造花の開く頃に

有箱

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12月29日

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[12月29日、木曜日]
「美味しい、上手だね譲葉くん」

 朝食のデザートとして、昨夜譲葉が作ったシンプルなカップケーキを頬張る。弁当用のアルミに入ったケーキは甘く、仄かにバターの風味が香った。

「……いや、全然だ。お菓子が作れる人はすごいな……」
「でもこれ初めて作ったんだよね……? すごいよ」

 譲葉は褒め言葉に照れているのか何も言わず、味見と称し、アルミを捲った部分に齧り付いた。
 久しぶりの甘味に、心が癒される。
 それに今日は、休み前最後の出勤だ。あと一日だと思うと頑張ろうと思える。

「……今日も帰り遅くなると思うから、眠くなったら先に寝ててね」
「……いや、起きてる」

 譲葉の視線が僅かに上がり、目が合った直後緩やかに下ろされた。昨夜の涙と笑顔を重ねて、無表情の譲葉を見詰める。
 譲葉の顔色は、相変わらず何も悟らせない。しかし読めなくとも、譲葉の心中に悪心が無い事ははっきり信じられる。

 月裏は昨夜の出来事を思い出し、改めて恥ずかしさを覚えた。赤面してしまいそうになり、慌てて視線を他へ遣る。すると、レンジの上に天板ごと置かれたカップケーキが目に入った。

「……もう1個食べていい?」
「…………あぁ、ぜひ食べてくれ」

 表現し得ない気持ちが胸の中を満たしていて、どういった表情でいれば良いのか分からなかった。

 職場の人間は、今日も疲れている。空気感だけで分かるほど疲労困憊している。
 上司も同僚もラストスパートをかけて業務に取り込み、新しい年を迎えられるよう必死だ。
 月裏も何時も以上に意気込んで、用意された仕事を片付けてゆく。もちろん、叱られないよう注意しながら。

 それでもミスは発生し、最後の日まで怒鳴られる破目になってしまった。
 時計の秒針が、音も無く移動してゆく。長い長い一分を横目で追いかけて、時間の経過を願って席に身を置いて、終わりまでの大体の時間を計測してみたりする。
 そうして一時間、また一時間と辛い時間は更けてゆき、時計は10時を回っていた。

 途中、上司の簡易的な挨拶があったが、疲れた頭の中にはあまり深く入ってこなかった。
 上司の転勤が本物である実感と、それと共に生まれた喜びと、部下への感謝の胡散臭さを感じただけのスピーチだった。

「お疲れ様です」

 窓の外が暗い闇に包まれ、辺りが静かになって行き、仕事が全て片付く頃には11時を超えていた。
 パートは全て帰宅し、社員も消えてゆく中、月裏も流れに乗って外へ出る。
 終わった。これであの人ともお別れできる。社外へ踏み出した時、達成感が初めて月裏を満たした。入社して早6年程になるが、はじめて清々しい気持ちで終われる。

 帰って、眠って、明日も譲葉と話をしよう。たくさん話をして、心を通わせよう。
 無益な話も貴重な話も、話したい事全て、滅裂に織り交ぜて話そう。
 月裏はメールで連絡を入れてから、譲葉を待たせないよう、まず駅へと小走りし始めた。

 月はどこに消えたのか、辺りは真っ暗だ。どこからか聞こえてくる木枯らしの吹く音が、空気の鋭さを実感させる。
 人工的な灯りが所々を照らし、道の先を教える。返信の確認がてら時刻を確認すると、11時30分を超えようとしていた。頭がぼんやりとしてきて、段々眠くなってきた。

 ――街灯が照らす交差点に差し掛かった時だった。
 横の塀が途切れた瞬間、少し遠く、軽乗用車が目の中に飛び込んだ。
 急速に近付く車から、眩しい光とブレーキ音、クラクションの五月蝿い悲鳴が聞こえてきて耳を劈いた。

 ――――大きな心臓の音が、内側から轟く。背中が痛い。足が震える。頭が真っ白だ。
 月裏は反射的に壁寄りに退き、強く背中を打ち付けていた。車は逆方向にハンドルを切り、僅かに車体を擦って止まった。

 停車した車両の赤い点滅が、ちかちかと目を刺激する。呆然と立ち尽くしたまま、鼓動を聞く。
 事故は起こらなかった。接触はぎりぎり回避され、個々で負傷を負った程度に留まった。

「す、すみません! 大丈夫ですか!」

 少し渋めの男性の声が聞こえてきて、月裏は漸く我に返る。目を上げた先には、スーツ姿の中年男性がいた。

「……怪我は……」

 男は混乱した様子だ。もしかすると、事故の経験が無いのかもしれない。

「……大丈夫です……当たっていないので……失礼します……」

 月裏は戸惑う男をみながら、全く別の事に思考を奪われていた。面倒ごとが怖くて、適当に言葉を重ねてゆく。
 困惑する男など見ないまま、まだ震えている足でその場を後にした。

 真っ暗な無人の道に差し掛かり、月裏は蹲っていた。まだ、心臓が大きく鳴り続けている。
 目の前を高速で横切り、停止した車。瞬間的な記憶が何度も繰り返されて、鮮明な感情を呼び起こす。

 今まで味わった事の無い、生理的な涙が溢れ出した。
 長きに亘り抱いてきた願望と真逆の本能に、自分自身驚いてしまっている。
 死にたくないと思った。死ぬのが怖いと思った。まだ生きていたいと思った。

 動けず蹲っていると、鞄の中の携帯が着信メロディを鳴らした。
 急な音に驚きつつ応対すると、静か過ぎる譲葉の声が聞こえてきた。

≪……月裏さん今どこだ?≫

 心配そうな声色を深くしないよう、月裏はわざと声に明るさを携える。

「……ごめん、遅いから心配させちゃったかな?」
≪…………どうかしたか?≫

 しかし、演技は簡単に見破られてしまった。
 震える声を極力平常にし、一人切りの空間で笑顔まで作って平気になりきる。

「…………ううん、なんでも……今から帰……」

 そうして立ち上がろうとした瞬間、足が動いてくれない事に気付いた。力が入らなくて立てない。
 また、感情が飽和する。紛れもなく自分が抱いていると分かるのに、理解しがたい。
 本当は死にたくなかったなんて、死を怖がっていたなんて。体全部が拒否するほど、死を恐れるようになっていたなんて。
 どれもこれも、全部、全部。

「…………ごめん譲葉くん……嘘…………今、ね……車とぶつかりかけて……ね……」
≪えっ!?≫
「……ぶつからなかった、んだけど……ね……急に、腰が……抜けちゃって……だから、まだ、もう少し……」
≪……今はどの辺だ?≫
「……家の近く……暗いとこ……」
≪直ぐに行く、待っていろ≫
「……うん……」

 ――――全部、譲葉が連れて来た。
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