アドレナリンと感覚麻酔

元森

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第三章 第十話

98 将来の事

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  心臓がどきどきと早鐘を打っている。身体が普段よりも緊張して上手くステーキが切れない。肉の繊維を切りたいのに、上手くいかない。引っかかって手汗が噴き出る。でもそんなことを目の前の人に知られたくなくて、平然を装った。
「はい…」
 口角をあげたがヒクヒクと痙攣しているのが分かる。聖月はぎこちない笑みを宗祐に見せていた。
 それが分かるから余計に顔が歪む。悪循環だった。
「セイくんって、大学生だっけ?」
 突然の問いに聖月は反応が遅れる。ステーキを切っていた手をとめ、今まで直視出来ないでいた宗祐を見る。
 うわあ、やっぱりカッコイイ…―――。
 聖月がそう思い彼の顔に見入ってしまうのも無理はない。それほどに羽山宗祐と言う人物は35歳とは思えないほど、エネルギッシュな若々しさを持つ色香のある男性だからだ。ディメントに来ているということは嗜虐的な男性だということは分かる。
 だが宗祐は聖月の目には紳士的な人物にしか見えない。
 艶やかな黒髪のオールバックも、彫りの深い顔立ちも、男の象徴だと主張する切れ長の眉毛も、すべてが全部彼の魅力を引き立てていた。そしてスタイルのよい長身によく似合う高級で品のいいスーツに包まれた彼は圧倒的オーラを放っていた。
 そこにいるだけでこの場所の価値が変わる。それほどのカリスマ性を彼からは感じる。
 聖月もディメントで不本意ながら働いていて、様々な高い地位の人物を見てきた。政治家、著名な作家、中小企業の社長、地主―――…。そんな人たちからは皆大小それぞれのオーラがあった。でも彼はその中でも上位のオーラを感じる。
「セイくん?」
 優しく問われて我に返る。宗祐に見惚れている場合ではなかった。
 宗祐は圧倒的な自信があるようなオーラを感じたがそれを一切言動、仕草には表さなかった。それが彼の凄いことだと聖月は思うのだ。
 鼻にかけたりせず、ただ聖月に対して紳士的に優しく謙虚に接している。それなところに聖月は好感を抱いていた。
「あっ、すいません…。はい、大学生です」
「あぁ、そうだったね。この前も聞いたのに忘れちゃってた」
 宗祐は聖月が苦戦していたステーキを綺麗に、上品に頬張って美味しそうに食べていた。
 聖月はその様子をつい見つめてしまう。
「…」
 聖月はそんな風に宗祐を見てしまったことに気づき目線をうろつかせた。
 俺、どうしちゃったわけ…?
 いつもと絶対に違う自分にまた狼狽える。落ち着け、落ち着け、落ち着け…―――。呪文のように唱えても、心臓はさっきからずっと鼓動は早いし、気分は高揚している、体温はいつもより上がっているのか身体は熱い。
 どう考えても目の前の人物を意識していることがはっきりと分かる。
 俺、この人に、イカされたんだよな…。
 その事実から今まで目を逸らし続けていた。今日自分がこんなに違うのはそのせいだ。
 ―――客の手で精を吐き出された経験は数え切れないほどある。だが聖月にとって、あの夜に彼からされたことはいつもとは違うものだった。演技ではない自分の声が初めて出た。そんなこと今までなかったのに。
 ―――いつもだったら、感覚が失うはずなのになんで…?
 あの時だけは違かった。いつもだったら感覚がなくなるはずなのに、感覚がやってきて―――聖月は宗祐の手で陥落された。
 気持ちいい、と行為中に感じたのはもう4年ぶりだった。腰が浮き、はしたなくその先を求める欲望を初めて味わった。
 ―――反応しちゃったんだね。
 彼はそう言って、巧みな手つきで聖月を翻弄した。そのまま行為が続くと思ったのに、手淫だけで終わってそのまま寝た。普通だったらあり得ないことだった。宗祐の性器を奉仕することもなく、聖月は眠りに落ちた。
 次の日、そのことについて聖月は詫びたが宗祐の反応は気にするものじゃないよ、というものだった。
 やっぱり、この人は他の客とは違う。そう感じた。
 なんで宗祐の手で感覚が戻ったのか、そして自分の手では一向に感覚が戻らないのか。
 この目の前で笑う紳士に要因があるのか。それとも自分自身に理由はあるのか。何度考えても、何時間考えても答えは出てこない。
「そろそろ就活?」
 ぼうっと宗祐の顔を見てサラダを食べていると、そんなことを宗祐は問う。
 突然のことに聖月はうまく反応できなかった。
「えっ…」
「もうそろそろセイくんも、就活の時期かなって」
「え、あ…あぁ、そうですね。ボチボチ進めています…」
 もそもそと話し、聖月は宗祐から目を逸らす。ビックリした。突然聞くから、とても驚いた。今まで少し不埒なことを考えていたから余計に、だ。
 10月に入り、就職活動に向けてのガイダンスが大学では始まりつつある。まだ活動はしていないが、これから徐々に動き出すだろう。そろそろ将来について考えるべきときになっていきているのである。
「最近は景気が回復してるっていってもまだまだ厳しいからね」
 そう言う宗祐の顔は経営者らしい一面をのぞかせていた。
「そうなんですね、やっぱり。俺は…、就職できればどこでもいいんで」
 聖月が向上心のかけらもない本音を言うと、宗祐は面を食らった顔をした。
 だがそれはすぐに微笑みに変わる。
「どこでもいいって考えはあんまり推奨できないな。会社は30年続くのが奇跡と呼ばれているからね。5年で新しく作られた会社の半分は倒産…なくなってしまうんだ。だから選ぶ会社は慎重に選ばないと」
「そうなんですか…」
 聖月は大きく頷いた。せっかくはいった会社が潰れるなんて考えたら恐ろしい。大きく感心している聖月に宗祐は笑みを浮かべる。そしてゆっくりと口を開く。
「セイくんはディメントに…いや…」
 その笑みは少し違う色を見せた。宗祐は聖月に何かを言いかけた。言葉を濁す彼を見たのは初めてだった。
 妙な雰囲気が2人の空気を包んだ。
「…?」
 聖月は小さく首を傾げる。そんな風に言いよどむ宗祐は珍しかったから気になった。
「ああ…いや、なんでもないよ。それより…」
 だがそんな聖月の疑問が分かることはなかった。宗祐は完璧な笑みを浮かべ、違う話題を聖月に振ったからだ。最初の方は気になっていた聖月だったが時間が経つにつれ、宗祐が言葉を濁した先の言葉は気にならなくなっていった。
 聖月は宗祐の博識高い話を普段よりも緊張しながらも、楽しんで聞いていたのだった。
 
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 
 
 ―――結局、宗祐は聖月をホテルに誘ったりはしなかった。ただ食事をして、また指名するからと言って彼は帰っていった。
 聖月はドキドキしていた胸を、ほっと撫で下ろした。ほっとしたのは緊張から解放されたからだ。だけど、同時に驚きもあった。また、だ。また聖月はこの後、ホテルに誘われるとすっかり思い込んでいた。そう想うのは聖月が不埒だから、という理由ではない。
 普通にディメントで働いているのなら、絶対にそう考えるはずだ。
 手淫までして、しなかった。だったら次は本番―――。
 そう考えるのは当然だった。なのに、彼はしなかった。
 ここまでくると、自分には彼に性的対象に思われていないのではないかと思えてきた。それはそれでいいかもしれないけれど、なんだか悲しくなる。宗祐は大金をはたいて自分との拙い会話を興じるだけで、何もしない。
 やっぱり羽山さんは他の客と違う―――…。
 そう思いながら帰路につき、寮の玄関をくぐったとき思わぬ人物に遭遇した。
「おう、聖月いいところに」
「っ」
 その声を聞いた瞬間、身体が本能的に身構えてしまう。
 そんな聖月を見て廊下から歩いてきた人物は、意地の悪い笑みを浮かべた。聖月はゾクッと背中に冷たいものが走るのを感じた。ああ、やっぱりこの笑い方…ケイの言う通りマズイのかもしれない。
「久しぶりに会ったなぁ、元気にしてたか? セ・イ・ちゃ・ん?」
 艶やかな黒髪の前髪をかきあげて十夜に似ているディメントナンバー4である蒼が、獲物を狙う狩人の眼でこちらを見据えていた。

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