CLUB K.E.E.Gの純愛

某千尋

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第三話

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 忙しい日々が続いていた。
 板倉に予告されていた案件は処理すべき事柄が多く、結局事務所の弁護士のほぼ全員で処理に当たることになった。ひいひい言いながらもやっと一段落ついて、久しぶりに早めの時間に帰宅することにした秀亮は、近道になるからと繁華街を歩いていた。
 秀亮は、連日の睡眠不足で一刻も早く帰宅したかった。油断すると降りてこようとする目蓋を叱咤し早足で歩く。
 まさか、そこで信じられないものを目撃するとは思わずに。

「ゆり……?」

 先ほどまで今にも活動を辞めそうだった脳が覚醒する。
 ふと、なんの気なしに前方を見やったときに、あるカップルが目に入ったのだ。目に映った光景に秀亮は言葉を失う。
 見知らぬ男と腕を絡ませて歩いているのは、秀亮の彼女の永島友梨だった。仲睦まじく歩く様子は、恋人同士にしか見えない。
 
 司法修習時代に友人からの紹介で知り合って付き合い始めた友梨は秀亮の二つ年下で、秀亮がそろそろ結婚を、と考えていた相手だった。
 忙しい中できるだけ時間を作り、いい関係を築いてきたはずだった。少なくとも、秀亮は二人の関係は順調だと思っていた。ちょうど明日会う予定があって、これからの話をしようと考えていた。
 しかし視界に入るのは、およそ友人とは考えられない距離で自分以外の男に寄り添う彼女。

 秀亮は二人の様子を、ドラマのワンシーンでも眺めるような心地で見ていた。早鐘のように鳴る心臓とはちぐはぐに冷静な頭は、これは浮気であると結論を出した。だが、果たしてどちらが浮気なのだろう、と次の疑問が生まれる。自分が浮気相手なのではと思うくらいに、秀亮の目に二人は親密に見えた。
 そうこうするうちに二人は煌びやかな装飾がされた建物に消えていった。決定的だった。

 しばらく呆然と立ち尽くしていた秀亮は、睡魔を思い出し歩き出す。
 秀亮の頭の中には様々な疑問が渦巻いていたが、今の頭の状態では考えても仕方がないと、まずは休むことを優先した。
 しかし、強く握った拳には汗がにじみ、引き結んだ口にはやるせない気持ちが表れていた。






 帰宅したらすぐに風呂に入って寝てしまおう、そう考えていたはずだった。
 しかし、帰宅してすぐ目に入ったものを見て、秀亮は頭の隅においやっていたはずの先ほどの光景を思い出してしまった。

 旅行先で撮った記念写真。秀亮も友梨も屈託のない笑顔で腕を組んで写っている。
 それは去年のものだった。ゆっくり温泉に浸かりたい、けれど買い物も楽しみたい。そんな友梨の希望を叶えるために赴いた軽井沢。
 紅葉のシーズンを少し外したからそこまで混んでいなくて。それでも残った紅葉は美しく、その艶やかな景色をバックに近くにいた人に撮ってもらったことを思い出す。
 普段は現像なんてしない。けれど、あまりに景色が綺麗だからと、二人で現像してそれぞれの家に飾ろうとはしゃいだ記憶。
 軽井沢アウトレットパークは思っていたよりもずっと広くて、一日じゃ足りないね、なんて笑いあって。

 たった一枚の写真を見るだけで、鮮やかな思い出が溢れてくる。
 それと同じくらい明確に、彼女の浮気の場面が頭に浮かぶ。振り払おうとしてもこびりついて離れない。
 秀亮はなにかが込み上げてくるのをぐっと堪えて洗面所へ向かう。

「ああ……」

 思わず声がこぼれたのは、二つ並んだ歯ブラシが目に入ったから。秀亮は青で、彼女はピンク。その横には彼女のお泊まりセット。
 秀亮はなにかから逃れるように身を翻してリビングへ足を向ける。

 ふわふわのスリッパ。お揃いのマグカップ。

 家のそこかしこに残る彼女の痕跡。

 秀亮は力無くソファに身を預ける。ローテーブルには最近買った分厚い雑誌。結婚するなら必要だと思って購入したもの。

 最近は婚約指輪を事前に準備するのではなく、プロポーズしてから一緒に買いに行くのが主流だなんてコラムを見て、先走って買わなくてよかったと安堵したのが遠い昔のようだった。ほんの、つい最近のことなのに。
 プロポーズの後の両家顔合わせの手順も予習した。気になるところには付箋を貼って。このブランド好きそうだな、このドレスが似合いそうだな、なんてページを捲るたびに友梨の顔を思い浮かべた。

 もうすぐ、二人で幸せになるはずだった。

 友梨はずっと秀亮と同棲したがっていた。弁護士になるタイミングで一緒に暮らすことは考えた。
 けれど、それまで実家暮らしだった秀亮は、一度は一人で生活してみた方がいいだろうと考えた。ある程度生活のペースが掴めてから改めて考えようと。友梨は不満そうだったが、まずは自活力をつけたいのだと説得した。
 そうやって気付いたら二年が過ぎて、三年目に突入していた。
 仕事が忙しく、時間が過ぎるのはあっという間だった。

 それがいけなかったのだろうか。遅かったのだろうか。待たせ過ぎてしまったのだろうか。

 頭の中をぐるぐる回る思考が詮無いことなのはわかっていても、考えることをやめられない。

「っう……」

 込み上げてくる嗚咽。

 もしそうなら、振って欲しかった。直接言って欲しかった。
 秀亮が不甲斐ないとしても、浮気するのは違うだろう。

 どうするのが正解なのか。別れをすぐ決められるほど、友梨と積み重ねたものは軽くなかった。ただ、今後彼女を信用できるとも思えなかった。
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