愛するお義兄様のために、『悪役令嬢』にはなりません!

白藤結

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第一部

二章(2)

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 その日は朝から屋敷が緊張感に満ちていた。どこか忙しなく、ピリついた雰囲気。誰かが粗相をしたら一気に視線が集まって、大勢から叱責を受けてしまいそうだ、とシェーラは思った。
 そんな呑気なシェーラだが、一番の中心にいるのが彼女だった。一週間ほど前から屋外へ出ることをやんわりと止められるようになり、どこかへ行こうとする度に誰かしらがエスコートするようになった。
 その理由は、シェーラに怪我や病気をさせないためだった。もうすぐ初めての舞踏会。社交界デビュー。そこでとうとう、シェーラと王太子の婚約が正式に発表されるからだ。

 そして、今日がその日だった。



 ふぅ、とシェーラは小さくため息をつく。侍女に「お疲れですか?」と尋ねられ、慌てて「大丈夫」と答えた。――大丈夫。私はもう、お義兄様のことなんて愛していないのだから。
 だから、きっと、王太子殿下の横でも笑顔でいられる。

 シェーラはそう自らに言い聞かせ、鏡の中の自身を見た。化粧をしたためいつもより白い肌に、真っ赤な唇。黒い髪は後頭部で一つに結わえられ、ウェーブしながら垂れ下がっていた。そして側頭部にはいくつかの髪飾り。鏡には映っていないが、王太子の瞳と同じ薄い青色のドレスを纏ってもいる。この日のために作らせた特製の香水もつけられ、準備はほとんど終わっていた。

 自分でないようなその姿に、シェーラは少し眉を寄せた。……華美すぎるような気がする。確かに、あの王太子殿下の隣に立って見劣りしないためには、これくらいするしかないかもしれないけれど……。

 うんうん唸っているシェーラに気を止めず、侍女たちは最後の仕上げとばかりに首飾りと耳飾りをつけ始めた。どちらも深い青の宝石でできたもので、シェーラの胸がどきりと跳ねる。ドレスと少しだけ違うその色は、王太子ではなく別の人を思い起こさせた。そっと目を伏せる。

(別に、なんとも思ってないわ……)

 そう、なんとも思っていない。お義兄様のことなんて、これっぽっちも。
 そんなことを考えている間に、しゃらん、と音を立てて首飾りと耳飾りがつけられた。これで用意は終わり。

「お嬢様、では――」
「ええ、分かってるわ」

 侍女の言葉を止めて、シェーラは椅子から立ち上がる。ふんわりと裾が広がり、侍女たちの感嘆の声が耳を打った。
 それでもあまり嬉しくない。そう思ってしまう自分が情けなくて、嫌いだった。

 シェーラは考えを払うように、小さく頭を振る。しゃらん、と耳飾りが鳴った。今はそんなこと考えている場合じゃない。これから社交界デビューで、王太子殿下との婚約が発表される。他の令嬢に隙を見せないようにしなければならないのだから。
 緊張感を胸に、侍女に部屋の扉を開けさせた。そこには――。

「シェーラ」
「お義兄様……」

 予想外の人物がいて、シェーラは視線を彷徨わせる。シェーラと同じように煌びやかな衣装を纏い、優しい笑みを浮かべたイアンと、あまり目を合わせたくなかった。
 ……沈黙が降りる。シェーラがどうしようか悩んでいると、すっと目の前に手が差し出された。

「行こうか」
「……はい」

 義兄の手を取り、シェーラはゆっくりと歩き始めた。
 エントランスへ向かっている間、シェーラはずっと黙りこくっていた。ばくばくとうるさい心臓を宥めるのに必死で、他のことなど気にしてられなかったのだ。
 静かに、ゆっくりと二人は歩みを進める。エントランスでは同じように着飾った義父が待っていた。

「おお、シェーラ! イアン! 待ちくたびれたぞ!」
「申し訳ございません、お義父様――」
「そんなことより、早く行こうではないか!」

 義父はわくわくと楽しそうにそう言った。どうやら緊張とかは感じていないらしい。いつも通り――いや、いつも以上に明るい義父に、シェーラは自然と笑みを零した。
 ――だけど。すっと目を伏せ、表情を消す。これから行くのは、舞踏会。シェーラと王太子の婚約が発表される場だ。
 無意識のうちに、シェーラは空いた右手できゅ、とドレスの裾を握りしめた。――胸が痛いのは、きっと何かの間違い。そう言い聞かせることしか、今のシェーラにはできなかった。


△▼△


 伯爵家の馬車に揺すられ、舞踏会の会場である王宮へと向かう。
 多くの子女の社交界デビューを兼ねたシーズン初めの舞踏会は、王族が王宮で主催するのが毎年恒例であり、今年もその例にもれなかった。喪中や事故などやむを得ない場合を除き欠席をすることは許されないため、国内の貴族全てが一同に集まると言っても過言ではない。

(だからこそ、王太子殿下の婚約を発表するのにこれ以上の場はない……)

 ぽつり、とシェーラは心の中で呟いた。胸が切なくて仕方がない。

「シェーラ? どうかした?」

 心配げなイアンの声が耳を打つ。下に向いていた視線を慌てて上げると、眉根を寄せた義兄がシェーラを見つめていた。しゃらん、と耳飾りが揺れる。

「――少し、緊張してしまったようです」

 そう言って、シェーラは困ったような笑みを浮かべた。緊張してしまっているのは、本当。本当でなければならない。
 けれども、その返答にイアンは満足しなかったよう。苦しげな、切なげな表情を浮かべてこちらを見つめていた。
 そんな彼を見て、シェーラも僅かに顔を歪める。――心配をかけないようとしたのに。また間違ってしまった?
 少し重たい空気が馬車を包む。そのとき、明るい笑い声が響いてきた。

「はっは! シェーラ、そんなに緊張しなくても大丈夫だ! なんて言ったっておまえは王太子殿下の婚約者なのだからな!」

 義父は大声で笑い、体を揺すった。シェーラは自然と笑みを零す。「そうですね」と言葉を発すると、少しだけ安心した。……少しだけ。
 すると、イアンが「シェーラ」と厳しい声で呼ぶ。

「そんな楽観的な考えじゃ――」
「大丈夫ですわ、お義兄様」

 イアンの言葉を遮り、シェーラは彼に笑いかけた。その表情はどこか歪で、青白く、「大丈夫」なんていう顔ではなかった。自らに言い聞かせるように、もう一度呟く。

「大丈夫です」

 ――本当は大丈夫なんかじゃなかった。王太子の隣に立たなければならないことが辛くて、苦しくて、今すぐ逃げ出してしまいたい。だけど、それがシェーラに課せられた役割だから。それがシェーラが望んだ義兄の幸せに繋がることだから。だから、大丈夫だと言い張る。
 そんなことイアンは分からないだろうけど、何かしらをシェーラから感じたのか、口を噤んだ。

 ……少し居心地が悪くなった、そのとき。ガタリ、と音を立てて馬車が止まった。おそらく王宮の門に着いたのだろう。そう判断した後、馬車が再び走り始めた。門番に招待状を見せ、中に入る許可をもらったと思われる。つまり、――ここはもう王宮の敷地内。婚約発表まであと少し。
 ぶるりとシェーラは身を震わせた。なんでだかは、分からない。分からないけど、……怖い。

「シェーラ? 本当に大丈夫? 気分が悪いのなら、このまま帰っても……」
「イアン、何を言ってるんだ!」

 義父が怒鳴る。シェーラは声につられて義父を見た。彼はありえないものを見るような目でイアンを見ている。

「シェーラが帰って、王太子殿下のご不況を買ったらどうする!」
「ですが、父上、それよりもシェーラの体調が――」
「それより? 何を言ってるんだ、イアン! 王太子殿下の方が優先されるに決まっているだろう!?」

 義父のその言葉に、シン、とした沈黙が馬車の中に満ちる。馬車の車輪の音や、舞踏会に来た貴族たちの喧騒が、やけに大きく聞こえた。
 ……しばらくして、馬車が再度止まる。すぐに馬車の扉が開かれた。従者に促され、義父が足音を大きく立てながら降りていく。
 シェーラは内心気まずい空気から解放されたことにほっとしていた。すると、目の前に手を差し出される。

「シェーラ」
「――はい」

 左手を重ね、イアンにエスコートされて馬車を降りる。そこには多くの馬車があり、年齢性別問わず多くの貴族がいて、皆が王宮へ向かって談笑しながら進んでいた。ドレスに縫いつけられた宝石がキラキラと輝き、眩しい。シェーラは思わず目を細めた。
 シェーラが感慨深げに辺りを見回している間も、苛立った義父は止まってくれない。十数歩離れたところから急かすように「シェーラ!」と呼んでいる。シェーラは慌てて、共に立ち止まってくれたイアンと共に義父の元へ向かった。
 そのとき。

「シェーラ! イアン様!」

 久しぶりに聞く声が後ろからかけられる。シェーラとイアンは共に振り返った。
 そこにはピンクゴールドの髪をいつもとは違いハーフアップにして、薄ピンクのドレスを着たユリアナがいた。

「ユリアナ」
「久しぶりね、シェーラ。元気にしてた?」

 ユリアナはそう言って、近寄ってくる。ふんわりといつもと同じ甘い香りがした。

「うん、もちろん。ユリアナは?」
「私もよ」

 くすくすと笑うユリアナに、シェーラは思わず口元を緩める。彼女といると、不思議と心が安らぐ。今まで感じていた不安や恐怖なんて、どこかに行ってしまった。
 そう思っていると、「ユリアナ嬢」という心地よい声が耳朶を打つ。

「お久しぶりです。婚約式以来あまり会うことができず、申し訳ありません」
「いいえ。イアン様にも仕事があることは分かってますから」
「ありがとうございます」

 和やかに会話する二人に、シェーラの胸が苦しくなる。思わずきゅ、とドレスの裾を握りしめた。
 すると、ポン、とシェーラの肩が叩かれる。

「君がユリアナ・イシュタール嬢かな?」

 義父だった。シェーラとイアンが立ち止まって話し始めたのを見かねて戻ってきたよう。
 ユリアナはシェーラの隣を見ると、にこりと微笑んだ。ゆっくりと腰をかがめ、淑女の礼をとる。

「初めまして、アルハイム伯爵様。ユリアナ・イシュタールと申します」
「そうか、そうか。うちの息子たちが世話になってるよ」
「いえ、こちらこそお世話になっております」

 意外にも丁寧に、令嬢らしい対応をするユリアナに、シェーラは目を見開いた。最近会っていなかったけれど、こんなに成長するなんて。まるで生まれたときから貴族として養育されてきたような仕草に、素直に感嘆の声を小さく漏らした。
 そのとき、イアンが尋ねる。

「ユリアナ嬢、ご両親は?」

 ユリアナは困ったように微笑んだ。

「実は二人とも体調を崩してしまって……。今日は私だけなんです」
「おお、それなら共に行こうではないか! 君も一人では寂しいだろう?」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

 その返事に、義父がイアンの脇腹を突く。イアンがよろめいて、今まで何気なく触れたままだった彼の手が、するりと離れた。遠さがる熱に、思わず手を伸ばそうとして、やめる。シェーラよりも、婚約者であるユリアナの方が優先されるのは当然のことだった。
 だけど、それでも……。

「では行こうか。シェーラ、手を」
「……はい」

 義父の手をとり、シェーラは歩き始める。直前、ちらりと見えた後ろでイアンとユリアナが手を重ねていた光景が、瞼の裏から離れなかった。

 ――だから、周りからこそこそと噂話をされていることにさえ気づかなかった。
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