルークが口を開いた。「クラリス様――」しかしその声を遮るようにして、鈴音のように可憐な声が耳に届いた。
「ごきげんよう、王女殿下」
ハッとしてそちらを見れば、銀髪の少女――レティーシャが淑女の礼をしていた。今日は瞳と同じ深い青のドレスをまとっていて、裾に縫いつけられている小さなラピスラズリは、彼女が少し動くたびにきらきらと星屑のように輝く。洗練された姿は多くの男性が見惚れるもので、事実、視界に映る見ず知らずの男性は彼女を見てわずかに頬を紅潮させていた。
クラリスは意識して口角を上げると、ゆっくりと手を動かした。――ごきげんよう、レティーシャ様。久しぶりね。
彼女と会ったのは本当に久しぶりだった。社交界デビューの際の舞踏会で友人にはなったものの、それ以降クラリスが舞踏会などに参加しなかったため会う機会がなかったのだ。
レティーシャはさりげなくほっと息をつくと、薔薇色の唇を震わせる。
「ええ、本当にお久しぶりです。王女殿下は舞踏会に参加しておられなかったので……何かあったのかと」
――心配をかけてしまったわね。特にそういうことはないから、安心してちょうだい。
「それなら良いのですが……」と、レティーシャは少し不満げな様子で言った。どうしたのだろう? と思っていると、彼女はすぐさまにっこりと美しい笑みを浮かべ、言った。
「そういえば王女殿下、わたくし今度お茶会を開こうと思っているのです。招待状を送ってもよろしいでしょうか?」
お茶会。その言葉にクラリスはふと、この前の秋、母との茶会の帰り道でエリオットに言われた言葉を思い出した。
――君は何を望んでいるの? 何を手に入れたい?
ふっ、と自嘲する。結局それは未だに見つかっておらず、どんな未来を掴みたいのかも決まっていない。選択できていない。だからジェラードに、王位に就くつもりなのか? と尋ねられても、何も答えられなくて……
「王女殿下?」とレティーシャの声がした。ハッ、と我に返れば、黙りこくっていたせいか心配げにこちらを見つめてきていて、クラリスは慌てて表情を取り繕うと――楽しみにしているわ、と告げた。
レティーシャはそっと目を細め、しかし笑顔のまま薄い唇を開く。
「それなら良かったです。――では、本日はここで。失礼いたします」
そう言ってレティーシャは美しい礼をすると、くるりと背を向けて去っていった。きら、きら、とラピスラズリが星のように輝く。
ピン、と伸びた背を見送っていれば、「クラリス様」とルークに呼ばれてそちらを見る。彼は気難しい顔を浮かべていて、どうしたのだろう? と思って首を傾げた。注意をされるようなときとは違う類の視線に、戸惑う。そんなふうに見られる理由がさっぱり思い当たらなかった。
困惑しているクラリスを見下ろしながら、ルークは重たげに唇を開いた。
「今日はもう退場させていただきましょう。――顔色が悪いです」
その言葉に、反射的に――でも、と返した。まだ何も決められていないダメな王女。だからせめて、ジェラードを案内するという与えられた役割くらいはきちんと果たしたかった。
しかしルークは首を横に振り、「いけません」と言う。
「ウィルター侯爵令嬢もクラリス様に気を遣っておいででした。両陛下とジェラード殿下に挨拶をして、早めに休ませていただきましょう。明日からもまだジェラード殿下の相手をなさる必要がございますから」
クラリスはじっ、と彼を見上げた。紫紺の瞳は心配げな色を浮かべていて、視線が外されることはなく。
――……わかったわよ。
一歩も引かない様子のルークに、クラリスはしぶしぶ頷いた。外聞とかがあるにもかかわらずルークが強くそう言うのならば、おそらくそれくらい顔色が悪いのだろう。原因は……ジェラードの言葉や、かつて言われたエリオットの言葉だろうか?
……思いのほか、それらを気にしているのかもしれない。焦りや罪悪感があって、それに囚われてしまっていて、抜け出せていないのかも。
そんなふうに思いつつ、クラリスはルークの言う通り両親とジェラードに断って誰よりも先に舞踏会を退場させてもらった。ルークがいない場合に備えて出入り口付近で待機していたエッタを連れ、自室への道を進む。……徐々に遠ざかっていくざわめき。国内の貴族が大勢集まっているだけあって警備の者も使用人も舞踏会にかかりきりになっているのか、帰り道は誰ともすれ違わなかった。
自室へ着くと、「では、」とルークが口を開く。
「私はここで失礼いたします」
――ええ。おやすみなさい。
「……はい。おやすみなさいませ、クラリス様」
ルークはそう言って丁寧に腰を折ると、その場を去っていった。
それを見送り、クラリスは寝るための準備を整えていく。着替えて髪も解き、メイクも落として。すべてが終わって部屋に一人きりになると、そのままベッドに倒れ込んだ。
ぐるぐると脳内で渦巻く言葉たち。
(わたし、は……どうすれば、良いのかしら……?)
どの選択をすれば良いのだろう。王位を目指すのか、それとも女王にならないと宣言してどこかの貴族の元へ降嫁するのか。今まで見ないふりをしてきた分、必死に考えて。
――その晩、クラリスは早めに舞踏会を退場したにもかかわらず、結局なかなか寝つけなかった。
そんなことを思いながらにっこりと作り笑いを浮かべると、ルークは「そうです」とでも言うように一度頷いて、口を開いた。
「それで、何を言われたのですか? 表情が固くなっておりましたが」
その問いかけに、クラリスはにこにこと笑いながら視線を逸らした。
……もし先ほどのことを話したのならば、ルークはどう思うのだろう? 上に立つ者でありながらこんなに優柔不断で問題を先送りにしているのだ。あまり良い感情は抱かないに違いない。
だから言わなかった。言えなかった。彼に嫌われてしまうのが、怖くて。
(贅沢なことよね……)
はぁ、と、小さくため息をついた。
平民の中にはその日生きるので精一杯な人もいる。それなのにクラリスは生きるのに困ることなく、大切な人に嫌われたくないと、平民たちにとっては優先順位の低いであろうことを一番に気にかけていた。それを贅沢と言わずして何と言おう?
そう思い、自分のことを情けなく思っていると、視界の隅でルークが口を開いた。「クラリス様――」しかしその声を遮るようにして、鈴音のように可憐な声が耳に届いた。
「ごきげんよう、王女殿下」
ハッとしてそちらを見れば、銀髪の少女――レティーシャが淑女の礼をしていた。今日は瞳と同じ深い青のドレスをまとっていて、裾に縫いつけられている小さなラピスラズリは、彼女が少し動くたびにきらきらと星屑のように輝く。洗練された姿は多くの男性が見惚れるもので、事実、視界に映る見ず知らずの男性は彼女を見てわずかに頬を紅潮させていた。
クラリスは意識して口角を上げると、ゆっくりと手を動かした。――ごきげんよう、レティーシャ様。久しぶりね。
彼女と会ったのは本当に久しぶりだった。社交界デビューの際の舞踏会で友人にはなったものの、それ以降クラリスが舞踏会などに参加しなかったため会う機会がなかったのだ。
レティーシャはさりげなくほっと息をつくと、薔薇色の唇を震わせる。
「ええ、本当にお久しぶりです。王女殿下は舞踏会に参加しておられなかったので……何かあったのかと」
――心配をかけてしまったわね。特にそういうことはないから、安心してちょうだい。
「それなら良いのですが……」と、レティーシャは少し不満げな様子で言った。どうしたのだろう? と思っていると、彼女はすぐさまにっこりと美しい笑みを浮かべ、言った。
「そういえば王女殿下、わたくし今度お茶会を開こうと思っているのです。招待状を送ってもよろしいでしょうか?」
お茶会。その言葉にクラリスはふと、この前の秋、母との茶会の帰り道でエリオットに言われた言葉を思い出した。
――君は何を望んでいるの? 何を手に入れたい?
ふっ、と自嘲する。結局それは未だに見つかっておらず、どんな未来を掴みたいのかも決まっていない。選択できていない。だからジェラードに、王位に就くつもりなのか? と尋ねられても、何も答えられなくて……
「王女殿下?」とレティーシャの声がした。ハッ、と我に返れば、黙りこくっていたせいか心配げにこちらを見つめてきていて、クラリスは慌てて表情を取り繕うと――楽しみにしているわ、と告げた。
レティーシャはそっと目を細め、しかし笑顔のまま薄い唇を開く。
「それなら良かったです。――では、本日はここで。失礼いたします」
そう言ってレティーシャは美しい礼をすると、くるりと背を向けて去っていった。きら、きら、とラピスラズリが星のように輝く。
ピン、と伸びた背を見送っていれば、「クラリス様」とルークに呼ばれてそちらを見る。彼は気難しい顔を浮かべていて、どうしたのだろう? と思って首を傾げた。注意をされるようなときとは違う類の視線に、戸惑う。そんなふうに見られる理由がさっぱり思い当たらなかった。
困惑しているクラリスを見下ろしながら、ルークは重たげに唇を開いた。
「今日はもう退場させていただきましょう。――顔色が悪いです」
その言葉に、反射的に――でも、と返した。まだ何も決められていないダメな王女。だからせめて、ジェラードを案内するという与えられた役割くらいはきちんと果たしたかった。
しかしルークは首を横に振り、「いけません」と言う。
「ウィルター侯爵令嬢もクラリス様に気を遣っておいででした。両陛下とジェラード殿下に挨拶をして、早めに休ませていただきましょう。明日からもまだジェラード殿下の相手をなさる必要がございますから」
クラリスはじっ、と彼を見上げた。紫紺の瞳は心配げな色を浮かべていて、視線が外されることはなく。
――……わかったわよ。
一歩も引かない様子のルークに、クラリスはしぶしぶ頷いた。外聞とかがあるにもかかわらずルークが強くそう言うのならば、おそらくそれくらい顔色が悪いのだろう。原因は……ジェラードの言葉や、かつて言われたエリオットの言葉だろうか?
……思いのほか、それらを気にしているのかもしれない。焦りや罪悪感があって、それに囚われてしまっていて、抜け出せていないのかも。
そんなふうに思いつつ、クラリスはルークの言う通り両親とジェラードに断って誰よりも先に舞踏会を退場させてもらった。ルークがいない場合に備えて出入り口付近で待機していたエッタを連れ、自室への道を進む。……徐々に遠ざかっていくざわめき。国内の貴族が大勢集まっているだけあって警備の者も使用人も舞踏会にかかりきりになっているのか、帰り道は誰ともすれ違わなかった。
自室へ着くと、「では、」とルークが口を開く。
「私はここで失礼いたします」
――ええ。おやすみなさい。
「……はい。おやすみなさいませ、クラリス様」
ルークはそう言って丁寧に腰を折ると、その場を去っていった。
それを見送り、クラリスは寝るための準備を整えていく。着替えて髪も解き、メイクも落として。すべてが終わって部屋に一人きりになると、そのままベッドに倒れ込んだ。
ぐるぐると脳内で渦巻く言葉たち。
(わたし、は……どうすれば、良いのかしら……?)
どの選択をすれば良いのだろう。王位を目指すのか、それとも女王にならないと宣言してどこかの貴族の元へ降嫁するのか。今まで見ないふりをしてきた分、必死に考えて。
――その晩、クラリスは早めに舞踏会を退場したにもかかわらず、結局なかなか寝つけなかった。
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