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「完全に私の不注意でしたので騒がないでください」

私の顔を見て血相を変えた娼館の主マダム・ルジュヌにそう伝える。
シェロート伯爵の呼出に応じたが、今日はそもそもこちらが先約であり、時間に余裕があったところへ強引に予定を詰め込んだのだ。

犠牲者や狂人の前に彼らは裏切り者であったのに油断した私の責任だった。
少し怪我を負ったくらいで約束を反故にするなど、あってはならない。

「心配されている件について誤解があるようなので、何よりも先にまずお伝えします」
「いえ、あの、レディ・ヒルデガルド」
「あなたがたを無理矢理変えようなどという傲慢な企みではありません」

娼婦たちの通える小さな教会を近所に建てられないかと模索したが、それは断念せざるを得なかった。
まず大前提として私は聖職者ではなく教会の権限も何ら持ち合わせていない。どの階級であれ神父を斡旋する術がなかったのだ。更には営業妨害とも考えられた。

そこで時間の空いた時、気が向いたというだけで通える距離に安らげる休憩所があれば助けになるのではないかと思い至った。

彼女たちは逞しく、美しく、しかし疲れ果てているように見えた。
当然ながら私は余計なお世話という反発を受けたが、境遇や制約によって選択肢の極めて少ない彼女たちの新しい鍵が必要だと考えている。

彼女たちを卑しい存在として忌避し、多くの扉には鍵が掛けられ、その侵入を厳重に拒み阻んでいる。
併しその鍵を掛けるのは、彼女たちを買う男たちなのだ。男たちを許す慎ましい女たちなのだ。
そこを無理に抉じ開けるわけにもいかない。それでは道理が通らない。
個人的な所見による喩えに過ぎないが私はそう考えていた。

神は彼女たちを締め出しはしない。

「私に親切にしてくださった際、あなた方はとても忙しそうに見えました。そして疲れていました。仕事を忘れて心を癒せる場所があればいいと考えただけです。強制ではありません」
「それは、まあ、今日は置いておいて、ねぇお嬢様」
「近所を回りましたが、極めて閉鎖的な肉体労働であるあなた方の数に際して医師の数は充分だと思えません。私の救護院では主にその機能も果たせます」
「どちらかというと、あなたが休んだ方がいいですよ……?」
「ありがとう。でも、大丈夫です」

その時、背後で扉が開きベルが鳴った。

「あ!来やがったね、お嬢様!」

マダム・ルジュヌの抱えている娼婦の一人が私にあからさまな敵意を向けた。

「私たちが汚いから神の窯で洗濯してやろうっていうの!?冗談じゃないよ!」
「いいえ。あなた方が汚れていると考える人たちがいるのは事実ですが、私の考えは違います。神を慕い祈る心があれば人は分け隔てなく聖いのです」
「はあ!?そんなきれいご──えっ!?」

女主に並ぼうと私の前に回り込んだ娼婦は目を丸くした。

「ど、どうしたの……?」
「ありがとう。大丈夫です。少し不注意で乱闘になってしまいました」
「は!?」
「それより」

私はこの瞬間、彼女の名前を尋ね、誤解を解こうと思っていた。
名も知らぬ娼婦はさっと壁際へ寄ると戸棚の抽斗から手鏡を取り出し、私に向けた。

「──」

鏡に映り込んだ自分の顔を見て、私は我が目を疑った。

右のこめかみの少し上を中心にして酷く腫れあがり、只でさえぱっとしない目を右の瞼がその権限を越え覆い隠そうとしていた。
全身の痛みは主観として自覚していたが、私は私の想像以上に重傷を負っていた。

「……────」

耳の奥から細く高い音がしたかと思うと、私は唐突に失神した。
すぐに目を覚ましたと判断できたのは、マダム・ルジュヌが慌てた様子で声を張り上げながら私の傍に跪いていたからだ。

「男爵を呼んできて!」
「えっ、男爵!?」
「うちは娼館なのよ!こんなお嬢様を洗濯前のベッドにお寝かせできるわけないでしょう!」
「お寝かせ……?」
「いいから早くお行き!」

マダム・ルジュヌに急かされ、名前も知らない娼婦が私の為に館を飛び出した。
私はマダム・ルジュヌの顎辺りを見上げた。

「……ごめんなさい、御迷惑を……」

いったい私は何をしに来たのか。
勇み足が招いた不祥事を私は酷く悔やんだ。

泥酔した客の扱いで慣れているのだろう。マダム・ルジュヌは私を膝に乗せるように抱え、こどもをあやすような穏やかな声で語り掛けてくる。

「いいんですよ、お嬢様」
「私……気を失ったの……?」
「ええ、ほんの少しの間だけです。大丈夫ですよ、少しびっくりしただけですからね」
「……っ」

起き上ろうとして元々の痛みに加え体が自由にならない感覚に驚く。

「動かないでくださいね」
「……あなたの、ベッドは……いつも清潔に……整えて……いらっしゃるでしょう……」
「今はそんなこと言っていただかなくていいですから、じっとしてください」
「マダム……」
「お気持ちはわかりましたから」

血の気が引いて全く頭が働かない。
私は厚意に甘えマダム・ルジュヌの膝を枕に暫くじっとしていた。

別の娼婦が私のこめかみの腫れに冷たく湿った布を当ててくれた。
男の使用人が毛布を掛けてくれた。その足で私の馬車の御者を呼び、倒れた私の姿を見せて不手際を怒鳴りつけた。

「い、いいのよ……やめて……私がきつく命じて無理を言ったの……私の不注意よ……」
「えっ!?マダムどうしたの!?」
「何があったのですか!?」

館の中から次々と娼婦が現れ、介抱される私の周りに集まって来る。

「うちでやったんですか?」
「馬鹿言わないで、この状態でいらしたのよ」

マダム・ルジュヌが厳しい女主の口調で応じる。
併しその手は私の腕辺りを優しく摩り続けてくれている。

「どうして……」
「私たちのために、こんな、無茶を……?」
「お嬢様……」

完全な誤解だった。
娼婦たちは私がこの界隈に救護院を建てようとする活動の中で反発に遇い負傷したと考えてしまったようだ。
事態を遡ればその発端とも言える人物によって殴打されはしたのだが、誤解を利用して恩を着せるような不誠実な真似はしたくない。
私は説明しようとしたが、マダム・ルジュヌの指に唇をそっと塞がれた。

「喋らないで、じっとして。大人しく介抱されてください」

やがて表が騒がしくなり、見慣れない大柄の貴族が医師らしき人物を伴い現れた。
マダム・ルジュヌが早口で伝える。

「男爵。この状態でいらしたの。うちじゃこのお嬢様が誤解されてしまうから、男爵のところで診てあげてくださいな」

この頃には体を起こすくらいの体力は戻っていたが、私はマダム・ルジュヌと医師に支えられながら大振りな馬車に乗りみ、簡易的に整えられたベッドに身を委ねた。実際そうすると深い安堵に包まれた。
馬車がゆっくりと滑り出す。

「男爵……ということは、ライスト男爵ですね……」
「本当にもう、その節は娘が失礼をいたしまして誠に申し訳ございませんでした」

造船所を興した豪商であるライスト男爵は、一見して恰幅の良い大らかな人物に見える。

「……」

ライスト男爵家から受けた初めての謝罪であり、向かうのはライスト男爵の邸宅ということだ。

「……」

私はまた不注意を重ねてしまったのだろうか。
一瞬そう懸念したが、結果的には杞憂だった。併し真実は私を変えた。
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