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第二話
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「あー、最近休まる暇がないな。長谷川先生、そっちはどう?」
いつものように淡々と仕事をしていた時。
隣のブースで執務をする板倉斗真が声をかけてきたので、秀亮はパソコンへ向けていた目を声の方へ向ける。
パーテーションの上に腕を乗せ、その上に疲れた顔を置いた板倉と目が合う。僅かに生えた髭が疲労を漂わせている。少し垂れた目尻が人の良さを感じさせ、つい気を許してしまうような穏やかな空気を纏っている。こういうのは真似できるものはないんだよな、と思いながら、彼につい気を許してしまう一人である秀亮は苦笑いを浮かべつつ答えた。
「まあ、暇ではないですね。忙殺されるほどでもないですけど」
板倉と秀亮は、事務所の先輩と後輩の関係にある。板倉は秀亮よりも八期上の弁護士で、面倒見が良いため入所して二年くらいはしょっちゅう飲みに出かける仲だった。酒の趣味も合うので、そのことを喜んだ板倉に秀亮一人では気後れするような店によく連れて行ってもらっていた。ここ最近は、板倉が半年前に結婚したのもあってめっきりだったが。
「完全に集中力切れちったよ。つーかさ、ちょうど長谷川先生が期日出てる時にボスから近々でかい事件くるから今のうちに投げられる球は投げとけって言われたんだよ。長谷川先生も準備しといてな」
「マジですか。それ、俺もメンバーに入ってる感じですか」
「当然。俺からボスに、長谷川先生には俺から言っときますーって言ったらよろしくって言われたしな」
「あー、じゃあちょっと予定繰り上げて書面仕上げないと。急ぎっぽい感じですか?」
「ああ。そこそこの規模の会社の破産案件っぽいんだわ。小売系ぽいから、やることたくさんだぞー」
「ガチで急ぎのやつじゃないですか。板倉先生、俺と喋ってる場合じゃないんじゃないですか?」
まじそれな、と言いながらも板倉は退かない。よっぽどやる気が削がれてしまったらしい。弁護士十一年目の板倉は、事務所では中堅ともいえる立場になってきて忙しさも増している。ほんの二、三年前には目立たなかった白髪もちらほらと目に入るようになり、その心労は秀亮にも察せられた。
秀亮が所属する事務所は弁護士が十二名の、都内では中規模程度の事務所である。急ぎの案件や人員を要するような案件以外は個別の担当弁護士がそれぞれ単独で処理に当たるスタイルを取っている。新人の頃は比較的処理しやすい案件が回されるが、経験年数が増えるほどに振られる案件の難解さは増していくので、板倉が抱える案件は頭を悩ますものが多いはずだ。急に老け込んだと感じるのも、仕事の気苦労からだろう。他方で、積み重ねた経験による貫禄も身につけていて、依頼人からの受けは良かった。事務所内の若手の弁護士からすると、板倉は頼りになる先輩だった。
秀亮自身、身近で目標とすべき弁護士を挙げるとしたら迷わず板倉の名を出すくらいには強い信頼を寄せている。
「最近さー、忙しくて夜帰るの遅いから奥さんの機嫌が悪いのよ。新婚なのに! ってさ。わかってるんだけど、なかなかなぁ」
「あー……お察しします。そういや俺も最近彼女に会えてないな……。辛いですね、お互い」
「俺だって早く帰れるなら帰りたいんだけどなぁ。仕事柄なかなかそうはいかないよなぁ。つか彼女って前言ってた子だよな? 結構付き合い長いんだよな?」
「もう三年になりますかね」
「おー。そしたら、ぼちぼちか?」
「そうですね。そろそろかなと思ってます」
「いいねえ。結婚したてなのに帰りが遅くて怒られてばっかの俺が言うのもなんだが、結婚はいいぞぉ。奥さんのためと思えば辛い仕事も頑張れる」
弁護士としての仕事にも慣れてきて、秀亮は彼女と次のステップへ進もうと考えていた。板倉がつい最近結婚したばかりだということを考えるとまだ早いような気もするが、弁護士になると同時に結婚した同期もいる。こういうのはそれぞれのタイミングであって、秀亮にとってはそれが今だった。
頭の中に浮かぶのは彼女の屈託のない笑顔。プロポーズをしたら、きっとあの柔らかい笑顔を見せてくれる。しばらく見ることのできていないその顔を見るためと思えば、仕事にも身が入るというものだ。
「そうですね。それじゃ彼女のためにも、仕事片付けなきゃなんで、そろそろ」
「冷たいなぁ。まあ、馬に蹴られちまうから退散するよ。俺も今日こそは早く家に帰るんだ」
「板倉先生……それ、フラグって言うんですよ」
肩を竦めた板倉は、そんなもんはきっちり折ってやるよ、と言いながら手をふらふらと振って隣の席へ戻っていった。よし! という声とともにパチンと何かが弾けるような音が聞こえたので、きっと気合を入れたのだろう。
集中した板倉の仕事は早い。負けてはいられないと秀亮も深呼吸してからパソコンへ向かう。
秀亮は中断していた書面の作成を再開し、キーボードを軽やかに叩きながら今抱えている案件を思い浮かべる。大きな案件とやらが入る前に片付けられる仕事は片付けなければと思いながら脳内でスケジューリングしていく。
やりがいのある仕事に、頼りになる先輩。プライベートも充実しており、秀亮の人生はまさしく順風満帆。環境に恵まれていたのはもちろんのこと、努力を惜しまない真面目な気質も助け、秀亮は確実に結果を出してきた。
これまで挫折らしい挫折をしたことがない秀亮は、自身の未来について悲観することなどなかった。
今後も順調な人生が待っていることを疑うこともなかった。
いつものように淡々と仕事をしていた時。
隣のブースで執務をする板倉斗真が声をかけてきたので、秀亮はパソコンへ向けていた目を声の方へ向ける。
パーテーションの上に腕を乗せ、その上に疲れた顔を置いた板倉と目が合う。僅かに生えた髭が疲労を漂わせている。少し垂れた目尻が人の良さを感じさせ、つい気を許してしまうような穏やかな空気を纏っている。こういうのは真似できるものはないんだよな、と思いながら、彼につい気を許してしまう一人である秀亮は苦笑いを浮かべつつ答えた。
「まあ、暇ではないですね。忙殺されるほどでもないですけど」
板倉と秀亮は、事務所の先輩と後輩の関係にある。板倉は秀亮よりも八期上の弁護士で、面倒見が良いため入所して二年くらいはしょっちゅう飲みに出かける仲だった。酒の趣味も合うので、そのことを喜んだ板倉に秀亮一人では気後れするような店によく連れて行ってもらっていた。ここ最近は、板倉が半年前に結婚したのもあってめっきりだったが。
「完全に集中力切れちったよ。つーかさ、ちょうど長谷川先生が期日出てる時にボスから近々でかい事件くるから今のうちに投げられる球は投げとけって言われたんだよ。長谷川先生も準備しといてな」
「マジですか。それ、俺もメンバーに入ってる感じですか」
「当然。俺からボスに、長谷川先生には俺から言っときますーって言ったらよろしくって言われたしな」
「あー、じゃあちょっと予定繰り上げて書面仕上げないと。急ぎっぽい感じですか?」
「ああ。そこそこの規模の会社の破産案件っぽいんだわ。小売系ぽいから、やることたくさんだぞー」
「ガチで急ぎのやつじゃないですか。板倉先生、俺と喋ってる場合じゃないんじゃないですか?」
まじそれな、と言いながらも板倉は退かない。よっぽどやる気が削がれてしまったらしい。弁護士十一年目の板倉は、事務所では中堅ともいえる立場になってきて忙しさも増している。ほんの二、三年前には目立たなかった白髪もちらほらと目に入るようになり、その心労は秀亮にも察せられた。
秀亮が所属する事務所は弁護士が十二名の、都内では中規模程度の事務所である。急ぎの案件や人員を要するような案件以外は個別の担当弁護士がそれぞれ単独で処理に当たるスタイルを取っている。新人の頃は比較的処理しやすい案件が回されるが、経験年数が増えるほどに振られる案件の難解さは増していくので、板倉が抱える案件は頭を悩ますものが多いはずだ。急に老け込んだと感じるのも、仕事の気苦労からだろう。他方で、積み重ねた経験による貫禄も身につけていて、依頼人からの受けは良かった。事務所内の若手の弁護士からすると、板倉は頼りになる先輩だった。
秀亮自身、身近で目標とすべき弁護士を挙げるとしたら迷わず板倉の名を出すくらいには強い信頼を寄せている。
「最近さー、忙しくて夜帰るの遅いから奥さんの機嫌が悪いのよ。新婚なのに! ってさ。わかってるんだけど、なかなかなぁ」
「あー……お察しします。そういや俺も最近彼女に会えてないな……。辛いですね、お互い」
「俺だって早く帰れるなら帰りたいんだけどなぁ。仕事柄なかなかそうはいかないよなぁ。つか彼女って前言ってた子だよな? 結構付き合い長いんだよな?」
「もう三年になりますかね」
「おー。そしたら、ぼちぼちか?」
「そうですね。そろそろかなと思ってます」
「いいねえ。結婚したてなのに帰りが遅くて怒られてばっかの俺が言うのもなんだが、結婚はいいぞぉ。奥さんのためと思えば辛い仕事も頑張れる」
弁護士としての仕事にも慣れてきて、秀亮は彼女と次のステップへ進もうと考えていた。板倉がつい最近結婚したばかりだということを考えるとまだ早いような気もするが、弁護士になると同時に結婚した同期もいる。こういうのはそれぞれのタイミングであって、秀亮にとってはそれが今だった。
頭の中に浮かぶのは彼女の屈託のない笑顔。プロポーズをしたら、きっとあの柔らかい笑顔を見せてくれる。しばらく見ることのできていないその顔を見るためと思えば、仕事にも身が入るというものだ。
「そうですね。それじゃ彼女のためにも、仕事片付けなきゃなんで、そろそろ」
「冷たいなぁ。まあ、馬に蹴られちまうから退散するよ。俺も今日こそは早く家に帰るんだ」
「板倉先生……それ、フラグって言うんですよ」
肩を竦めた板倉は、そんなもんはきっちり折ってやるよ、と言いながら手をふらふらと振って隣の席へ戻っていった。よし! という声とともにパチンと何かが弾けるような音が聞こえたので、きっと気合を入れたのだろう。
集中した板倉の仕事は早い。負けてはいられないと秀亮も深呼吸してからパソコンへ向かう。
秀亮は中断していた書面の作成を再開し、キーボードを軽やかに叩きながら今抱えている案件を思い浮かべる。大きな案件とやらが入る前に片付けられる仕事は片付けなければと思いながら脳内でスケジューリングしていく。
やりがいのある仕事に、頼りになる先輩。プライベートも充実しており、秀亮の人生はまさしく順風満帆。環境に恵まれていたのはもちろんのこと、努力を惜しまない真面目な気質も助け、秀亮は確実に結果を出してきた。
これまで挫折らしい挫折をしたことがない秀亮は、自身の未来について悲観することなどなかった。
今後も順調な人生が待っていることを疑うこともなかった。
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