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第一部
一章(4)
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シェーラの日々は目に見えて忙しくなった。
王宮から派遣されてきた教師たちが、様々なことをシェーラに教える。例えばダンス。シェーラのダンスの腕前は普通であるが、それでは王妃は務まらない。もっと優雅に踊れるように指導され、さらには普通の貴族の夫人ならば国から出ることなど滅多にないが、王太子妃や王妃となると外交もしなければならないため、他国独自の踊りも覚えなければならなかった。
そのため、ユリアナとのお茶会の時間がなかなかできず、やっと二回目のお茶会を開くことができたのは、一週間後のことだった。
ユリアナの持つティーカップがそろそろと、怯えたように置かれる。カチャ、と微かな音が響いた。その様子を見つめ、「ユリアナ」とシェーラが厳しい声で呼びかける。
「音は鳴らさないように置くの。こんな感じに、そっと、優しくね」
そう言いながら、シェーラも手に持った紅茶を置いてみせた。音は鳴らず、さらに流れるようなその動作に、ユリアナは「へぇー」と声を漏らし、首を傾げた。
「どうして鳴らないの?」
その質問に、シェーラはうーん、と唸る。どうしてと訊かれても、感覚的なことだからよく分からないのが正直なところだ。いつもどんなふうに動かしていたのか確かめるために、何度かその動作を空中でやってみたけれど、……分からない。結局「慣れ、かな?」としか言えなかった。ユリアナは「すごいわねぇ」と言うと、両肘をテーブルについて手のひらの上に顎を乗せた。
「そうかな……。私はユリアナと比べれば長く躾られてきたから……別に、すごくないと思うよ。いずれできるようになるわ。あと、肘をつくなんて行儀が悪いわよ」
「はーい、せんせー」
ユリアナはそう言いながら体を起こし、手を腿の上へ置いた。そのやる気のないふざけた返事に、「もう」とシェーラは声を発する。
「あなたが頼んだんでしょ? 作法とか教えて欲しいって」
そう言うと、ユリアナはあからさまに視線を逸らした。
「まぁ、そうだけど……えへ?」
「ユリアナ……」
シェーラは呆れた目でユリアナを見つめる。「だってぇ……」とユリアナはむっとした表情を浮かべた。どうやらもうめんどくさくなってしまったようで、はぁ、とシェーラはため息をつく。
「もうちょっと貴族だっていう自覚をね……。ユリアナはお義兄様の婚約者になりたいんでしょう? そんなんじゃダメよ」
「――はーい」
にへら、と笑うユリアナに、シェーラは大げさなため息をついた。もちろんわざとだ。それを分かってか、ユリアナも焦ることはせず、クスクスと笑う。
明るい笑い声が庭に満ちた。
コロコロと、可愛らしい鳥の鳴き声も降ってくる。その鳴き声を聞いて、ユリアナが「あ、そうだわ」と呟いた。手を動かし、ポケットの中をまさぐる。
取り出したのは、羽ばたく鳥が蓋の上部に乗った香水瓶だった。
「可愛いでしょ?」
そう言いながら、ユリアナはシェーラに香水瓶を渡す。シェーラは落とさないよう丁寧に触れながらそれを見つめ、首を捻った。
「可愛いというか……」
――芸術的。精緻な鳥は、可愛いというよりは美しいという言葉の方が似合っていた。
そんな感想を抱きながら、視線を下へと滑らす。香水瓶自体にもまた繊細な紋様が施されており、金属製の葉っぱがついた蔓が棒に絡みついていて、そのような棒がいくつもあった。そしてそれらは蓋と触れ合う部分まで伸びていて、その様はさながら、――鳥かご。
「芸術的……ええ、確かにそうかもしれないわね。だけどこの手に乗る感じが可愛いと思わない?」
「それって、小さいものなら全部可愛いってこと……?」
「そうかも」
クスクスとユリアナは笑った。その気持ちはあんまり分からないわ、と思いながら、シェーラは苦笑した。彼女といると本当に気が安らいで、なんてことないことでも楽しくなってくる。この忙しく、周囲がピリピリとしている中、彼女と会えるのは本当に良かった。
そんなことを思っていると、何を思ったのか、ユリアナが突然香水瓶の蓋を開けた。ふんわりと甘い香りが漂ってくる。
「どうしたの?」
「ふふ、この香りいいでしょっていう自慢よ」
ユリアナはそう言って、得意げに笑う。その香りは確かに、よく彼女から漂ってくるものだった。
「うん、確かに……」
甘く、優しく、とろけるような、たぶん何らかの花の香り。さすがのシェーラも、花の名前までは分からなかったけれど、珍しいものだとは察せられた。
「いったい、何の花なの? 多分貴重なものだよね?」
シェーラがそう尋ねると、ユリアナはへにゃ、と表情を崩した。
「よく知らないわ。これはね、大切な方からもらったの」
「大切な方?」
「ええ、そうよ。大切な方」
肯定の言葉を受け取って、シェーラは首を傾げた。大切な方……どんな方だろう? ユリアナからそんな人の話など、今まで聞いたことがなかった。
――そもそも、ユリアナが私以外と関わっている様子なんてなかったのに。そう思って、ちょっとだけもやもやする。何でだろう?
そう思っていると、ユリアナが話し始めた。
「私の大切な方はね、私を父様――イシュタール子爵に紹介してくれた方なの」
シェーラは首を捻った。どういうこと? 最近引き取られたとのことだから、イシュタール子爵が何かしたのだと思っていたのだけど……。
そんな疑問を見透かしてか、ふふ、とユリアナは笑う。
「あの方は母――子爵夫人じゃなくて実母が亡くなった直後に現れて、私をイシュタール子爵邸に連れて行ってくれたの。イシュタール子爵の子供だから引き取ってやってくれって言ってくださって……。あの方がいなければ、今の私はなかったわ」
ユリアナは嬉しそうに笑った。その方に恩を感じていることがありありと分かる。
だけど――。
「ねぇ、ユリアナ、その方は――」
「あれ? シェーラ?」
話の途中で声をかけられて、シェーラの心臓が跳ねる。恐る恐る視線を逸らすと、そこには王宮から帰ってきたと思われる義兄がいて。「お義兄様……」微かな声が零れ落ちた。
ふと、先日のお茶会のときの会話が蘇る。
――だったら、私たちはお茶会をしていればいいの?
――そうよ。そしたら、いつかイアン様がこの場にやって来るわ。
現在の状況と照らし合わせて、今がまさにその『イベント』なのだろう。だけど……。
(ええっと、どうすればいいの……?)
シェーラは心の中で呟いた。『イベント』がユリアナとイアンが結ばれるのに重要なことは分かる。だけど、そういえば、『イベント』が発生したとき、具体的にどうすればいいのか聞いてなかった。
……どうしよう。
シェーラが迷っていると、ユリアナに「シェーラ」と呼びかけられた。彼女の方を見ると、にっこりとした笑顔で告げられる。
「そろそろお開きの時間じゃなかったかしら?」
その言葉に、違和感を覚えた。そもそもお茶会の主催はシェーラで、作法に則れば、終わりを決めるのはシェーラだ。それがイアンの前で、ユリアナの方から言われるなんて。作法をあまり気にしないのは、彼の前では良くないと伝えたし、以前お茶会をしたときにそのことを教えたから、知らないことはないはず……。
ふと、閃くものがあった。ユリアナが敢えてそうしたのなら、もしかして。
シェーラは口を開いた。
「ええ、そうね。――少し、用事があるのを忘れていたの。門まで送れないから……お義兄様にでもエスコートしてもらって」
「え?」
イアンの驚いたような声が耳を打つけれど、聞いてない振りをした。シェーラの言葉に、ユリアナは安堵したように胸をなでおろす。ということは、シェーラの選択は正しかったようだった。
きっとユリアナがお茶会の終わりを頼んだのは、イアンと二人きりにしてもらうためだろう。そのために、多少彼に顔を顰められようとも、作法を無視するような行いをしたのだ。……少し、胸がもやもやする。
そんなシェーラの心情などつゆ知らず、ユリアナは笑って言った。
「分かったわ。じゃあね」
「ええ。また手紙を送るわ」
シェーラは椅子から立ち上がり、戸惑うイアンと侍女をその場に残して去った。
……少し離れて、振り返る。仲良さげに並ぶユリアナとイアンの姿が目に入り、胸がつきりと痛んだ。だけどそれを無視するようにして、視線を逸らし、屋敷の中へ向かって歩き始める。
――その数週間後。イアンとユリアナが婚約した。
王宮から派遣されてきた教師たちが、様々なことをシェーラに教える。例えばダンス。シェーラのダンスの腕前は普通であるが、それでは王妃は務まらない。もっと優雅に踊れるように指導され、さらには普通の貴族の夫人ならば国から出ることなど滅多にないが、王太子妃や王妃となると外交もしなければならないため、他国独自の踊りも覚えなければならなかった。
そのため、ユリアナとのお茶会の時間がなかなかできず、やっと二回目のお茶会を開くことができたのは、一週間後のことだった。
ユリアナの持つティーカップがそろそろと、怯えたように置かれる。カチャ、と微かな音が響いた。その様子を見つめ、「ユリアナ」とシェーラが厳しい声で呼びかける。
「音は鳴らさないように置くの。こんな感じに、そっと、優しくね」
そう言いながら、シェーラも手に持った紅茶を置いてみせた。音は鳴らず、さらに流れるようなその動作に、ユリアナは「へぇー」と声を漏らし、首を傾げた。
「どうして鳴らないの?」
その質問に、シェーラはうーん、と唸る。どうしてと訊かれても、感覚的なことだからよく分からないのが正直なところだ。いつもどんなふうに動かしていたのか確かめるために、何度かその動作を空中でやってみたけれど、……分からない。結局「慣れ、かな?」としか言えなかった。ユリアナは「すごいわねぇ」と言うと、両肘をテーブルについて手のひらの上に顎を乗せた。
「そうかな……。私はユリアナと比べれば長く躾られてきたから……別に、すごくないと思うよ。いずれできるようになるわ。あと、肘をつくなんて行儀が悪いわよ」
「はーい、せんせー」
ユリアナはそう言いながら体を起こし、手を腿の上へ置いた。そのやる気のないふざけた返事に、「もう」とシェーラは声を発する。
「あなたが頼んだんでしょ? 作法とか教えて欲しいって」
そう言うと、ユリアナはあからさまに視線を逸らした。
「まぁ、そうだけど……えへ?」
「ユリアナ……」
シェーラは呆れた目でユリアナを見つめる。「だってぇ……」とユリアナはむっとした表情を浮かべた。どうやらもうめんどくさくなってしまったようで、はぁ、とシェーラはため息をつく。
「もうちょっと貴族だっていう自覚をね……。ユリアナはお義兄様の婚約者になりたいんでしょう? そんなんじゃダメよ」
「――はーい」
にへら、と笑うユリアナに、シェーラは大げさなため息をついた。もちろんわざとだ。それを分かってか、ユリアナも焦ることはせず、クスクスと笑う。
明るい笑い声が庭に満ちた。
コロコロと、可愛らしい鳥の鳴き声も降ってくる。その鳴き声を聞いて、ユリアナが「あ、そうだわ」と呟いた。手を動かし、ポケットの中をまさぐる。
取り出したのは、羽ばたく鳥が蓋の上部に乗った香水瓶だった。
「可愛いでしょ?」
そう言いながら、ユリアナはシェーラに香水瓶を渡す。シェーラは落とさないよう丁寧に触れながらそれを見つめ、首を捻った。
「可愛いというか……」
――芸術的。精緻な鳥は、可愛いというよりは美しいという言葉の方が似合っていた。
そんな感想を抱きながら、視線を下へと滑らす。香水瓶自体にもまた繊細な紋様が施されており、金属製の葉っぱがついた蔓が棒に絡みついていて、そのような棒がいくつもあった。そしてそれらは蓋と触れ合う部分まで伸びていて、その様はさながら、――鳥かご。
「芸術的……ええ、確かにそうかもしれないわね。だけどこの手に乗る感じが可愛いと思わない?」
「それって、小さいものなら全部可愛いってこと……?」
「そうかも」
クスクスとユリアナは笑った。その気持ちはあんまり分からないわ、と思いながら、シェーラは苦笑した。彼女といると本当に気が安らいで、なんてことないことでも楽しくなってくる。この忙しく、周囲がピリピリとしている中、彼女と会えるのは本当に良かった。
そんなことを思っていると、何を思ったのか、ユリアナが突然香水瓶の蓋を開けた。ふんわりと甘い香りが漂ってくる。
「どうしたの?」
「ふふ、この香りいいでしょっていう自慢よ」
ユリアナはそう言って、得意げに笑う。その香りは確かに、よく彼女から漂ってくるものだった。
「うん、確かに……」
甘く、優しく、とろけるような、たぶん何らかの花の香り。さすがのシェーラも、花の名前までは分からなかったけれど、珍しいものだとは察せられた。
「いったい、何の花なの? 多分貴重なものだよね?」
シェーラがそう尋ねると、ユリアナはへにゃ、と表情を崩した。
「よく知らないわ。これはね、大切な方からもらったの」
「大切な方?」
「ええ、そうよ。大切な方」
肯定の言葉を受け取って、シェーラは首を傾げた。大切な方……どんな方だろう? ユリアナからそんな人の話など、今まで聞いたことがなかった。
――そもそも、ユリアナが私以外と関わっている様子なんてなかったのに。そう思って、ちょっとだけもやもやする。何でだろう?
そう思っていると、ユリアナが話し始めた。
「私の大切な方はね、私を父様――イシュタール子爵に紹介してくれた方なの」
シェーラは首を捻った。どういうこと? 最近引き取られたとのことだから、イシュタール子爵が何かしたのだと思っていたのだけど……。
そんな疑問を見透かしてか、ふふ、とユリアナは笑う。
「あの方は母――子爵夫人じゃなくて実母が亡くなった直後に現れて、私をイシュタール子爵邸に連れて行ってくれたの。イシュタール子爵の子供だから引き取ってやってくれって言ってくださって……。あの方がいなければ、今の私はなかったわ」
ユリアナは嬉しそうに笑った。その方に恩を感じていることがありありと分かる。
だけど――。
「ねぇ、ユリアナ、その方は――」
「あれ? シェーラ?」
話の途中で声をかけられて、シェーラの心臓が跳ねる。恐る恐る視線を逸らすと、そこには王宮から帰ってきたと思われる義兄がいて。「お義兄様……」微かな声が零れ落ちた。
ふと、先日のお茶会のときの会話が蘇る。
――だったら、私たちはお茶会をしていればいいの?
――そうよ。そしたら、いつかイアン様がこの場にやって来るわ。
現在の状況と照らし合わせて、今がまさにその『イベント』なのだろう。だけど……。
(ええっと、どうすればいいの……?)
シェーラは心の中で呟いた。『イベント』がユリアナとイアンが結ばれるのに重要なことは分かる。だけど、そういえば、『イベント』が発生したとき、具体的にどうすればいいのか聞いてなかった。
……どうしよう。
シェーラが迷っていると、ユリアナに「シェーラ」と呼びかけられた。彼女の方を見ると、にっこりとした笑顔で告げられる。
「そろそろお開きの時間じゃなかったかしら?」
その言葉に、違和感を覚えた。そもそもお茶会の主催はシェーラで、作法に則れば、終わりを決めるのはシェーラだ。それがイアンの前で、ユリアナの方から言われるなんて。作法をあまり気にしないのは、彼の前では良くないと伝えたし、以前お茶会をしたときにそのことを教えたから、知らないことはないはず……。
ふと、閃くものがあった。ユリアナが敢えてそうしたのなら、もしかして。
シェーラは口を開いた。
「ええ、そうね。――少し、用事があるのを忘れていたの。門まで送れないから……お義兄様にでもエスコートしてもらって」
「え?」
イアンの驚いたような声が耳を打つけれど、聞いてない振りをした。シェーラの言葉に、ユリアナは安堵したように胸をなでおろす。ということは、シェーラの選択は正しかったようだった。
きっとユリアナがお茶会の終わりを頼んだのは、イアンと二人きりにしてもらうためだろう。そのために、多少彼に顔を顰められようとも、作法を無視するような行いをしたのだ。……少し、胸がもやもやする。
そんなシェーラの心情などつゆ知らず、ユリアナは笑って言った。
「分かったわ。じゃあね」
「ええ。また手紙を送るわ」
シェーラは椅子から立ち上がり、戸惑うイアンと侍女をその場に残して去った。
……少し離れて、振り返る。仲良さげに並ぶユリアナとイアンの姿が目に入り、胸がつきりと痛んだ。だけどそれを無視するようにして、視線を逸らし、屋敷の中へ向かって歩き始める。
――その数週間後。イアンとユリアナが婚約した。
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