42 / 43
42
しおりを挟む
長い、長い、時が過ぎた。
嬉しいこと、面白いことがたくさんあった。
哀しみはいつも、親しい人を連れて行く時だけ訪れた。
王国の英雄フィンリー侯爵がキャラダイン伯爵家の末裔アイラと結婚したのは、王国の歴史に重大な意味を齎す歴史となった。
年の離れた英傑夫婦の子はやはり、英雄の一人となったのだ。
私がなかなか領地から出てこないのにグレース妃が痺れを切らし、メラン伯爵一家としてゴールトン=コリガン辺境伯領に訪れたのは、末っ子のフェリクスが七才の夏だった。
この夏、王弟夫妻の末っ子ユーフェミア姫が、私の次男エルウィンと恋仲になり、三年後に初恋を実らせて婚約し、更に二年後の春に結婚した。
エルウィンは国王陛下より名誉職として伯爵位を授かり、カータレット伯爵となった。
ゴールトン=コリガン辺境伯は長い歴史の果てに、ついに王族の親戚になったのだ。
私の孫息子であるカータレット伯爵令息ディミアンと、フィンリー侯爵令息カーライル。
この二人が率いた解放軍は同盟国を滅亡の危機から救い、勝利の結果、両国の領土を広げた。
この大きな戦争の前に、モードリンが結婚している。
相手は恋人のマクシームではなく、エインズワス伯爵。
老衰を迎えようとしていた父親カミンガム卿の、生涯をかけて熱望した貴族と娘の結婚という夢を叶えた形式的な結婚だった。
エインズワス伯爵も高齢で、長らくモードリンのファンだったこともあり、そこに夫婦の愛や恋愛感情はなく、マクシームとの恋愛を生涯応援してきた自負もあったのかもしれない。
カミンガム卿が天に召されると、エインズワス伯爵はモードリンとマクシームの為に土地を購入。
此処にエインズワス伯爵夫人モードリンと国王付首席近侍マクシームの共同財産となる大豪邸が建築され、晩年、二人はそこで静かに暮らしていた。
マクシームの亡き後、国王付首席近侍の職はマクシームの甥の一家が引き継いでいる。
キャサリンが亡くなった時、私は悲しみの余り、二年ほど塞ぎ込んでしまった。
グレース妃の慰めさえも私を元気付けはしなかった。
併し、時が流れ、哀しみを受け入れると、また穏やかな人生を楽しむ心境になってきた。
トレヴァーが病に倒れ、五年の闘病生活を経て、神の腕の中で安らかな眠りに就いた。
不思議なことに、キャサリンを喪った喪失感よりそれは小さかった。病に向き合い、二人で戦い抜いたことが、豊かな掛替えのない思い出となったからかもしれない。
「君を愛している。幸せだった。ありがとう」
トレヴァーはことある毎にそう言って私の手を握り、時にはキスをして、美しい微笑みを浮かべていた。
私もいずれ逝く。
この人生を愛し、生き抜いて。
私がゴールトン=コリガン城を離れる決意を固めたのは、ダニエルの妻オルガの悲痛な叫びを聞いてしまった瞬間だった。
「私とお義母様、どちらが大切なの!?」
気の強いオルガとの仲は決して悪くはなかったものの、ダニエルは親しい人を続けて見送った私に優しすぎた面があり、少なからずオルガを傷つけていた。
若きゴールトン=コリガン辺境伯夫妻の仲を裂くような真似は、絶対にできない。したくない。
二人の幸せを願い、私は、長く住み馴れた愛しい地をついに去ったのだった。完全にというわけではなく、次兄マイルズの遺してくれた別荘に移り住み余生を楽しむというのが建前だった。
だって、トレヴァーが眠っているもの。
いつでも帰りたい時に帰る。
オルガとの仲はその後も良好で、別荘によく贈り物を届けてくれた。
フェリクスは髭も伸ばさず、戦士にもならず、貿易商にくっついて世界中を旅している。
時々とんでもない土産物を携えて姿を見せるので、驚きとともに笑いを齎してくれる。唯一心配なのは、私の知らない異国の地に、私の知らない孫がいたりしないかということだけれど……神様に委ねるしかない。
王国の英雄フィンリー侯爵と国王陛下が相次いで天に召された。
共に高齢だったこともあり、哀しみより祈りと感謝が王国内のみならず諸国から寄せられた。
王太子殿下が修道院から離れたくないということで王位継承権を破棄し、王弟クリストファー殿下が摂政となり、ノエル王子が王位を継いだ。
その戴冠式を今でも鮮明に思い出せる。
王国は若返り、活気づき、時代の進歩に合わせて発展し、瞬く間に時は過ぎた。
グレース妃が、逝ってしまった。
「グレース様」
棺の中、花に囲まれて静かに横たわる美しい人の頬を、私は撫でて、呼び掛ける。
あの日、死を覚悟してお産に臨んだ、私の大切な人。
共に人生を歩んできた人。
私の人生を切り拓いてくれた、奇跡の人。
愛する、友。
「おやすみなさい」
別れは哀しく辛い。
それでも、あれほど死を覚悟していた若い王弟妃はこんなにも長生きして、子宝にも恵まれて、輝かしい人生を歩んだ。
それはやはり、祝福だった。
心にぽっかりと穴が空いたのは私だけではなく、やはりクリストファー殿下が急激に弱り、後を追うように逝ってしまった。
最期は、グレース妃に会えると呟き、喜び、微笑みながら永遠の眠りに就いたと聞いている。
みんな、みんな。
逝ってしまった。
それはそうだ。
私は七十二才になっていた。
却って開き直るような心境になり、私は現在、兄の遺してくれた別荘でかなり悠々自適に暮らしている。
そんな私を誰よりも親身になって気遣ってくれるのはオルガだった。ダニエルとの仲が芳しくないというわけではなく、単純に、私の安否を確認するという名目で頻繁にやってくる。
私に娘はいない。だから、オルガは本当に可愛かった。皴が目立ち始めているとしても。
「お義母様!そんな重たいものを持たないで!」
「平気よ」
二人きりで旅行したり、モードリンが設立した孤児院を慰問したり、芸術家を育てたり、噴水の修繕費を寄付したり、あとは、自分で庭を耕したり。
本当に、楽しい日々。
いろいろと楽しみを見つけている。
そうやって残された人生を慈しんでいたある日、私は、オルガと訪れた植物園で懐かしい人と再会した。
私は、オルガを待ってベンチに座っていた。
今オルガは、私が気に入ってしまったとても魅力的な異国の果樹について、買い付けが可能かどうか主催者に確認してくれている。
機嫌よく考え事をしていた私の隣に、貴族風の老人が腰掛けたので、恐らく知り合いだろうと思い会釈をした。
「あなた……」
マシューだった。
随分と白髪ばかりになって、鼻の下なんか、ふさふさした髭を蓄えちゃって……
私も皺くちゃだけど。
「旅行?」
「否。新しい貿易港を開く取り組みがあって、招待されたんだよ」
「そうなの」
今や王国の英雄というだけではなく、進歩的な建築家として名を馳せているコルボーン伯爵。
かつて浅からぬ仲にあり、防衛戦争を共に生き抜いた同志でもある、旧友。彼は立派になった。立派な髭も似合うようになっていた。
私も立派な白髪をこれ見よがしに結い上げているから、ある意味お似合いね。
ちょうど、通行人には老夫婦に見えるかもしれない。
思えば、マシューもなかなか長生きだ。
「会えて嬉しいわ。懐かしい」
私は笑ってマシューの手を叩いた。
マシューは節くれ立った手で杖を握っている。
マシューも嬉しそうに目を細めて笑っていた。
「寂しいわ。皆、先に逝ってしまって。でもあなたは頑張っているわね」
「そうだね。また、君に会えた」
「偶然?」
「奇跡かもしれない。まさか、此処で君と会えるとは思っていなかったよ」
「そうよねぇ」
私は何度もマシューの手をぽんぽんと叩いた。
とても懐かしくて、再会の喜びに素直に浸っていた。
これが、最後になるかもしれないし。
そう思えば、遠慮もない。
「寂しい?それじゃあ、結婚しようか」
「え?」
穏やかな提案の持つ奇妙さに、私はつい旧友を見つめた。
優しく品の良い知的な微笑みの奥、眼差しは深く、堅実だった。
「ふっ」
笑いが洩れる。
その勢いのまま、私は上機嫌に笑った。
人生って面白い。
五十年くらい前に、同じような人に同じようなことを言われたもの。結局、駄目になったけれど。
「ああ、可笑しい。まさか、今更、あなたが復縁をお望みなんて驚きですわ」
目尻の涙を軽く拭ってから、またマシューの手を叩く。
そして、杖がないと歩くのも辛いのねと、他意はなく思った。
私が笑っているのが嬉しいのか、マシューは眩しそうに目を細めて微笑んでいる。
そうそう。
本当に、優しい真面目な人なのよ。
「いいわ」
「え?」
微笑んでいたマシューが、白いふさふさした眉毛の下で目を丸くする。
「いいわ。あなたと結婚する」
「レイチェル……」
「そろそろお迎えがありそうだもの。あなたと、優しい穏やかな日々を過ごすのもいいじゃない」
冗談なら笑って楽しめばいいし、本気なら、全然、悪い提案ではない。
トレヴァーが亡くなって二十年近く経った今、再婚についてダニエルも煩く言わないだろう。オルガは、何か言うかもしれないけれど……
「本当?」
マシューは少し震える声で問い返してくる。
「ええ。……大丈夫、相手はわかってるわ」
一応、言っておく。
「呆けてません」
念の為。
「君が寂しいのかと思って、少しでも笑って欲しくて言ったんだよ」
「面白かったわ。ありがとう。あと嬉しかった。真剣に答えたのよ」
「本当?」
「ええ」
「本当に……チャンスを、くれるのかい……?」
マシューの切実さは今更私の心を震わせはしないけれど、彼が人生の一部でなかったとは言い切れない。
私はじゃれるように叩くのをやめ、マシューの手をそっと包んだ。そして、不安そうに揺れる瞳を覗きこむ。
「あなたに恋をするのは難しいかもしれない。でも、愛するのは、難しいことじゃないわ」
いつかキャサリンが言ってくれた。
幸せになる為なら、何度でも結婚してもいいと。
「レイチェル……」
「ええ」
最期の日まで。
もう一度、あなたと歩いてみたい。
「……っ」
マシューが静かに泣き崩れた。
貴族の老人が泣き始めたので、多少、注目を浴びた。
「言ってみてよかった……、二度と、君とは、結ばれないと思っていた……」
「過ぎたことよ」
片や慰める貴族の老婦人つまり私にはあたたかな視線が集まっているのを感じる。
何れにしても、あまり余計な心配をかけてはいけない。誰に対しても。
「あ。キスは、気が乗るまで気長に待ってね」
「勿論だよ。君の気持ちが、他の何より重要なんだ……」
「まあ、大丈夫よ。それくらいの時間はある。私たち、たぶん長生きだもの」
人生は、あと少し。
まだもう少し、続いていく。
「レイチェル。ありがとう」
新しい相棒と、ゆったりと、歩みをあわせて。
嬉しいこと、面白いことがたくさんあった。
哀しみはいつも、親しい人を連れて行く時だけ訪れた。
王国の英雄フィンリー侯爵がキャラダイン伯爵家の末裔アイラと結婚したのは、王国の歴史に重大な意味を齎す歴史となった。
年の離れた英傑夫婦の子はやはり、英雄の一人となったのだ。
私がなかなか領地から出てこないのにグレース妃が痺れを切らし、メラン伯爵一家としてゴールトン=コリガン辺境伯領に訪れたのは、末っ子のフェリクスが七才の夏だった。
この夏、王弟夫妻の末っ子ユーフェミア姫が、私の次男エルウィンと恋仲になり、三年後に初恋を実らせて婚約し、更に二年後の春に結婚した。
エルウィンは国王陛下より名誉職として伯爵位を授かり、カータレット伯爵となった。
ゴールトン=コリガン辺境伯は長い歴史の果てに、ついに王族の親戚になったのだ。
私の孫息子であるカータレット伯爵令息ディミアンと、フィンリー侯爵令息カーライル。
この二人が率いた解放軍は同盟国を滅亡の危機から救い、勝利の結果、両国の領土を広げた。
この大きな戦争の前に、モードリンが結婚している。
相手は恋人のマクシームではなく、エインズワス伯爵。
老衰を迎えようとしていた父親カミンガム卿の、生涯をかけて熱望した貴族と娘の結婚という夢を叶えた形式的な結婚だった。
エインズワス伯爵も高齢で、長らくモードリンのファンだったこともあり、そこに夫婦の愛や恋愛感情はなく、マクシームとの恋愛を生涯応援してきた自負もあったのかもしれない。
カミンガム卿が天に召されると、エインズワス伯爵はモードリンとマクシームの為に土地を購入。
此処にエインズワス伯爵夫人モードリンと国王付首席近侍マクシームの共同財産となる大豪邸が建築され、晩年、二人はそこで静かに暮らしていた。
マクシームの亡き後、国王付首席近侍の職はマクシームの甥の一家が引き継いでいる。
キャサリンが亡くなった時、私は悲しみの余り、二年ほど塞ぎ込んでしまった。
グレース妃の慰めさえも私を元気付けはしなかった。
併し、時が流れ、哀しみを受け入れると、また穏やかな人生を楽しむ心境になってきた。
トレヴァーが病に倒れ、五年の闘病生活を経て、神の腕の中で安らかな眠りに就いた。
不思議なことに、キャサリンを喪った喪失感よりそれは小さかった。病に向き合い、二人で戦い抜いたことが、豊かな掛替えのない思い出となったからかもしれない。
「君を愛している。幸せだった。ありがとう」
トレヴァーはことある毎にそう言って私の手を握り、時にはキスをして、美しい微笑みを浮かべていた。
私もいずれ逝く。
この人生を愛し、生き抜いて。
私がゴールトン=コリガン城を離れる決意を固めたのは、ダニエルの妻オルガの悲痛な叫びを聞いてしまった瞬間だった。
「私とお義母様、どちらが大切なの!?」
気の強いオルガとの仲は決して悪くはなかったものの、ダニエルは親しい人を続けて見送った私に優しすぎた面があり、少なからずオルガを傷つけていた。
若きゴールトン=コリガン辺境伯夫妻の仲を裂くような真似は、絶対にできない。したくない。
二人の幸せを願い、私は、長く住み馴れた愛しい地をついに去ったのだった。完全にというわけではなく、次兄マイルズの遺してくれた別荘に移り住み余生を楽しむというのが建前だった。
だって、トレヴァーが眠っているもの。
いつでも帰りたい時に帰る。
オルガとの仲はその後も良好で、別荘によく贈り物を届けてくれた。
フェリクスは髭も伸ばさず、戦士にもならず、貿易商にくっついて世界中を旅している。
時々とんでもない土産物を携えて姿を見せるので、驚きとともに笑いを齎してくれる。唯一心配なのは、私の知らない異国の地に、私の知らない孫がいたりしないかということだけれど……神様に委ねるしかない。
王国の英雄フィンリー侯爵と国王陛下が相次いで天に召された。
共に高齢だったこともあり、哀しみより祈りと感謝が王国内のみならず諸国から寄せられた。
王太子殿下が修道院から離れたくないということで王位継承権を破棄し、王弟クリストファー殿下が摂政となり、ノエル王子が王位を継いだ。
その戴冠式を今でも鮮明に思い出せる。
王国は若返り、活気づき、時代の進歩に合わせて発展し、瞬く間に時は過ぎた。
グレース妃が、逝ってしまった。
「グレース様」
棺の中、花に囲まれて静かに横たわる美しい人の頬を、私は撫でて、呼び掛ける。
あの日、死を覚悟してお産に臨んだ、私の大切な人。
共に人生を歩んできた人。
私の人生を切り拓いてくれた、奇跡の人。
愛する、友。
「おやすみなさい」
別れは哀しく辛い。
それでも、あれほど死を覚悟していた若い王弟妃はこんなにも長生きして、子宝にも恵まれて、輝かしい人生を歩んだ。
それはやはり、祝福だった。
心にぽっかりと穴が空いたのは私だけではなく、やはりクリストファー殿下が急激に弱り、後を追うように逝ってしまった。
最期は、グレース妃に会えると呟き、喜び、微笑みながら永遠の眠りに就いたと聞いている。
みんな、みんな。
逝ってしまった。
それはそうだ。
私は七十二才になっていた。
却って開き直るような心境になり、私は現在、兄の遺してくれた別荘でかなり悠々自適に暮らしている。
そんな私を誰よりも親身になって気遣ってくれるのはオルガだった。ダニエルとの仲が芳しくないというわけではなく、単純に、私の安否を確認するという名目で頻繁にやってくる。
私に娘はいない。だから、オルガは本当に可愛かった。皴が目立ち始めているとしても。
「お義母様!そんな重たいものを持たないで!」
「平気よ」
二人きりで旅行したり、モードリンが設立した孤児院を慰問したり、芸術家を育てたり、噴水の修繕費を寄付したり、あとは、自分で庭を耕したり。
本当に、楽しい日々。
いろいろと楽しみを見つけている。
そうやって残された人生を慈しんでいたある日、私は、オルガと訪れた植物園で懐かしい人と再会した。
私は、オルガを待ってベンチに座っていた。
今オルガは、私が気に入ってしまったとても魅力的な異国の果樹について、買い付けが可能かどうか主催者に確認してくれている。
機嫌よく考え事をしていた私の隣に、貴族風の老人が腰掛けたので、恐らく知り合いだろうと思い会釈をした。
「あなた……」
マシューだった。
随分と白髪ばかりになって、鼻の下なんか、ふさふさした髭を蓄えちゃって……
私も皺くちゃだけど。
「旅行?」
「否。新しい貿易港を開く取り組みがあって、招待されたんだよ」
「そうなの」
今や王国の英雄というだけではなく、進歩的な建築家として名を馳せているコルボーン伯爵。
かつて浅からぬ仲にあり、防衛戦争を共に生き抜いた同志でもある、旧友。彼は立派になった。立派な髭も似合うようになっていた。
私も立派な白髪をこれ見よがしに結い上げているから、ある意味お似合いね。
ちょうど、通行人には老夫婦に見えるかもしれない。
思えば、マシューもなかなか長生きだ。
「会えて嬉しいわ。懐かしい」
私は笑ってマシューの手を叩いた。
マシューは節くれ立った手で杖を握っている。
マシューも嬉しそうに目を細めて笑っていた。
「寂しいわ。皆、先に逝ってしまって。でもあなたは頑張っているわね」
「そうだね。また、君に会えた」
「偶然?」
「奇跡かもしれない。まさか、此処で君と会えるとは思っていなかったよ」
「そうよねぇ」
私は何度もマシューの手をぽんぽんと叩いた。
とても懐かしくて、再会の喜びに素直に浸っていた。
これが、最後になるかもしれないし。
そう思えば、遠慮もない。
「寂しい?それじゃあ、結婚しようか」
「え?」
穏やかな提案の持つ奇妙さに、私はつい旧友を見つめた。
優しく品の良い知的な微笑みの奥、眼差しは深く、堅実だった。
「ふっ」
笑いが洩れる。
その勢いのまま、私は上機嫌に笑った。
人生って面白い。
五十年くらい前に、同じような人に同じようなことを言われたもの。結局、駄目になったけれど。
「ああ、可笑しい。まさか、今更、あなたが復縁をお望みなんて驚きですわ」
目尻の涙を軽く拭ってから、またマシューの手を叩く。
そして、杖がないと歩くのも辛いのねと、他意はなく思った。
私が笑っているのが嬉しいのか、マシューは眩しそうに目を細めて微笑んでいる。
そうそう。
本当に、優しい真面目な人なのよ。
「いいわ」
「え?」
微笑んでいたマシューが、白いふさふさした眉毛の下で目を丸くする。
「いいわ。あなたと結婚する」
「レイチェル……」
「そろそろお迎えがありそうだもの。あなたと、優しい穏やかな日々を過ごすのもいいじゃない」
冗談なら笑って楽しめばいいし、本気なら、全然、悪い提案ではない。
トレヴァーが亡くなって二十年近く経った今、再婚についてダニエルも煩く言わないだろう。オルガは、何か言うかもしれないけれど……
「本当?」
マシューは少し震える声で問い返してくる。
「ええ。……大丈夫、相手はわかってるわ」
一応、言っておく。
「呆けてません」
念の為。
「君が寂しいのかと思って、少しでも笑って欲しくて言ったんだよ」
「面白かったわ。ありがとう。あと嬉しかった。真剣に答えたのよ」
「本当?」
「ええ」
「本当に……チャンスを、くれるのかい……?」
マシューの切実さは今更私の心を震わせはしないけれど、彼が人生の一部でなかったとは言い切れない。
私はじゃれるように叩くのをやめ、マシューの手をそっと包んだ。そして、不安そうに揺れる瞳を覗きこむ。
「あなたに恋をするのは難しいかもしれない。でも、愛するのは、難しいことじゃないわ」
いつかキャサリンが言ってくれた。
幸せになる為なら、何度でも結婚してもいいと。
「レイチェル……」
「ええ」
最期の日まで。
もう一度、あなたと歩いてみたい。
「……っ」
マシューが静かに泣き崩れた。
貴族の老人が泣き始めたので、多少、注目を浴びた。
「言ってみてよかった……、二度と、君とは、結ばれないと思っていた……」
「過ぎたことよ」
片や慰める貴族の老婦人つまり私にはあたたかな視線が集まっているのを感じる。
何れにしても、あまり余計な心配をかけてはいけない。誰に対しても。
「あ。キスは、気が乗るまで気長に待ってね」
「勿論だよ。君の気持ちが、他の何より重要なんだ……」
「まあ、大丈夫よ。それくらいの時間はある。私たち、たぶん長生きだもの」
人生は、あと少し。
まだもう少し、続いていく。
「レイチェル。ありがとう」
新しい相棒と、ゆったりと、歩みをあわせて。
626
あなたにおすすめの小説
幼馴染と仲良くし過ぎている婚約者とは婚約破棄したい!
ルイス
恋愛
ダイダロス王国の侯爵令嬢であるエレナは、リグリット公爵令息と婚約をしていた。
同じ18歳ということで話も合い、仲睦まじいカップルだったが……。
そこに現れたリグリットの幼馴染の伯爵令嬢の存在。リグリットは幼馴染を優先し始める。
あまりにも度が過ぎるので、エレナは不満を口にするが……リグリットは今までの優しい彼からは豹変し、権力にものを言わせ、エレナを束縛し始めた。
「婚約破棄なんてしたら、どうなるか分かっているな?」
その時、エレナは分かってしまったのだ。リグリットは自分の侯爵令嬢の地位だけにしか興味がないことを……。
そんな彼女の前に現れたのは、幼馴染のヨハン王子殿下だった。エレナの状況を理解し、ヨハンは動いてくれることを約束してくれる。
正式な婚約破棄の申し出をするエレナに対し、激怒するリグリットだったが……。
どう見ても貴方はもう一人の幼馴染が好きなので別れてください
ルイス
恋愛
レレイとアルカは伯爵令嬢であり幼馴染だった。同じく伯爵令息のクローヴィスも幼馴染だ。
やがてレレイとクローヴィスが婚約し幸せを手に入れるはずだったが……
クローヴィスは理想の婚約者に憧れを抱いており、何かともう一人の幼馴染のアルカと、婚約者になったはずのレレイを比べるのだった。
さらにはアルカの方を優先していくなど、明らかにおかしな事態になっていく。
どう見てもクローヴィスはアルカの方が好きになっている……そう感じたレレイは、彼との婚約解消を申し出た。
婚約解消は無事に果たされ悲しみを持ちながらもレレイは前へ進んでいくことを決心した。
その後、国一番の美男子で性格、剣術も最高とされる公爵令息に求婚されることになり……彼女は別の幸せの一歩を刻んでいく。
しかし、クローヴィスが急にレレイを溺愛してくるのだった。アルカとの仲も上手く行かなかったようで、真実の愛とか言っているけれど……怪しさ満点だ。ひたすらに女々しいクローヴィス……レレイは冷たい視線を送るのだった。
「あなたとはもう終わったんですよ? いつまでも、キスが出来ると思っていませんか?」
君を幸せにする、そんな言葉を信じた私が馬鹿だった
白羽天使
恋愛
学園生活も残りわずかとなったある日、アリスは婚約者のフロイドに中庭へと呼び出される。そこで彼が告げたのは、「君に愛はないんだ」という残酷な一言だった。幼いころから将来を約束されていた二人。家同士の結びつきの中で育まれたその関係は、アリスにとって大切な生きる希望だった。フロイドもまた、「君を幸せにする」と繰り返し口にしてくれていたはずだったのに――。
【完結】今日も旦那は愛人に尽くしている~なら私もいいわよね?~
コトミ
恋愛
結婚した夫には愛人がいた。辺境伯の令嬢であったビオラには男兄弟がおらず、子爵家のカールを婿として屋敷に向かい入れた。半年の間は良かったが、それから事態は急速に悪化していく。伯爵であり、領地も統治している夫に平民の愛人がいて、屋敷の隣にその愛人のための別棟まで作って愛人に尽くす。こんなことを我慢できる夫人は私以外に何人いるのかしら。そんな考えを巡らせながら、ビオラは毎日夫の代わりに領地の仕事をこなしていた。毎晩夫のカールは愛人の元へ通っている。その間ビオラは休む暇なく仕事をこなした。ビオラがカールに反論してもカールは「君も愛人を作ればいいじゃないか」の一点張り。我慢の限界になったビオラはずっと大切にしてきた屋敷を飛び出した。
そしてその飛び出した先で出会った人とは?
(できる限り毎日投稿を頑張ります。誤字脱字、世界観、ストーリー構成、などなどはゆるゆるです)
婚約解消したら後悔しました
せいめ
恋愛
別に好きな人ができた私は、幼い頃からの婚約者と婚約解消した。
婚約解消したことで、ずっと後悔し続ける令息の話。
ご都合主義です。ゆるい設定です。
誤字脱字お許しください。
手放したくない理由
ねむたん
恋愛
公爵令嬢エリスと王太子アドリアンの婚約は、互いに「務め」として受け入れたものだった。貴族として、国のために結ばれる。
しかし、王太子が何かと幼馴染のレイナを優先し、社交界でも「王太子妃にふさわしいのは彼女では?」と囁かれる中、エリスは淡々と「それならば、私は不要では?」と考える。そして、自ら婚約解消を申し出る。
話し合いの場で、王妃が「辛い思いをさせてしまってごめんなさいね」と声をかけるが、エリスは本当にまったく辛くなかったため、きょとんとする。その様子を見た周囲は困惑し、
「……王太子への愛は芽生えていなかったのですか?」
と問うが、エリスは「愛?」と首を傾げる。
同時に、婚約解消に動揺したアドリアンにも、側近たちが「殿下はレイナ嬢に恋をしていたのでは?」と問いかける。しかし、彼もまた「恋……?」と首を傾げる。
大人たちは、その光景を見て、教育の偏りを大いに後悔することになる。
彼女よりも幼馴染を溺愛して優先の彼と結婚するか悩む
佐藤 美奈
恋愛
公爵家の広大な庭園。その奥まった一角に佇む白いガゼボで、私はひとり思い悩んでいた。
私の名はニーナ・フォン・ローゼンベルク。名門ローゼンベルク家の令嬢として、若き騎士アンドレ・フォン・ヴァルシュタインとの婚約がすでに決まっている。けれど、その婚約に心からの喜びを感じることができずにいた。
理由はただ一つ。彼の幼馴染であるキャンディ・フォン・リエーヌ子爵令嬢の存在。
アンドレは、彼女がすべてであるかのように振る舞い、いついかなる時も彼女の望みを最優先にする。婚約者である私の気持ちなど、まるで見えていないかのように。
そして、アンドレはようやく自分の至らなさに気づくこととなった。
失われたニーナの心を取り戻すため、彼は様々なイベントであらゆる方法を試みることを決意する。その思いは、ただ一つ、彼女の笑顔を再び見ることに他ならなかった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる