さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ

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二章

10

心の糸がぷつんと切れた。

言ってはいけない一言だった。
踏み越えてはいけない一線だった。
人ではなくなったレクセル侯爵令息には、それがわからなかったのだ。

涙が溢れた。
怒りが込み上げて、それも溢れた。

私は身を翻し、拳を握りしめてレクセル侯爵令息を睨んだ。
永遠に結ばれた恋人たちは、ただ、驚いていた。他人事だから、当然だ。

「私はさよならを言われたのよ!」

永遠の愛を手に入れたばかりの人に、この気持ちがわかるはずない。

「あなたとは違う!選ばれなかったの!どんなに短くても愛されずに生きる人生もあるのよ!私は生きるの!独りで!!」

どれだけ非礼であろうと構わなかった。止められなかった。
涙も、怒りも、私は制御できなくなっていた。

ぽかんとする二人に再び背を向け、マルムフォーシュ伯爵の脇をすり抜けて部屋を出た。もう一秒でもあの幸せな二人と同じ空気を吸いたくなかった。この場所を去りたかった。そして二度と戻りたくもなかった。

戻りたい、ただ幸せだった幼い日々には、もう、戻れないから。
それなら、どこに辿り着いたとしても同じ。

私は独り。

「あら……!え?どうなさったの?む、息子は……!?」

大階段を下りた辺りでレクセル侯爵夫人と思しき人物に出くわし、戸惑いつつも引き籠り令息の安否を尋ねられた。
私は泣きながら答えた。

「お元気です!!」

もう二度と、レクセル侯爵家に招かれる事などないだろう。生きていても、そうでなくとも。

マルムフォーシュ伯爵家の馬車まで勢いに任せて歩いてきた。
こんなに早い帰りは予定していなかったのか、御者の姿はない。でも、乗ってしまえば一人で泣く場所も時間も確保できる。

もう少しだった。
もう少しで、私は安心して泣き喚くことのできる場所へ逃げ遂せられるはずだった。

馬車の扉に手を掛ける直前、抱き竦められてしまった。

「……っ」

全く望んでもいない相手に。

「カタリーナ」

気遣いを疑うまでもない、優しすぎるマルムフォーシュ伯爵の声が、後頭部から降ってくる。

「カタリーナ、悪気はないんだ」
「……でしょうね……っ、本当のことですから!」
「怒るなよ」
「怒っていません!」

嘘ではある。
でも、どうして怒って泣いているのかを自覚しているから、全面的に真っ赤な嘘というわけでもない。

「悔しくて、悲しくて……あの方たちが妬ましくて……そんな私の、誰にも触れられたくない傷に触るから……わざと抉じ開けたから……っ」

言っていて、更に悲しくなる。
惨めになる。

慰めて欲しいわけじゃない。
本当は誰にも聞かせたくない。本心など知られたくない。

欲しくて欲しくて仕方がなかった。
ステファンが。ステファンとの、人生が。

決して私には与えられない。
私の欲しい愛も、傍に居て欲しい人も。優しい過去さえ、愛しい思い出さえ、全て、全て……もう手が届かないのに。

「カタリーナ」

マルムフォーシュ伯爵が穏やかな声音で私を呼んだ。
それから私を抱き竦めていた手の力を緩めると、マルムフォーシュ伯爵は私の向きを変えさせ、肩に手を添えてそっと馬車に寄りかからせた。

私が震えていたから、抱えられていたのだ。
馬車に体重を預けると思いがけずかなり楽だった。驚くべき事実を目の当たりにしたショックで気が動転して、更に傷心を抉られて、完全に取り乱していたのだと理解し始めた。

少し、……恥ずかしい。

「カタリーナ。こっちを見ろ」

今となっては、不貞腐れる気持ち半分、気まずさ半分というところ。とても目など合わせられない。

併し困ったことに、一度出た涙がなかなか止まらない。体が止め方を忘れてしまったかのように、次から次へと溢れてくる。
仕方がないので、手の甲で拭う。

その手を、マルムフォーシュ伯爵に掴まれた。

「……」
「俺を見ろよ。ほら」

そう長い付き合いではないにしても、この男の性格上、私が頑なに目を逸らし続けた分だけ同じ要求を繰り返されるのが明白だった。私は挑むように瞬きを繰り返しながらマルムフォーシュ伯爵と目を合わせた。

「俺も独りだ」

言われた瞬間、無意識に足を蹴っていた。
やってしまってから、さすがにこれはなかったと焦ったけれど、マルムフォーシュ伯爵は何故か気を良くしたらしく砕けた笑顔で私の顔を覗き込む。

「独りだって楽しいもんだ。気晴らしに、暇潰しに、冒険や賭けに燃えてもいい」
「あなたと不埒な真似をする気は毛頭ありません」
「楽しみ方を教えてやるよ」
「あなたと堕落するくらいなら干乾びて死にます」

マルムフォーシュ伯爵が私の顔の横で馬車に手をついて、ますます深く私の目を覗いた。心の奥深くまで見透かされているようで落ち着かない。
どこにも逃げ場がなく、私は馬車に背中を押し付けていた。

僅かな沈黙を挟み、マルムフォーシュ伯爵が囁いた。

「独りぼっちが寂しいんだろ。ずっと、傍にいたんだもんな」
「……っ」

急に優しい声で慰めないでほしい。

「だけどさ」

次に何を言うのかと、焦りと少しの期待が交じり合う。
私はまだ自由な方の手で、再び頬の涙を拭った。マルムフォーシュ伯爵の穏やかな微笑みはどこか懐かしさを感じられる。

かつて私が包まれ、永遠に続くと信じ込んでいた、あの優しい時間。
あの瞬間に、とても、似ている。

「独りで生まれて、誰かを求めて、見つけて、それで人は幸せになる。愛を実感できる」
「……」
「やっと独りぼっちになれたんだ。次は、もっと愛されて、もっと幸せになれる」
「次なんて……」
「もっと深く愛するようになる」

傷を、抉られているはずなのに。
それなのに、何故か、マルムフォーシュ伯爵の言葉は痛くない。

「ありません……」
「ああ、今はそう感じる。今はまだ、もうしばらくは、独りぼっちで不貞腐れる強がりなカタリーナ嬢。それでいい。俺と気を紛らわせていればいい」
「気が紛れるというか……あなたは……」

なんと言えば角も立てず、これ以上弱味も見せず、更なる醜態も晒さずに済むだろうかと、だんだんと頭が事後処理の為に回り始めた。
もぞもぞとしていると、掴まれていた手も解放された。
マルムフォーシュ伯爵は微笑んでいる。寛いだ様子で微風を浴びて、人生が充実している人間の見本のような風情で私を見つめている。

「俺は?何?」
「……気を張っていないといけないのに、気を抜いてしまう、奇妙な方です……困ります」
「助手の待遇には気を配っているつもりだし、もっと手厚くしたい願望もある」
「私、今日、必要でしたか?」

ふと、心に浮かんだ疑問を口にしていた。
マルムフォーシュ伯爵が片眉を上げた。

「当然。いてくれて助かった」
「どうだか……」
「いや、俺じゃなく君に対してラルフ卿は心を開いたわけだし、あの性格じゃあユーリアに男だけが付き添っていたら拗れるだろう。君の手柄だよ」

理屈はわからなくはない。
とはいえ、私自身は呆気に取られ右往左往していたに過ぎないのも事実だ。

「手柄とは、到底、言えないと思いますけれど……」
「いやいや、ユーリアは自分一人で確かめるのが恐かった。でも俺が場を設けて、君がラルフ卿の口から愛の一言を引っ張り出した。だから二人は、互いに一歩踏み出せた。ハッピーエンド。君の手柄だ」
「……」

これは主張を変える気が無いと見て、私は蒸し返すのをやめた。
代わりに、気づいたことを何の気なしに尋ねた。

「ユーリア様とは旧知の仲に見えました」
「ああ。ユーリアは、俺が5才の時からあのサイズだった」
「そうですか……あの、やはり、長く生きられるのですか?その……種族的に」
「らしいな」
「あなたは……」
「俺?俺は……」

マルムフォーシュ伯爵がニヤリと笑う。
もうそれだけで私と同じ只の人間であるとわかる。

「揶揄わないでください」
「残念、バレたか。俺も、長くてあと60年くらいかなぁ」
「結構生きますね」
「だけど、そう長くはないんじゃないか?永遠にするか、これっきりにするかしかないんだろう。だったら、俺は燃え尽きるまで楽しく生きるよ」
「密偵が楽しいのですか?」
「人と会って、他人の生き様を見るのは楽しいよ。結果、王家の役には立つし、価値はある。人と関わる中で個人的な望みも明確になる」
「望み……全てを持っているような方は、いったい何を望まれるのでしょう」
「今は」

そこで言葉を溜めて私の気を引きつけてから、マルムフォーシュ伯爵は言った。

「助手に懐いてほしい!」
「はあ?」

もっと実のある言葉が返って来ると期待したのに、がっかりだ。でも雰囲気は各段によくなった。私が作り出してしまった恥ずかしい湿っぽさが消えて、気楽なものに変わったのだ。だから、よかったのかもしれない。

「カタリーナ。言っておくが、君はもうほぼ独りぼっちじゃあないんだぞ?俺がいる」
「公的な契約関係ですよね?」
「形式上そうでも、心の交流ってものがあるだろう。俺は大切な助手を独りぼっちで死なせはしない。君がもし60年後独り身だとしても、干乾びて死ぬときは傍で泣いて潤すと誓う」
「鬱陶しい……」

いけない。
気を張っていないといけない相手のはずなのに、何故か、気が緩んでしまう。

でも当のマルムフォーシュ伯爵はこの状態で何ら疑問がないようなので、私も雰囲気を維持することにした。

「え?それって、私のほうが伯爵より短命ということですよね?」
「喩えだよ」
「失礼しちゃう」
「ははっ」
「なにを笑っていらっしゃるんですか?」

馬鹿にされているわけではないと理解しているのだけれど、何故か追及したくなる。隙を見せているのは案外マルムフォーシュ伯爵の方なのかもしれない。

と、気を抜いた私の耳が、はっきりと聴き取った。

「カタリーナ。怒ってる方が可愛いよ、君は」
「……どういう、意味でしょう……?」

気づくと涙は止まり、いつまでも続くような会話は、なかなか居心地のいいものになっていた。

「うん。可愛い、可愛い」
「本当にどういう意味ですか?まるで私が常日頃から不機嫌な無礼者のようではないですか」
「そんなことはない。カタリーナはイイコだよ。ほら、ここ、咬んでもいいんだぞ」
「あの、お疲れですか?先程の出来事からの今では冗談にもなりませんよ。しっかりさなってください」
「ああ……叱られるのもいいなぁ……」

何か調子に乗らせている要因があるのは認めざるを得ない。でもその正体までは掴めない。だからとにかく、これ以上この不埒な男を図に乗らせない為に一括入れておく必要があった。

私はマルムフォーシュ伯爵の腕を軽く叩いた。
マルムフォーシュ伯爵はふざけるのをやめた。

価値ある一撃だった。
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