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「ありがとうございます、殿下。間に入っていただけて助かりました」
カール殿下が入念に拭いてから美容クリームの瓶を渡してくれたので、思わず安堵の溜息が洩れた。シャーロット姫など完全に委縮して、気色悪い中年鷲鼻男が走り去った後もずっとしつこく震えている。
「あれだけ馴れ馴れしいにも拘らず重宝されているのは、医者としては優秀だからだとはわかっているが……君が処方を受け継いで美容関係を担ってくれた方が、宮中の貴婦人全員が安心すると思う」
「お役に立ちたいと願わずにはいられませんわ」
私の年齢で宮廷医師を目指すのは無謀だろうか。
違う。混乱してはいけない。私は宮廷医師になりたいのではない。それが必要だと思わされる程に現在の宮廷医師が気色悪いのだ。それだけだ。
私は修道院に戻る道も忘れてはいない。
「姫様。嫌なものを見聞きしてしまいましたね。ですがあのような人物が嫁いだ先にいないとは限りません。免疫を付けておけるいい機会と考えましょう。さ、気分を変えて、夕食のお時間までお勉強でもいたしましょうか」
「馬を返してくる」
殿下と別れ、シャーロット姫を伴い秘密の通路へ滑り込む。
数歩遅れてついてくるシャーロット姫がきつく手を握り合わせ震え続けているのを見ると、いつものように叱責する気にはなれなかった。
宮廷に来た初日は泣き喚いたというくらいだから、きっとキャタモールにも嫌な思い出しかないのだろう。
来たらあのような者がいて幅を利かせているのだ。初めて目にする宮廷内にあれがいては、次に身を置く事になる宮廷に不安が募るのは当然。
「そういえば……」
私は歩調を緩め、初めて沸いた疑問を率直にぶつけた。
「姫様は誰に連れて来られたのです?私が参りました初日、あの小部屋には私たち以外いませんでした」
「……キャタモール卿です……」
俯いたまま消え入りそうな声で答えるシャーロット姫に同情せずにはいられない。
「それは災難でしたね」
「……」
考えてみれば妥当かもしれない。
国王の愛人が出産したと知っているのは限られた人物だけであり、曲がりなりにも宮廷医師のキャタモールは悔しいかな適任ですらある。
但し、年齢的に出生時はまだ先代のモロウ伯爵が関与していたのだろう。
よく見つけたものだ。
あの中年鷲鼻男の執念には恐れ入る。
「但し、覚えておいてください。姫様。宮廷という世界では人柄ではなく能力によって人選が行われる場合もあれば、稀に人柄だけで重宝される場合もあります」
「……」
「あなたは人柄で選ぶべきです。姫様、必ずご自身が信頼できると確信できる人物を一人傍に置くのです。そうすれば自分を見失う事はありません」
シャーロット姫が足を止めた。
今日ばかりは私も足を止める。只でさえ初めての乗馬の後で体が思うように動かないであろう所に、気色悪い中年鷲鼻男という猛毒を浴びたのだ。
今日の座学は御伽噺の朗読くらいでも罰は当たらない。
歩き出すのを待っていると、シャーロット姫は俯いたまま声を絞り出して言う。
「先生は、一緒に来てくださいますか……?」
「……」
厳しい現実を叩きつけなければいけない運命を若干呪った。
「いいえ。私は行きません。なぜなら私は修道院から派遣された見習いシスターだからです。姫様の栄光と幸せを生涯お祈りいたしますよ」
「……」
シャーロット姫は反応せず、しばらくして唐突に歩き始めた。
並んで歩くと歯を食いしばって泣いているのに気付かされたが、気休めは言いたくない。これが辛い道であれ、王家の血筋をもって生まれたシャーロット姫には避けて通れない試練だからだ。
重苦しい沈黙が続いた。
小部屋に入るとシャーロット姫は自ら大人しく席に着き、涙を拭って泣き腫らした笑みを私に向けた。それが初めての笑顔であり、私はつい動揺して椅子の背を掴んだまま立ち尽くし呆然と見つめる。
「クリームは効きますか?」
シャーロット姫はそんな事を問いかけて来る。
拍子抜けして私は席に着いた。
「ええ。悔しいですが腕は確かです。姫様も……試されますか?」
気が進まないながらに念のため問いかけると、シャーロット姫はどこか諦めたような振り切れた笑顔で首を振り答えた。
「いいえ。もう知っていますから」
カール殿下が入念に拭いてから美容クリームの瓶を渡してくれたので、思わず安堵の溜息が洩れた。シャーロット姫など完全に委縮して、気色悪い中年鷲鼻男が走り去った後もずっとしつこく震えている。
「あれだけ馴れ馴れしいにも拘らず重宝されているのは、医者としては優秀だからだとはわかっているが……君が処方を受け継いで美容関係を担ってくれた方が、宮中の貴婦人全員が安心すると思う」
「お役に立ちたいと願わずにはいられませんわ」
私の年齢で宮廷医師を目指すのは無謀だろうか。
違う。混乱してはいけない。私は宮廷医師になりたいのではない。それが必要だと思わされる程に現在の宮廷医師が気色悪いのだ。それだけだ。
私は修道院に戻る道も忘れてはいない。
「姫様。嫌なものを見聞きしてしまいましたね。ですがあのような人物が嫁いだ先にいないとは限りません。免疫を付けておけるいい機会と考えましょう。さ、気分を変えて、夕食のお時間までお勉強でもいたしましょうか」
「馬を返してくる」
殿下と別れ、シャーロット姫を伴い秘密の通路へ滑り込む。
数歩遅れてついてくるシャーロット姫がきつく手を握り合わせ震え続けているのを見ると、いつものように叱責する気にはなれなかった。
宮廷に来た初日は泣き喚いたというくらいだから、きっとキャタモールにも嫌な思い出しかないのだろう。
来たらあのような者がいて幅を利かせているのだ。初めて目にする宮廷内にあれがいては、次に身を置く事になる宮廷に不安が募るのは当然。
「そういえば……」
私は歩調を緩め、初めて沸いた疑問を率直にぶつけた。
「姫様は誰に連れて来られたのです?私が参りました初日、あの小部屋には私たち以外いませんでした」
「……キャタモール卿です……」
俯いたまま消え入りそうな声で答えるシャーロット姫に同情せずにはいられない。
「それは災難でしたね」
「……」
考えてみれば妥当かもしれない。
国王の愛人が出産したと知っているのは限られた人物だけであり、曲がりなりにも宮廷医師のキャタモールは悔しいかな適任ですらある。
但し、年齢的に出生時はまだ先代のモロウ伯爵が関与していたのだろう。
よく見つけたものだ。
あの中年鷲鼻男の執念には恐れ入る。
「但し、覚えておいてください。姫様。宮廷という世界では人柄ではなく能力によって人選が行われる場合もあれば、稀に人柄だけで重宝される場合もあります」
「……」
「あなたは人柄で選ぶべきです。姫様、必ずご自身が信頼できると確信できる人物を一人傍に置くのです。そうすれば自分を見失う事はありません」
シャーロット姫が足を止めた。
今日ばかりは私も足を止める。只でさえ初めての乗馬の後で体が思うように動かないであろう所に、気色悪い中年鷲鼻男という猛毒を浴びたのだ。
今日の座学は御伽噺の朗読くらいでも罰は当たらない。
歩き出すのを待っていると、シャーロット姫は俯いたまま声を絞り出して言う。
「先生は、一緒に来てくださいますか……?」
「……」
厳しい現実を叩きつけなければいけない運命を若干呪った。
「いいえ。私は行きません。なぜなら私は修道院から派遣された見習いシスターだからです。姫様の栄光と幸せを生涯お祈りいたしますよ」
「……」
シャーロット姫は反応せず、しばらくして唐突に歩き始めた。
並んで歩くと歯を食いしばって泣いているのに気付かされたが、気休めは言いたくない。これが辛い道であれ、王家の血筋をもって生まれたシャーロット姫には避けて通れない試練だからだ。
重苦しい沈黙が続いた。
小部屋に入るとシャーロット姫は自ら大人しく席に着き、涙を拭って泣き腫らした笑みを私に向けた。それが初めての笑顔であり、私はつい動揺して椅子の背を掴んだまま立ち尽くし呆然と見つめる。
「クリームは効きますか?」
シャーロット姫はそんな事を問いかけて来る。
拍子抜けして私は席に着いた。
「ええ。悔しいですが腕は確かです。姫様も……試されますか?」
気が進まないながらに念のため問いかけると、シャーロット姫はどこか諦めたような振り切れた笑顔で首を振り答えた。
「いいえ。もう知っていますから」
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