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《19》月とミドリガメ(3)

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 先週はデータ入力ミスがあったものの、なんとか大きな失態とならずに締切を守ることができた。
 相変わらず年末年始のセールに向けて社内が慌ただしい雰囲気に包まれているが、落ち着いて集中して仕事に向き合えば特に大変なことではない。
 過去のデータをカテゴリー別に分けて表にし、図やグラフを使ってわかりやすくまとめる。

 いつも通り黙々と時間通りに終わるよう仕事をこなしていく。

 今日は金曜日。この日は終業後に着付けの稽古があるということで、特に時間を気にして仕事をしている。
 セールイベントの企画案は無事に部内で企画書をまとめて社長ら幹部に提出してあり、今はその返答待ちだ。繁忙期のつかの間の休息時間でもある。

 今日は久しぶりに社食でランチにしようと、オフィスビル二階の食堂へと向かった。いつも注文する日替わり定食を注文し、トレーに受け取って窓際の席へ座る。

 この時期限定のカキフライ定食に舌鼓をうっていると、二つ隣の席でひかりの姿が見えた。
 社交的で明るくて先輩からも後輩からも慕われているひかりは、常に人だかりの中心にいる。

(あ、清澄部長だ)

 通りかかった大和がひかりに何か話しかけている。時折笑みを浮かべながら談笑する二人を、まるでドラマを見るような気持ちで見つめた。

(すごく、お似合いだな……)

 育ちもよく人当たりの良い美人なひかりと、優秀で二つの職を器用にこなす大和。見た目も中身もつり合いがとれていて、誰がどう見ても並び立つ二人は様になっていた。

 ――地味で可愛くなくて何も持っていない自分とは大違いだ。

 胸に大きなナイフが突き刺さったかのように苦しくなった。
 先ほどまでは大きくてクリーミーな牡蠣を美味しく感じていたのに、急に味気がなくなってしまった。


 その後もそつなく仕事をこなし、着付け教室へと向かう。
 大和とは未だに少し決まずいし、どこか気分は晴れないし……瑛美の心は曇り空だ。
 しかし稽古を休むわけにはいかない。良い大人なのだから、自分の機嫌は自分でとらなければ。

 鬱々とした気分を跳ね返そうと美しい夜景を見ながらエレベーターを昇っていく。
 ポンという到着音とともに扉から飛び出すと、目の前に待っている人がいることに気がつかず、肩がぶつかってしまった。

「ごめんなさいっ、不注意でした」
「いいえ、大丈夫よ。今からお稽古かしら。頑張ってくださいね」

 そう穏やかな声音で声をかけてくれた高齢のご婦人は、銀鼠色の着物を着こなした気品のある女性だった。

(あの人、どこかで見た気がする……あ、確か学院長だ。ホームページに掲載されていた記憶がある)

 倭の国きもの学院に入会申し込みをする際に、インターネット上に顔写真付きで載っていた。
 やはり学院長は立ち振る舞いから声までもが品があるなぁと感心しながら、稽古に必要な着物と帯を選ぶ。

 今からは切り替えてしっかりと着付けを学ばなくては……! と自分自身を鼓舞して、教室のふすまを開けた。
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