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34(キャタモール)
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そろそろクリームが切れる頃だと思いイデアの部屋を訪れた昼下がり、私は驚愕し憤怒し憤慨し叫んだ。
「ああんっ、くそ!」
グレンフェルの女狐が!
かつて国王陛下の愛人であった歌姫クリスティーンの私室は元あった調度品などはそのままに、イデアの痕跡だけが綺麗さっぱり消え失せている。
忙殺されながらもわざわざイデアのために調合した美容クリームを新品の瓶に丁寧に詰めて持ってきてやったというのに、治療してやった恩も忘れてどこへ消えた?
「しかも掃除が行き届いている……!」
悔しい!
逃亡するような愚かな娘ではないが、憎々しい程に知恵のついた油断ならない女傑のたまごではある。せっかく手に入れた優秀な駒だからと思って目を掛けてやったのに、私に無断で部屋を移るとはなんたる裏切り。
「私たちは一つじゃないかイデア……逃がさないぞ……」
美容クリームの瓶を握りしめると、少なからず掌に痛みが走った。美しい蓋の飾りが私の心を引き裂く。
イデアのために洒落た瓶を選んだのに……
イデアめ……
忙しい私は瓶を懐に忍ばせたまま午前中の職務に当たり、昼過ぎに僅かな時間を捻出し、シャーロットが肉体的なレッスンを受けているはずの小部屋を訪れた。
「……なん、だと……!?」
蛻の殻。
どういう事だイデア。
どこまで私を弄べば気が済むのだイデア。
しかしやはり逃亡したとは思えない。
午後の職務をこなしながら数人に話を聞いてみると、王太子が唐突に馬を選んで連れて行ったという情報が耳に入った。
果たしてその日の夕暮れ。
私は庭園の隅で三人と一頭の影を発見した。そこで信じられない光景を目にする。シャーロットが馬に跨り、振り落されないようバランスを取っていたのだ。王太子は地上で手綱を握り馬を操り、私が探し求めた女狐は馬の周りを歩きながら姿勢について指示を出している。
「……」
まさか、乗馬させるとは。
逃げられでもしたらどうするのだ。
あの馬さえいなければ……いやいや、王太子の選んだ馬に何かあっては問題が大きくなり却って不都合が増えてしまう。
乗るなら乗ればいい。嫁いだ先で王子を産んでから落馬で死ぬといういうのも一つの人生だ。
「おおっ、これはシャーロット姫!」
「!?」
声を掛けると馬上のシャーロットが凍り付き、動揺した馬を王太子が見事に宥める。私がスキップしながら駆け寄った頃にはイデアの目に殺気が篭り身の危険を感じた。
だがそういう強さが憎らしいだけ好ましい。
「お馬さんですか!それはそれは勇敢な事で!」
「キャタモール、触るな。馬が動揺する」
「おっと殿下、失礼」
優雅にお詫び申し上げた。
馬上で硬直したシャーロットを案じてか王太子が慎重に抱えて地面に下ろし、それから馬の首をしきりに撫でる。私を邪魔者扱いするとは相変わらず小憎らしい王子だ。
「キャタモール卿、冷やかしは御遠慮ください。こちらも必死なのです」
イデアが憮然と冷たく他人行儀な口を利く。
私は懐から洒落た瓶を華麗な手つきで取り出した。イデアは眉を顰めた。
「勝手に部屋を移るとは、一日中探したぞ。そろそろ切れる頃だろう?特製の美容クリームだ、よ」
「……」
イデアが躊躇いがちに手を上げかけ、みぞおち辺りで彷徨わせながら声を震わせる。
「一日中、持ち歩いて……?」
「ふん、失礼な。衛生にはこれ以上ないほど気を遣っていると知っているくせに。可愛くない子だっ」
「…………」
遠縁の私たちはこれくらい砕けた会話をして見せてもいいと思うが、今日のイデアは気が利かない。
視界の隅でシャーロットが馬の影に隠れた。
と思った矢先、王太子の手が瓶を受け取る。
「なるほど、これが宮廷で大人気という美容クリームか」
さりげなく手袋を填めた手で満遍なく瓶を拭かないで頂きたい。
「いえいえ、殿下。これはイデアだけのスペシャルな美容クリームです」
「へえ。彼女を治療したそうだね。優秀だ」
「むっふっふ。良い結果を出すのは初めてではありません」
「イデアはいつベールを取ってくれる?」
「?」
確かに意外な質問だった。私以上にイデアは驚きを顕わにし、ぽかんと王太子を見上げている。私は王太子の逞しい腕を軽やかに親しみを込めて叩いた。
「殿下。妙齢女性のお肌のコンディションについて本人を前に言及するなど、無粋ですぞっ」
「彼女はチチェスター伯爵夫人の部屋に移った。今後直接は渡せないだろうから、私に届けるように」
王太子のみならずあの女が絡んでいたとは、全く憎たらしい事この上ない。
「……そうですか」
ちらりとイデアの顔色を伺うと、こちらはやはり珍しく困惑している様子。
面白くない出来事と面白い出来事が両方目の前に降って来たが、なるほど、面白い方に軍配が上がるようだ。王太子はイデアをお気に召したらしい。
また新しい仕事が増える……
「畏まりました。シャーロット姫!」
「!!」
馬越しに声を掛けると、シャーロットは大袈裟に肩を揺らして跳ねた。
「あなたにも特別なクリームをご用意しましょう。殿下からお受け取り下さい」
「…………結構です」
断るのはわかっていた。
ただ、揶揄ってやりたかっただけだ。
「そうですか。これは残念。ですが、気が変わったらいつでもイデアか殿下にお伝えください。この宮廷医師キャタ──」
「キャタモール、悪いが貴殿から漂う薬品の臭いに馬が興奮してきた。危ないから走ってこの場を去るんだ!急げ!!」
「ひっ」
追い立てられるようにその場を去った私だが、いずれ目にもの見せてやると思えばこれも可愛いお遊戯の一つでしかない。
走りながら笑いが洩れた。
ああ、愉快、愉快。
お高くとまった馬鹿共め。
「ああんっ、くそ!」
グレンフェルの女狐が!
かつて国王陛下の愛人であった歌姫クリスティーンの私室は元あった調度品などはそのままに、イデアの痕跡だけが綺麗さっぱり消え失せている。
忙殺されながらもわざわざイデアのために調合した美容クリームを新品の瓶に丁寧に詰めて持ってきてやったというのに、治療してやった恩も忘れてどこへ消えた?
「しかも掃除が行き届いている……!」
悔しい!
逃亡するような愚かな娘ではないが、憎々しい程に知恵のついた油断ならない女傑のたまごではある。せっかく手に入れた優秀な駒だからと思って目を掛けてやったのに、私に無断で部屋を移るとはなんたる裏切り。
「私たちは一つじゃないかイデア……逃がさないぞ……」
美容クリームの瓶を握りしめると、少なからず掌に痛みが走った。美しい蓋の飾りが私の心を引き裂く。
イデアのために洒落た瓶を選んだのに……
イデアめ……
忙しい私は瓶を懐に忍ばせたまま午前中の職務に当たり、昼過ぎに僅かな時間を捻出し、シャーロットが肉体的なレッスンを受けているはずの小部屋を訪れた。
「……なん、だと……!?」
蛻の殻。
どういう事だイデア。
どこまで私を弄べば気が済むのだイデア。
しかしやはり逃亡したとは思えない。
午後の職務をこなしながら数人に話を聞いてみると、王太子が唐突に馬を選んで連れて行ったという情報が耳に入った。
果たしてその日の夕暮れ。
私は庭園の隅で三人と一頭の影を発見した。そこで信じられない光景を目にする。シャーロットが馬に跨り、振り落されないようバランスを取っていたのだ。王太子は地上で手綱を握り馬を操り、私が探し求めた女狐は馬の周りを歩きながら姿勢について指示を出している。
「……」
まさか、乗馬させるとは。
逃げられでもしたらどうするのだ。
あの馬さえいなければ……いやいや、王太子の選んだ馬に何かあっては問題が大きくなり却って不都合が増えてしまう。
乗るなら乗ればいい。嫁いだ先で王子を産んでから落馬で死ぬといういうのも一つの人生だ。
「おおっ、これはシャーロット姫!」
「!?」
声を掛けると馬上のシャーロットが凍り付き、動揺した馬を王太子が見事に宥める。私がスキップしながら駆け寄った頃にはイデアの目に殺気が篭り身の危険を感じた。
だがそういう強さが憎らしいだけ好ましい。
「お馬さんですか!それはそれは勇敢な事で!」
「キャタモール、触るな。馬が動揺する」
「おっと殿下、失礼」
優雅にお詫び申し上げた。
馬上で硬直したシャーロットを案じてか王太子が慎重に抱えて地面に下ろし、それから馬の首をしきりに撫でる。私を邪魔者扱いするとは相変わらず小憎らしい王子だ。
「キャタモール卿、冷やかしは御遠慮ください。こちらも必死なのです」
イデアが憮然と冷たく他人行儀な口を利く。
私は懐から洒落た瓶を華麗な手つきで取り出した。イデアは眉を顰めた。
「勝手に部屋を移るとは、一日中探したぞ。そろそろ切れる頃だろう?特製の美容クリームだ、よ」
「……」
イデアが躊躇いがちに手を上げかけ、みぞおち辺りで彷徨わせながら声を震わせる。
「一日中、持ち歩いて……?」
「ふん、失礼な。衛生にはこれ以上ないほど気を遣っていると知っているくせに。可愛くない子だっ」
「…………」
遠縁の私たちはこれくらい砕けた会話をして見せてもいいと思うが、今日のイデアは気が利かない。
視界の隅でシャーロットが馬の影に隠れた。
と思った矢先、王太子の手が瓶を受け取る。
「なるほど、これが宮廷で大人気という美容クリームか」
さりげなく手袋を填めた手で満遍なく瓶を拭かないで頂きたい。
「いえいえ、殿下。これはイデアだけのスペシャルな美容クリームです」
「へえ。彼女を治療したそうだね。優秀だ」
「むっふっふ。良い結果を出すのは初めてではありません」
「イデアはいつベールを取ってくれる?」
「?」
確かに意外な質問だった。私以上にイデアは驚きを顕わにし、ぽかんと王太子を見上げている。私は王太子の逞しい腕を軽やかに親しみを込めて叩いた。
「殿下。妙齢女性のお肌のコンディションについて本人を前に言及するなど、無粋ですぞっ」
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王太子のみならずあの女が絡んでいたとは、全く憎たらしい事この上ない。
「……そうですか」
ちらりとイデアの顔色を伺うと、こちらはやはり珍しく困惑している様子。
面白くない出来事と面白い出来事が両方目の前に降って来たが、なるほど、面白い方に軍配が上がるようだ。王太子はイデアをお気に召したらしい。
また新しい仕事が増える……
「畏まりました。シャーロット姫!」
「!!」
馬越しに声を掛けると、シャーロットは大袈裟に肩を揺らして跳ねた。
「あなたにも特別なクリームをご用意しましょう。殿下からお受け取り下さい」
「…………結構です」
断るのはわかっていた。
ただ、揶揄ってやりたかっただけだ。
「そうですか。これは残念。ですが、気が変わったらいつでもイデアか殿下にお伝えください。この宮廷医師キャタ──」
「キャタモール、悪いが貴殿から漂う薬品の臭いに馬が興奮してきた。危ないから走ってこの場を去るんだ!急げ!!」
「ひっ」
追い立てられるようにその場を去った私だが、いずれ目にもの見せてやると思えばこれも可愛いお遊戯の一つでしかない。
走りながら笑いが洩れた。
ああ、愉快、愉快。
お高くとまった馬鹿共め。
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