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16甘やかな嘘

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   ***

 一週間後――。

 波奈は自宅療養しているという、彩人のマンションへ向かった。
 コンシェルジュがいるような超高級マンションを想像していたが、普通のタイプの分譲マンションだった。
 とはいっても、波奈のアパートとは雲泥の差で、オートロック式の新築だったけれど。

「ハナ……どうしたの?」

 一週間ぶりに会う彩人は、顔色も良く、思っていたよりも元気そうだった。

 リビングに通される。
 ソファセットと大型のテレビ。変わった形の間接照明。
 一通りの家具はそろっていたし、陽当たりも良いのだが、余計なモノがないせいだろうか。
 モデルハウスのようで、生活感がなかった。

「ちょっと待ってて。コーヒーいれてくる」
「いらない。先に話したい」

 ソファに座った波奈は、キッチンへ行こうとする彩人を呼び止める。

「……大事な話?」
「うん」

 彩人が斜め横に座ると、波奈はバッグの中から一枚の紙を取り出し、ローテブルの上に置いた。
 それに目を落とした彩人が眉を顰める。

「ハナ……本気なの?」
「うん。彩人が私でもいいなら……結婚したい」

 昨日、市役所でもらってきた。
 戸籍謄本も用意したし、妻の部分は、もう記入済みだ。

「単なる幼なじみだって言ってたのに。もしかして、僕に同情してる?」

 彩人の問いに、波奈は一週間前のことを思い出す。

 彩人は波奈が心配していたほどの重病ではなかっ・b?。
 けれどストレスが原因で、二年ほど前くらいから、気管支喘息を患っているという。
 三ヶ月には急性胃腸炎になって、会社で倒れてしまい、入院をしていたらしい。

 彼の父親は病弱な彩人を、『タキガワ』の後継者に相応しくないと、弟の陸を後継者にすると言っているそうだ。
 当の陸が嫌がっているのもあって、正式には何も決まってはいないけれど――。
 彩人のかかりつけの病院へ同行した波奈は、そこで彩人の母と会い、彼の病状と今の状況を知らされた。

『あなたに彩人との婚約を解消させた私が言えることではないのだけれど……あの子のそばにいてやって欲しいの』

 彩人の母は、申し訳なさげに、そう言い、波奈に深々と頭を下げた。

 彩人は六年前。
 波奈が彼の前から姿を消してから、重度の貧血になったり、心療内科に通ったりと、ずっと具合を悪くしていたらしい。
 以前、彩人に、彩人がこの六年、どんな生活をしていたのか聞いてはいたが――彼は、波奈に心配をかけまいとしたのか、真実を話してくれてはいなかった。

 入院をしたことも、波奈の行方を彩人に教えた、きっかけだったという。
 彩人の家族は、彩人のために、波奈と会うことを許したのだ。

『私たちに振り回されて……あなたが怒るのは当然だと思うわ』

 彩人のそばにいて、と頼まれても、波奈は何も言えずにいた。
 ごめんなさいと再び頭を下げられたが、波奈は黙って首をふる。

 波奈は怒ってなど、いなかった。
 ただ――戸惑っていた。

 波奈は自分が彩人のそばにいることが、彼の汚点になると思っていた。
 彼の足を引っ張りたくなかったから、彼の前から姿を消したのだ。
 けれど、波奈がいなくなったことで、彩人はそれまで普通に送れていたはずの、日常生活が送れなくなったという。

 私がそばにいないと駄目なのね――と。
 気楽に思えるならばよかったけれど。
 波奈はそれでも、自分が彩人のそばにいることが、正しいとは思えなかった。

 六年前のことを思い出す。
 ハウスキーパーや、友人の中にも、親身になり同情してくれる人はいた。
 しかし、両親の死後、あからさまに態度を変えた人は、それ以上に多くいた。

 それまで――母の誕生日パーティーには、かかさず来ていた母の親友が、母のことを悪く言うのをテレビで見た。
 父のことを尊敬していると言っていた人たちが、父のことを聞かれ、父の愚かさを語っていた。
 わざわざ波奈に、同情のふりをして悪意をぶつけてくる人もいた。

 何より――波奈自身が、両親の死とまだ向き合えずにいて、彼らのことを、どこか心の底で恨んでもいた。

 両親のことを考えると、波奈はたとえ『彩人のため』であっても、彼の手を取れない。

 怖いのだ。
 悪意をぶつけられることも、手のひらを返すように、冷たくされることも。
 波奈はあれ以来、他人を信用できずにいた。

 彩人のことは好きだ。
 好きだからこそ、信じることが怖かった。
 彼が変わってしまい、波奈を捨てることが怖い。
 捨てられるくらいなら、捨てるほうがよかった。

 彩人のため、と言い訳しながら、本当は自分が臆病なだけだった。
 今まで気づかないふりをしていた自身の本心に気づいた波奈は、彩人の母の前で、黙ったまま俯くことしかできなかった。

 そんな波奈に、彩人の母は、ひとつの提案を持ちかけてきた。



「……同情だと、ダメ?」

 波奈が訊くと、彩人は薄く笑った。

「同情でもいいよ。ハナがそばにいてくれるなら、僕は何だっていい」

 彩人の長い指が、波奈の頬に触れる。
 端正な顔が近づいてきて、波奈は目を閉じた。

 彩人の母に言われた言葉が頭の中に浮かぶ。

『彩人が落ち着くまででいいのよ。しばらくすればあの子も、納得するでしょう』

 六年前のお金は、もう返さなくてよい、と言われた。
 結婚さえしてくれれば、のちの慰謝料もはずむ、と。

 ――彼の母親に頼まれたから結婚するのだ……

 波奈はちっとも結婚なんて望んでいなかった。
 だから、彩人に裏切られたとしても、ダメージはない。

 一年、あるいは二年後くらいには、別れることになる。
 彩人の心と体を安定させるための結婚で、彼が健康になりさえすれば、別れるよう、彼の家族が動くはずだ。

 きっと傷つくし、苦しいだろう。
 自分は利用されているだけではないかとも思った。
 けれど波奈は、この一週間考え、彩人と結婚することを決めた。

 この結婚は本当の結婚ではない。
 彩人の母――彼の親族との契約のようなものだ。
 離婚するときには、お金をもらえる。

 彩人のため。彼の家族のため。お金のため。
 頼まれたから仕方がないのだ。

 次々と『言い訳』を心の中で重ねながらも、本当は彩人のそばに少しの間だけでもいたいだけでしょう?、と問いかけてくるもう一人の自分もいた。
 
 波奈はその声を無視し、彩人の背に指を回した。

 波奈の複雑に絡み合い、傷ついた心を癒やすように、彩人の指が波奈の髪を撫でた。
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