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二章
9
あどけない笑顔で、涙に頬を濡らしたまま、フォーシュバリ侯爵令嬢ユーリアは私の傍で跪いた。
「ありがとう、ドグラス」
あ。
そうだった。
一度はレクセル侯爵令息に組み伏せられたマルムフォーシュ伯爵が、私の膝の近くで伸びているのを思い出した。
改めて視線を向けると、マルムフォーシュ伯爵は肘枕で寝転び微笑んでいた。その清々しいまでに優雅な姿を見たら、何故か怒りが沸いた。
銀のトレーなど、今や丁寧に壁に立て掛けられている。
「伯爵……」
私の声は掠れていた。
と、私の気が完全に逸れていたタイミングでフォーシュバリ侯爵令嬢に手を握られた。
「!」
冷たい。
そして白い。
「あなたも。ラルフと私への真心、ありがとう。決して忘れないわ」
「あ、いえ……私は……」
恐がって腰を抜かしただけで、基本的には何もしていない。
何もしていないという点についてはマルムフォーシュ伯爵も同じだと思うけれど、やはりフォーシュバリ侯爵令嬢にとっては違うらしかった。
「私一人では確かめる勇気が持てなかった。甘えてばかりでごめんなさい、ドグラス」
「いいんだよ。伴侶を見つけるのは簡単じゃないって聞く。よかったよかった」
ドグラス。
フォーシュバリ侯爵令嬢はマルムフォーシュ伯爵を名前で呼んでいる。というか、かなり親しい間柄としか思えない会話だと感じるのは私だけ?
「……」
なんで、私、わざわざ連れて来られたのかしら。
仲良しなら助手なんかいなくても困らなかったでしょうに。
「いつまで転がっていらっしゃるのです?」
我ながら低く冷たい声が出たものだと思う。
そんな静かな批判も全く気に留める様子もなく、マルムフォーシュ伯爵は微笑んだまま軽やかな身の熟しで起き上がり、立ち、その流れで私の脇の下に両手を差し入れて持ち上げた。
人形か、幼子か、愛玩動物のような扱い。
「立てるか?」
腰を抜かしていた助手にもお優しいこと。
「はい」
不愛想に答えた私を、フォーシュバリ侯爵令嬢が眩しそうに目を細めて微笑みながら見上げてくる。
何やら落ち着かない、心もとない気分にさせられる。
僅かな沈黙の中で、フォーシュバリ侯爵令嬢がマルムフォーシュ伯爵の手を取り立ち上がった。
それでわかった。
フォーシュバリ侯爵令嬢は、絶世の美少女と言って差支えない美貌の持ち主ではあるものの、小柄で童顔だ。
私は大きくも小さくもない平均的な体形だった。
レクセル侯爵令息は、そんな私より少し背が高いくらいの小柄な美青年だった。
「君」
背が小さいと思いながら見つめていたのを勘付かれたのか、レクセル侯爵令息が素っ気ない声で私を呼んだ。
「男を変えるにしても、趣味が悪いよ」
「……」
唐突に、なにを。
「ラルフ」
窘める素振りで完全に舞い上がりながら、フォーシュバリ侯爵令嬢が恋人のもとへ駆け戻った。
「もう、口が悪いんだから」
などと言いながら、自分の血を吸わせた唇を人差し指でつついたりしている。それでも幸せそうな笑みを浮かべているのを見てしまうと、意地悪な気も起きない。
フォーシュバリ侯爵令嬢。
ユーリア……愛を求め、孤独に怯えた、人ならざる者。
そんな存在がこの世にいたことさえ信じ難いというのに、私はある意味では立会人であり、自分を狂人として諦めるか変容した世界を受け入れるかの二択に苛まれている。
けれど、わかっていた。
心は、この愛の物語を受け入れたいのだと。
「私は、マルムフォーシュ伯爵の助手として参りました」
私なりの返答をレクセル侯爵令息は言葉通りに受け止めたらしく、愛する人を抱擁しながら真顔で更に問いを重ねてくる。
「結局なんなのかわからないけど、結婚前の令嬢がそんな不埒な男の助手なんて、あの真面目腐った男が許すとは思えない。大丈夫なのか?」
「……」
その場が凍り付いた。
少なくとも私の心は一瞬で凍り付いた。
「ロヴネル伯爵はカールシュテイン侯爵令嬢と婚約したんだよ」
マルムフォーシュ伯爵が天気か晩餐のメニューでも告げるように言った。
足を踏んでやりたくなったけれど、私は理性があるので、そのような暴挙には出なかった。
「は?」
心底驚いたようにレクセル侯爵令息が目を丸くしている。
「君たち、公認だっただろう?」
恋人を優しく抱き寄せながらそんなことを言うなんて、随分と無神経な人ね。……もう人じゃないのかもしれないけれど。
「いいえ。私たちは、お互いに別々の人生を歩んでいく運命だったのです」
「そうなのか……」
腑に落ちないという心情を、せめて私には隠して欲しい。
それくらいのデリカシーがあってもいいと思うけれど、愛の深さ故に唇を血で濡らすような人とはそもそもの価値観が違うのかもしれない。
「私は、幼い夢の中で生きてきました。けれど、こうして自分一人の足で歩み始めた今、あなたのお悩みに寄り添う任を与えられたことを光栄に思います。お幸せに」
人ならざる者だとしても、相手は上級貴族の御令息と御令嬢。
オースルンド伯爵家の名に恥じぬよう、私は丁寧に膝を屈め、人生で一番優美な挨拶を以てこの場を終わらせようとした。
視線を足元に下げたまま身を翻す。
私の意図を汲んだのか、マルムフォーシュ伯爵が扉を開けてくれた。視界の隅でマルムフォーシュ伯爵は、本当に友への軽い挨拶としか思えない会釈だけで済ませようとしていた。
不埒な男のふりだけよね?
マルムフォーシュ伯爵まで、人のふりなんてしてないわよね?
微かな不安は、却って気が紛れてよかった。
色白だけれど健康的な肌色をしているし、太陽の下で並んで歩いた。問題ない。
「カタリーナ」
レクセル侯爵令息が、呼び止める。
私は足を止めた。併し、振り返りはしなかった。また無遠慮な発言をされて嫌な気分になるだろうと察したからだ。
事実。
私を気遣う言葉の刃に、私は、ずたずたに引き裂かれることになる。
「心に嘘をついて生きるには、君の人生は短すぎるよ」
「ありがとう、ドグラス」
あ。
そうだった。
一度はレクセル侯爵令息に組み伏せられたマルムフォーシュ伯爵が、私の膝の近くで伸びているのを思い出した。
改めて視線を向けると、マルムフォーシュ伯爵は肘枕で寝転び微笑んでいた。その清々しいまでに優雅な姿を見たら、何故か怒りが沸いた。
銀のトレーなど、今や丁寧に壁に立て掛けられている。
「伯爵……」
私の声は掠れていた。
と、私の気が完全に逸れていたタイミングでフォーシュバリ侯爵令嬢に手を握られた。
「!」
冷たい。
そして白い。
「あなたも。ラルフと私への真心、ありがとう。決して忘れないわ」
「あ、いえ……私は……」
恐がって腰を抜かしただけで、基本的には何もしていない。
何もしていないという点についてはマルムフォーシュ伯爵も同じだと思うけれど、やはりフォーシュバリ侯爵令嬢にとっては違うらしかった。
「私一人では確かめる勇気が持てなかった。甘えてばかりでごめんなさい、ドグラス」
「いいんだよ。伴侶を見つけるのは簡単じゃないって聞く。よかったよかった」
ドグラス。
フォーシュバリ侯爵令嬢はマルムフォーシュ伯爵を名前で呼んでいる。というか、かなり親しい間柄としか思えない会話だと感じるのは私だけ?
「……」
なんで、私、わざわざ連れて来られたのかしら。
仲良しなら助手なんかいなくても困らなかったでしょうに。
「いつまで転がっていらっしゃるのです?」
我ながら低く冷たい声が出たものだと思う。
そんな静かな批判も全く気に留める様子もなく、マルムフォーシュ伯爵は微笑んだまま軽やかな身の熟しで起き上がり、立ち、その流れで私の脇の下に両手を差し入れて持ち上げた。
人形か、幼子か、愛玩動物のような扱い。
「立てるか?」
腰を抜かしていた助手にもお優しいこと。
「はい」
不愛想に答えた私を、フォーシュバリ侯爵令嬢が眩しそうに目を細めて微笑みながら見上げてくる。
何やら落ち着かない、心もとない気分にさせられる。
僅かな沈黙の中で、フォーシュバリ侯爵令嬢がマルムフォーシュ伯爵の手を取り立ち上がった。
それでわかった。
フォーシュバリ侯爵令嬢は、絶世の美少女と言って差支えない美貌の持ち主ではあるものの、小柄で童顔だ。
私は大きくも小さくもない平均的な体形だった。
レクセル侯爵令息は、そんな私より少し背が高いくらいの小柄な美青年だった。
「君」
背が小さいと思いながら見つめていたのを勘付かれたのか、レクセル侯爵令息が素っ気ない声で私を呼んだ。
「男を変えるにしても、趣味が悪いよ」
「……」
唐突に、なにを。
「ラルフ」
窘める素振りで完全に舞い上がりながら、フォーシュバリ侯爵令嬢が恋人のもとへ駆け戻った。
「もう、口が悪いんだから」
などと言いながら、自分の血を吸わせた唇を人差し指でつついたりしている。それでも幸せそうな笑みを浮かべているのを見てしまうと、意地悪な気も起きない。
フォーシュバリ侯爵令嬢。
ユーリア……愛を求め、孤独に怯えた、人ならざる者。
そんな存在がこの世にいたことさえ信じ難いというのに、私はある意味では立会人であり、自分を狂人として諦めるか変容した世界を受け入れるかの二択に苛まれている。
けれど、わかっていた。
心は、この愛の物語を受け入れたいのだと。
「私は、マルムフォーシュ伯爵の助手として参りました」
私なりの返答をレクセル侯爵令息は言葉通りに受け止めたらしく、愛する人を抱擁しながら真顔で更に問いを重ねてくる。
「結局なんなのかわからないけど、結婚前の令嬢がそんな不埒な男の助手なんて、あの真面目腐った男が許すとは思えない。大丈夫なのか?」
「……」
その場が凍り付いた。
少なくとも私の心は一瞬で凍り付いた。
「ロヴネル伯爵はカールシュテイン侯爵令嬢と婚約したんだよ」
マルムフォーシュ伯爵が天気か晩餐のメニューでも告げるように言った。
足を踏んでやりたくなったけれど、私は理性があるので、そのような暴挙には出なかった。
「は?」
心底驚いたようにレクセル侯爵令息が目を丸くしている。
「君たち、公認だっただろう?」
恋人を優しく抱き寄せながらそんなことを言うなんて、随分と無神経な人ね。……もう人じゃないのかもしれないけれど。
「いいえ。私たちは、お互いに別々の人生を歩んでいく運命だったのです」
「そうなのか……」
腑に落ちないという心情を、せめて私には隠して欲しい。
それくらいのデリカシーがあってもいいと思うけれど、愛の深さ故に唇を血で濡らすような人とはそもそもの価値観が違うのかもしれない。
「私は、幼い夢の中で生きてきました。けれど、こうして自分一人の足で歩み始めた今、あなたのお悩みに寄り添う任を与えられたことを光栄に思います。お幸せに」
人ならざる者だとしても、相手は上級貴族の御令息と御令嬢。
オースルンド伯爵家の名に恥じぬよう、私は丁寧に膝を屈め、人生で一番優美な挨拶を以てこの場を終わらせようとした。
視線を足元に下げたまま身を翻す。
私の意図を汲んだのか、マルムフォーシュ伯爵が扉を開けてくれた。視界の隅でマルムフォーシュ伯爵は、本当に友への軽い挨拶としか思えない会釈だけで済ませようとしていた。
不埒な男のふりだけよね?
マルムフォーシュ伯爵まで、人のふりなんてしてないわよね?
微かな不安は、却って気が紛れてよかった。
色白だけれど健康的な肌色をしているし、太陽の下で並んで歩いた。問題ない。
「カタリーナ」
レクセル侯爵令息が、呼び止める。
私は足を止めた。併し、振り返りはしなかった。また無遠慮な発言をされて嫌な気分になるだろうと察したからだ。
事実。
私を気遣う言葉の刃に、私は、ずたずたに引き裂かれることになる。
「心に嘘をついて生きるには、君の人生は短すぎるよ」
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