悲劇の契約結婚ではありますが、私たち愛を証明いたします。

希猫 ゆうみ

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憤怒を乗り越えるとそこに静寂があるのだと知る。
度が過ぎた侮辱に私は笑みさえ浮かべ応じることができた。

「お断りいたしますわ」
「そんなにランスはよかったかい?」
「ええ」
「僕の方が美しいし長生きするよ。あんな奴はすぐに忘れさせてあげるさ」

殺意が湧いた。
これだけの侮辱を受ければミレーユでさえ襲い掛かるかもしれないとさえ思った。

でも違う。
きっと、そうではない。

ノアム侯爵令息エドワールはもっと邪悪な存在だ。
今すぐ門兵から武器を奪い取って叩きのめしたい。

「たとえ花壇に頭を打ち付けられようと私は夫への愛を忘れたりいたしませんわ。彼を愛したまま死にます」
「みんなそう言うんだ。でも、僕の愛を受け入れれば変わる」

ベイルがのそりと立ち上がり私を押した。

「奥様、ここは私共にお任せください」
「主に代わって僕にとどめをさすって?」

ノアム侯爵令息が杖で自分の馬車を叩き怒鳴る。

「中に!証人が!いるんだぞ!!」

狂気の沙汰としか言いようがなかったが恐れより軽蔑が勝った。

「ではその方にこう言わせればよろしいのです。〝カルメット侯爵夫人は僕を無下に追い返した〟と」
「あはは!」

何故ここで笑うのか理解ができないものの、私は夫の敵を理解しようとは思わないので構わない。
ノアム侯爵令息の杖が再び私を差した。

「いいや?こう言うかも。〝カルメット侯爵夫人はエドワール様の美貌の虜になられて自ら馬車に乗り込みました〟」
「!?」

馬車は城門から僅かに侵入していた。
杖を持つ手で馬車の扉を開くと同時に、ノアム侯爵令息は笑いながら私の腕を掴んだ。とても杖がなくては歩けない人間の動きではない。

「奥様!」

ベイルと門兵が挙ってノアム侯爵令息に襲い掛かる。
私は直接的な暴力に声も出せず硬直していた。

でも、その時。

「シルヴィ!」

ランスの声が聞こえた。

「!」

私はノアム侯爵令息を突き飛ばした。
悪いが私は見かけより活発な性格で、母や侍女の手を焼かせている。渾身の力を以てすれば危機一髪の回避くらい──

「エドワール!シルヴィから離れろ!!」

一頭の馬で駆けつけたランスが、昼の陽光を背にして呻るように声を荒げている。
私が後ずさる形でノアム侯爵令息とは距離をとった。それくらい夫の声がいつもと違い過ぎて恐怖を覚えた。

ノアム侯爵令息は降参したふりで両手を上げて馬車に背を貼り付かせたが、やはり顔は揶揄するように笑っている。

「これ以上は動けないよ」
「……」

ランスが無言で馬から下りる。
そしてあの優しい顔を闇が淀む憤怒に歪めノアム侯爵令息を追い詰める。

「ここで何をしている?」
「お前こそ、ここで何をしている?召喚状を無視したらもっと罪が重くなるぞ?」
「構わないよ。お前をここで殺して処刑されるなら本望だ」
「聞いたかいシルヴィ!?こういう男なんだよ!」
「妻の名を呼ぶな!」
「僕とおいでシルヴィ!」
「!」

ランスがノアム侯爵令息の杖を奪いその生白い喉元に押し当てる。

「妻に触ったか?」

氷より冷たいランスの声。
私は弾かれたように夫の背に縋りつき、頬を押し当てた。

甘えるように。
ランスが、私との時間を思い出すように。

「ランス」

そっと呼び掛ける。

「もうお帰りになるのよ。だから大丈夫なの」
「……」
「ランス。二度と来ないから」

あなたもこちら側へ戻ってきて。
その願いを込めて、ランスの大きな背に顔を埋める。

「ん……っ」

突如ノアム侯爵令息が苦しそうに声を洩らした。
ランスが杖を放り投げる。ノアム侯爵令息の苦悶は喉への圧迫ではないようだった。邪悪な天使は頭を抱え、馬車に背を擦り付けながら項垂れる。

「前にも……あったな……こんな……」
「……!」

記憶が。

ノアム侯爵令息の記憶がまた、蘇ろうとしている。

「ランス」

私はランスの腕を掴んで強く引いた。
とにかくノアム侯爵令息から引き離さなくてはと必死だった。

ずるずると崩れ落ちながらノアム侯爵令息が嫌な笑いを洩らした。

「イヒッ」

ぞっとした。

「ヒ……ヒヒ……そうか、ああ、似てる似てる…………」

杖を手繰り寄せるわけでもなく、自らの足の力でノアム侯爵令息が立ち上がる。そして頭を抑える手の、細い指の間から、熱く濁った眼を瞠りランスを見つめ、嗤った。

「お前が僕を殺そうとした。そうだな?」
「ああ」

ランスが静かに答える。
その憤った短い囁きは、酷く痛々しい。

私の予感が当たったと確信した瞬間、絶望と嫌悪に足が竦んだ。

「お前は僕の頭を何度も何度も堅い煉瓦に打ち付けて、殺そうとした」
「ああ」

ランスはミレーユの罪を庇っているのではない。
命を懸けてミレーユの名誉を守ろうとしている。

乱暴されたのだ。
この悪魔に。

ノアム侯爵令息を手に掛けたのはミレーユの夫、ヴェルディエ伯爵だろう。
そうとしか考えられない。

真犯人を暴いてしまえば、ミレーユがされたことも露顕してしまう。
だからノアム侯爵令息の曖昧な記憶──親友を手に掛けたカルメット侯爵の役を受け入れた。

「その後、ナイフでも刺そうとしたんだろう?」
「ああ」

だからどんな嘘でも罪を被る。
真実を語らせない為にどんな罪でも被る。

「そんなに僕を切り刻みたいか?頭をかち割るだけじゃあ足りないのか?この狂った殺人鬼め」
「地獄に落ちろ」

ランスの声は怒りに満ち、悲しく、そして絶望している。
優しい夫を苦しめる狂った悪魔をこの手で殺してやりたかった。

けれど、私はランスの妻だ。
ランスが命を懸けて守ろうとしているものを、馬鹿みたいに暴いたりしない。
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