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長い、長い、時が過ぎた。
嬉しいこと、面白いことがたくさんあった。
哀しみはいつも、親しい人を連れて行く時だけ訪れた。
王国の英雄フィンリー侯爵がキャラダイン伯爵家の末裔アイラと結婚したのは、王国の歴史に重大な意味を齎す歴史となった。
年の離れた英傑夫婦の子はやはり、英雄の一人となったのだ。
私がなかなか領地から出てこないのにグレース妃が痺れを切らし、メラン伯爵一家としてゴールトン=コリガン辺境伯領に訪れたのは、末っ子のフェリクスが七才の夏だった。
この夏、王弟夫妻の末っ子ユーフェミア姫が、私の次男エルウィンと恋仲になり、三年後に初恋を実らせて婚約し、更に二年後の春に結婚した。
エルウィンは国王陛下より名誉職として伯爵位を授かり、カータレット伯爵となった。
ゴールトン=コリガン辺境伯は長い歴史の果てに、ついに王族の親戚になったのだ。
私の孫息子であるカータレット伯爵令息ディミアンと、フィンリー侯爵令息カーライル。
この二人が率いた解放軍は同盟国を滅亡の危機から救い、勝利の結果、両国の領土を広げた。
この大きな戦争の前に、モードリンが結婚している。
相手は恋人のマクシームではなく、エインズワス伯爵。
老衰を迎えようとしていた父親カミンガム卿の、生涯をかけて熱望した貴族と娘の結婚という夢を叶えた形式的な結婚だった。
エインズワス伯爵も高齢で、長らくモードリンのファンだったこともあり、そこに夫婦の愛や恋愛感情はなく、マクシームとの恋愛を生涯応援してきた自負もあったのかもしれない。
カミンガム卿が天に召されると、エインズワス伯爵はモードリンとマクシームの為に土地を購入。
此処にエインズワス伯爵夫人モードリンと国王付首席近侍マクシームの共同財産となる大豪邸が建築され、晩年、二人はそこで静かに暮らしていた。
マクシームの亡き後、国王付首席近侍の職はマクシームの甥の一家が引き継いでいる。
キャサリンが亡くなった時、私は悲しみの余り、二年ほど塞ぎ込んでしまった。
グレース妃の慰めさえも私を元気付けはしなかった。
併し、時が流れ、哀しみを受け入れると、また穏やかな人生を楽しむ心境になってきた。
トレヴァーが病に倒れ、五年の闘病生活を経て、神の腕の中で安らかな眠りに就いた。
不思議なことに、キャサリンを喪った喪失感よりそれは小さかった。病に向き合い、二人で戦い抜いたことが、豊かな掛替えのない思い出となったからかもしれない。
「君を愛している。幸せだった。ありがとう」
トレヴァーはことある毎にそう言って私の手を握り、時にはキスをして、美しい微笑みを浮かべていた。
私もいずれ逝く。
この人生を愛し、生き抜いて。
私がゴールトン=コリガン城を離れる決意を固めたのは、ダニエルの妻オルガの悲痛な叫びを聞いてしまった瞬間だった。
「私とお義母様、どちらが大切なの!?」
気の強いオルガとの仲は決して悪くはなかったものの、ダニエルは親しい人を続けて見送った私に優しすぎた面があり、少なからずオルガを傷つけていた。
若きゴールトン=コリガン辺境伯夫妻の仲を裂くような真似は、絶対にできない。したくない。
二人の幸せを願い、私は、長く住み馴れた愛しい地をついに去ったのだった。完全にというわけではなく、次兄マイルズの遺してくれた別荘に移り住み余生を楽しむというのが建前だった。
だって、トレヴァーが眠っているもの。
いつでも帰りたい時に帰る。
オルガとの仲はその後も良好で、別荘によく贈り物を届けてくれた。
フェリクスは髭も伸ばさず、戦士にもならず、貿易商にくっついて世界中を旅している。
時々とんでもない土産物を携えて姿を見せるので、驚きとともに笑いを齎してくれる。唯一心配なのは、私の知らない異国の地に、私の知らない孫がいたりしないかということだけれど……神様に委ねるしかない。
王国の英雄フィンリー侯爵と国王陛下が相次いで天に召された。
共に高齢だったこともあり、哀しみより祈りと感謝が王国内のみならず諸国から寄せられた。
王太子殿下が修道院から離れたくないということで王位継承権を破棄し、王弟クリストファー殿下が摂政となり、ノエル王子が王位を継いだ。
その戴冠式を今でも鮮明に思い出せる。
王国は若返り、活気づき、時代の進歩に合わせて発展し、瞬く間に時は過ぎた。
グレース妃が、逝ってしまった。
「グレース様」
棺の中、花に囲まれて静かに横たわる美しい人の頬を、私は撫でて、呼び掛ける。
あの日、死を覚悟してお産に臨んだ、私の大切な人。
共に人生を歩んできた人。
私の人生を切り拓いてくれた、奇跡の人。
愛する、友。
「おやすみなさい」
別れは哀しく辛い。
それでも、あれほど死を覚悟していた若い王弟妃はこんなにも長生きして、子宝にも恵まれて、輝かしい人生を歩んだ。
それはやはり、祝福だった。
心にぽっかりと穴が空いたのは私だけではなく、やはりクリストファー殿下が急激に弱り、後を追うように逝ってしまった。
最期は、グレース妃に会えると呟き、喜び、微笑みながら永遠の眠りに就いたと聞いている。
みんな、みんな。
逝ってしまった。
それはそうだ。
私は七十二才になっていた。
却って開き直るような心境になり、私は現在、兄の遺してくれた別荘でかなり悠々自適に暮らしている。
そんな私を誰よりも親身になって気遣ってくれるのはオルガだった。ダニエルとの仲が芳しくないというわけではなく、単純に、私の安否を確認するという名目で頻繁にやってくる。
私に娘はいない。だから、オルガは本当に可愛かった。皴が目立ち始めているとしても。
「お義母様!そんな重たいものを持たないで!」
「平気よ」
二人きりで旅行したり、モードリンが設立した孤児院を慰問したり、芸術家を育てたり、噴水の修繕費を寄付したり、あとは、自分で庭を耕したり。
本当に、楽しい日々。
いろいろと楽しみを見つけている。
そうやって残された人生を慈しんでいたある日、私は、オルガと訪れた植物園で懐かしい人と再会した。
私は、オルガを待ってベンチに座っていた。
今オルガは、私が気に入ってしまったとても魅力的な異国の果樹について、買い付けが可能かどうか主催者に確認してくれている。
機嫌よく考え事をしていた私の隣に、貴族風の老人が腰掛けたので、恐らく知り合いだろうと思い会釈をした。
「あなた……」
マシューだった。
随分と白髪ばかりになって、鼻の下なんか、ふさふさした髭を蓄えちゃって……
私も皺くちゃだけど。
「旅行?」
「否。新しい貿易港を開く取り組みがあって、招待されたんだよ」
「そうなの」
今や王国の英雄というだけではなく、進歩的な建築家として名を馳せているコルボーン伯爵。
かつて浅からぬ仲にあり、防衛戦争を共に生き抜いた同志でもある、旧友。彼は立派になった。立派な髭も似合うようになっていた。
私も立派な白髪をこれ見よがしに結い上げているから、ある意味お似合いね。
ちょうど、通行人には老夫婦に見えるかもしれない。
思えば、マシューもなかなか長生きだ。
「会えて嬉しいわ。懐かしい」
私は笑ってマシューの手を叩いた。
マシューは節くれ立った手で杖を握っている。
マシューも嬉しそうに目を細めて笑っていた。
「寂しいわ。皆、先に逝ってしまって。でもあなたは頑張っているわね」
「そうだね。また、君に会えた」
「偶然?」
「奇跡かもしれない。まさか、此処で君と会えるとは思っていなかったよ」
「そうよねぇ」
私は何度もマシューの手をぽんぽんと叩いた。
とても懐かしくて、再会の喜びに素直に浸っていた。
これが、最後になるかもしれないし。
そう思えば、遠慮もない。
「寂しい?それじゃあ、結婚しようか」
「え?」
穏やかな提案の持つ奇妙さに、私はつい旧友を見つめた。
優しく品の良い知的な微笑みの奥、眼差しは深く、堅実だった。
「ふっ」
笑いが洩れる。
その勢いのまま、私は上機嫌に笑った。
人生って面白い。
五十年くらい前に、同じような人に同じようなことを言われたもの。結局、駄目になったけれど。
「ああ、可笑しい。まさか、今更、あなたが復縁をお望みなんて驚きですわ」
目尻の涙を軽く拭ってから、またマシューの手を叩く。
そして、杖がないと歩くのも辛いのねと、他意はなく思った。
私が笑っているのが嬉しいのか、マシューは眩しそうに目を細めて微笑んでいる。
そうそう。
本当に、優しい真面目な人なのよ。
「いいわ」
「え?」
微笑んでいたマシューが、白いふさふさした眉毛の下で目を丸くする。
「いいわ。あなたと結婚する」
「レイチェル……」
「そろそろお迎えがありそうだもの。あなたと、優しい穏やかな日々を過ごすのもいいじゃない」
冗談なら笑って楽しめばいいし、本気なら、全然、悪い提案ではない。
トレヴァーが亡くなって二十年近く経った今、再婚についてダニエルも煩く言わないだろう。オルガは、何か言うかもしれないけれど……
「本当?」
マシューは少し震える声で問い返してくる。
「ええ。……大丈夫、相手はわかってるわ」
一応、言っておく。
「呆けてません」
念の為。
「君が寂しいのかと思って、少しでも笑って欲しくて言ったんだよ」
「面白かったわ。ありがとう。あと嬉しかった。真剣に答えたのよ」
「本当?」
「ええ」
「本当に……チャンスを、くれるのかい……?」
マシューの切実さは今更私の心を震わせはしないけれど、彼が人生の一部でなかったとは言い切れない。
私はじゃれるように叩くのをやめ、マシューの手をそっと包んだ。そして、不安そうに揺れる瞳を覗きこむ。
「あなたに恋をするのは難しいかもしれない。でも、愛するのは、難しいことじゃないわ」
いつかキャサリンが言ってくれた。
幸せになる為なら、何度でも結婚してもいいと。
「レイチェル……」
「ええ」
最期の日まで。
もう一度、あなたと歩いてみたい。
「……っ」
マシューが静かに泣き崩れた。
貴族の老人が泣き始めたので、多少、注目を浴びた。
「言ってみてよかった……、二度と、君とは、結ばれないと思っていた……」
「過ぎたことよ」
片や慰める貴族の老婦人つまり私にはあたたかな視線が集まっているのを感じる。
何れにしても、あまり余計な心配をかけてはいけない。誰に対しても。
「あ。キスは、気が乗るまで気長に待ってね」
「勿論だよ。君の気持ちが、他の何より重要なんだ……」
「まあ、大丈夫よ。それくらいの時間はある。私たち、たぶん長生きだもの」
人生は、あと少し。
まだもう少し、続いていく。
「レイチェル。ありがとう」
新しい相棒と、ゆったりと、歩みをあわせて。
嬉しいこと、面白いことがたくさんあった。
哀しみはいつも、親しい人を連れて行く時だけ訪れた。
王国の英雄フィンリー侯爵がキャラダイン伯爵家の末裔アイラと結婚したのは、王国の歴史に重大な意味を齎す歴史となった。
年の離れた英傑夫婦の子はやはり、英雄の一人となったのだ。
私がなかなか領地から出てこないのにグレース妃が痺れを切らし、メラン伯爵一家としてゴールトン=コリガン辺境伯領に訪れたのは、末っ子のフェリクスが七才の夏だった。
この夏、王弟夫妻の末っ子ユーフェミア姫が、私の次男エルウィンと恋仲になり、三年後に初恋を実らせて婚約し、更に二年後の春に結婚した。
エルウィンは国王陛下より名誉職として伯爵位を授かり、カータレット伯爵となった。
ゴールトン=コリガン辺境伯は長い歴史の果てに、ついに王族の親戚になったのだ。
私の孫息子であるカータレット伯爵令息ディミアンと、フィンリー侯爵令息カーライル。
この二人が率いた解放軍は同盟国を滅亡の危機から救い、勝利の結果、両国の領土を広げた。
この大きな戦争の前に、モードリンが結婚している。
相手は恋人のマクシームではなく、エインズワス伯爵。
老衰を迎えようとしていた父親カミンガム卿の、生涯をかけて熱望した貴族と娘の結婚という夢を叶えた形式的な結婚だった。
エインズワス伯爵も高齢で、長らくモードリンのファンだったこともあり、そこに夫婦の愛や恋愛感情はなく、マクシームとの恋愛を生涯応援してきた自負もあったのかもしれない。
カミンガム卿が天に召されると、エインズワス伯爵はモードリンとマクシームの為に土地を購入。
此処にエインズワス伯爵夫人モードリンと国王付首席近侍マクシームの共同財産となる大豪邸が建築され、晩年、二人はそこで静かに暮らしていた。
マクシームの亡き後、国王付首席近侍の職はマクシームの甥の一家が引き継いでいる。
キャサリンが亡くなった時、私は悲しみの余り、二年ほど塞ぎ込んでしまった。
グレース妃の慰めさえも私を元気付けはしなかった。
併し、時が流れ、哀しみを受け入れると、また穏やかな人生を楽しむ心境になってきた。
トレヴァーが病に倒れ、五年の闘病生活を経て、神の腕の中で安らかな眠りに就いた。
不思議なことに、キャサリンを喪った喪失感よりそれは小さかった。病に向き合い、二人で戦い抜いたことが、豊かな掛替えのない思い出となったからかもしれない。
「君を愛している。幸せだった。ありがとう」
トレヴァーはことある毎にそう言って私の手を握り、時にはキスをして、美しい微笑みを浮かべていた。
私もいずれ逝く。
この人生を愛し、生き抜いて。
私がゴールトン=コリガン城を離れる決意を固めたのは、ダニエルの妻オルガの悲痛な叫びを聞いてしまった瞬間だった。
「私とお義母様、どちらが大切なの!?」
気の強いオルガとの仲は決して悪くはなかったものの、ダニエルは親しい人を続けて見送った私に優しすぎた面があり、少なからずオルガを傷つけていた。
若きゴールトン=コリガン辺境伯夫妻の仲を裂くような真似は、絶対にできない。したくない。
二人の幸せを願い、私は、長く住み馴れた愛しい地をついに去ったのだった。完全にというわけではなく、次兄マイルズの遺してくれた別荘に移り住み余生を楽しむというのが建前だった。
だって、トレヴァーが眠っているもの。
いつでも帰りたい時に帰る。
オルガとの仲はその後も良好で、別荘によく贈り物を届けてくれた。
フェリクスは髭も伸ばさず、戦士にもならず、貿易商にくっついて世界中を旅している。
時々とんでもない土産物を携えて姿を見せるので、驚きとともに笑いを齎してくれる。唯一心配なのは、私の知らない異国の地に、私の知らない孫がいたりしないかということだけれど……神様に委ねるしかない。
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共に高齢だったこともあり、哀しみより祈りと感謝が王国内のみならず諸国から寄せられた。
王太子殿下が修道院から離れたくないということで王位継承権を破棄し、王弟クリストファー殿下が摂政となり、ノエル王子が王位を継いだ。
その戴冠式を今でも鮮明に思い出せる。
王国は若返り、活気づき、時代の進歩に合わせて発展し、瞬く間に時は過ぎた。
グレース妃が、逝ってしまった。
「グレース様」
棺の中、花に囲まれて静かに横たわる美しい人の頬を、私は撫でて、呼び掛ける。
あの日、死を覚悟してお産に臨んだ、私の大切な人。
共に人生を歩んできた人。
私の人生を切り拓いてくれた、奇跡の人。
愛する、友。
「おやすみなさい」
別れは哀しく辛い。
それでも、あれほど死を覚悟していた若い王弟妃はこんなにも長生きして、子宝にも恵まれて、輝かしい人生を歩んだ。
それはやはり、祝福だった。
心にぽっかりと穴が空いたのは私だけではなく、やはりクリストファー殿下が急激に弱り、後を追うように逝ってしまった。
最期は、グレース妃に会えると呟き、喜び、微笑みながら永遠の眠りに就いたと聞いている。
みんな、みんな。
逝ってしまった。
それはそうだ。
私は七十二才になっていた。
却って開き直るような心境になり、私は現在、兄の遺してくれた別荘でかなり悠々自適に暮らしている。
そんな私を誰よりも親身になって気遣ってくれるのはオルガだった。ダニエルとの仲が芳しくないというわけではなく、単純に、私の安否を確認するという名目で頻繁にやってくる。
私に娘はいない。だから、オルガは本当に可愛かった。皴が目立ち始めているとしても。
「お義母様!そんな重たいものを持たないで!」
「平気よ」
二人きりで旅行したり、モードリンが設立した孤児院を慰問したり、芸術家を育てたり、噴水の修繕費を寄付したり、あとは、自分で庭を耕したり。
本当に、楽しい日々。
いろいろと楽しみを見つけている。
そうやって残された人生を慈しんでいたある日、私は、オルガと訪れた植物園で懐かしい人と再会した。
私は、オルガを待ってベンチに座っていた。
今オルガは、私が気に入ってしまったとても魅力的な異国の果樹について、買い付けが可能かどうか主催者に確認してくれている。
機嫌よく考え事をしていた私の隣に、貴族風の老人が腰掛けたので、恐らく知り合いだろうと思い会釈をした。
「あなた……」
マシューだった。
随分と白髪ばかりになって、鼻の下なんか、ふさふさした髭を蓄えちゃって……
私も皺くちゃだけど。
「旅行?」
「否。新しい貿易港を開く取り組みがあって、招待されたんだよ」
「そうなの」
今や王国の英雄というだけではなく、進歩的な建築家として名を馳せているコルボーン伯爵。
かつて浅からぬ仲にあり、防衛戦争を共に生き抜いた同志でもある、旧友。彼は立派になった。立派な髭も似合うようになっていた。
私も立派な白髪をこれ見よがしに結い上げているから、ある意味お似合いね。
ちょうど、通行人には老夫婦に見えるかもしれない。
思えば、マシューもなかなか長生きだ。
「会えて嬉しいわ。懐かしい」
私は笑ってマシューの手を叩いた。
マシューは節くれ立った手で杖を握っている。
マシューも嬉しそうに目を細めて笑っていた。
「寂しいわ。皆、先に逝ってしまって。でもあなたは頑張っているわね」
「そうだね。また、君に会えた」
「偶然?」
「奇跡かもしれない。まさか、此処で君と会えるとは思っていなかったよ」
「そうよねぇ」
私は何度もマシューの手をぽんぽんと叩いた。
とても懐かしくて、再会の喜びに素直に浸っていた。
これが、最後になるかもしれないし。
そう思えば、遠慮もない。
「寂しい?それじゃあ、結婚しようか」
「え?」
穏やかな提案の持つ奇妙さに、私はつい旧友を見つめた。
優しく品の良い知的な微笑みの奥、眼差しは深く、堅実だった。
「ふっ」
笑いが洩れる。
その勢いのまま、私は上機嫌に笑った。
人生って面白い。
五十年くらい前に、同じような人に同じようなことを言われたもの。結局、駄目になったけれど。
「ああ、可笑しい。まさか、今更、あなたが復縁をお望みなんて驚きですわ」
目尻の涙を軽く拭ってから、またマシューの手を叩く。
そして、杖がないと歩くのも辛いのねと、他意はなく思った。
私が笑っているのが嬉しいのか、マシューは眩しそうに目を細めて微笑んでいる。
そうそう。
本当に、優しい真面目な人なのよ。
「いいわ」
「え?」
微笑んでいたマシューが、白いふさふさした眉毛の下で目を丸くする。
「いいわ。あなたと結婚する」
「レイチェル……」
「そろそろお迎えがありそうだもの。あなたと、優しい穏やかな日々を過ごすのもいいじゃない」
冗談なら笑って楽しめばいいし、本気なら、全然、悪い提案ではない。
トレヴァーが亡くなって二十年近く経った今、再婚についてダニエルも煩く言わないだろう。オルガは、何か言うかもしれないけれど……
「本当?」
マシューは少し震える声で問い返してくる。
「ええ。……大丈夫、相手はわかってるわ」
一応、言っておく。
「呆けてません」
念の為。
「君が寂しいのかと思って、少しでも笑って欲しくて言ったんだよ」
「面白かったわ。ありがとう。あと嬉しかった。真剣に答えたのよ」
「本当?」
「ええ」
「本当に……チャンスを、くれるのかい……?」
マシューの切実さは今更私の心を震わせはしないけれど、彼が人生の一部でなかったとは言い切れない。
私はじゃれるように叩くのをやめ、マシューの手をそっと包んだ。そして、不安そうに揺れる瞳を覗きこむ。
「あなたに恋をするのは難しいかもしれない。でも、愛するのは、難しいことじゃないわ」
いつかキャサリンが言ってくれた。
幸せになる為なら、何度でも結婚してもいいと。
「レイチェル……」
「ええ」
最期の日まで。
もう一度、あなたと歩いてみたい。
「……っ」
マシューが静かに泣き崩れた。
貴族の老人が泣き始めたので、多少、注目を浴びた。
「言ってみてよかった……、二度と、君とは、結ばれないと思っていた……」
「過ぎたことよ」
片や慰める貴族の老婦人つまり私にはあたたかな視線が集まっているのを感じる。
何れにしても、あまり余計な心配をかけてはいけない。誰に対しても。
「あ。キスは、気が乗るまで気長に待ってね」
「勿論だよ。君の気持ちが、他の何より重要なんだ……」
「まあ、大丈夫よ。それくらいの時間はある。私たち、たぶん長生きだもの」
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