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18優しい枷(エピローグ)
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――普通に考えたら、おかしいと気づきそうなものなのに……ハナは馬鹿なのかな。
本人には決して言えないことを彩人は思う。
そもそも、離婚をしてもらえると思っているのがおかしい。
結構な執着を彼女にみせている気がしていたが……足りないのだろうか。
それとも、馬鹿になってしまうくらい、彼女の両親が起こした六年前の事件がトラウマになっているのか。
「まあ……どっちでもいいけど」
彩人は小声で呟き、ベッドからおりる。
波奈はまだ眠っていた。
愛らしい寝顔に、思わず口がだらしなく緩む。
鼻歌を歌いながら、寝室を出て、ローテーブルの上に置きっぱなしになった紙を手にした。
すぐにでも出しに行きたかったが、残念ながら今日は日曜日である。
明日にでも、波奈と一緒に提出しに行こう。
そんなことを考えていると、携帯電話が鳴る。
誰からか確認した彩人は、相手が何の用でかけてきたのか察し、電話にでるのが億劫になった。
しかし、だからといって無視するわけにもいかない。
彩人はため息を吐いたあと、電話に出た。
予想していた通り、電話の相手……母の要件は、説教だった。
彩人の嘘に加担し、波奈に嘘を吐いてしまったことに罪悪感を抱いているらしい。
あんなくだらない嘘を吐かず、正直にプロポーズしなさい、と言われた。
普通にプロポーズしても拒まれるから、嘘を吐いたというのに――。
そもそも六年前。
母が彩人に黙り、波奈との婚約を解消してしまったから、こんなややこしいことになった。
しかし――。
どちらにしろ、あのまま婚約を続けていたとしても、父や祖父によって、波奈とは強引に別れさせられたであろう。
母は波奈の母と友人であった。
事件後も愚かさを嘆いてはいたが、同情もしていた。
そのため波奈に対しても、それなりに情があった。
だからこそ、最初は反対していたものの、彩人に協力してくれ、父や祖父を説得してくれた。
いろいろ思うこともあったが、彩人は母に文句を言える立場にない。
適当に話を合わせ、すべては波奈のためだから、と言って電話を切った。
母が彩人の言葉を信用しているかはわからない。
しかし息子の気質をこの六年で思い知ってもいるだろうから、波奈に余計なことを言うような無粋な真似はしないだろう。
六年前。
波奈がいなくなってすぐ、彩人は母の後ろめたい表情を見て、彼女が消えた理由に気づいた。
母を問い詰め、波奈の居場所を知り、家を出ようと考えもした。
けれど、きっと波奈は責任を感じるだろうし、彩人の方も高校を卒業したばかりで生活力がない。
そんな自分が彼女を幸せにできるのか、自信がなかった。
彩人は考えたすえ、正直に、母に波奈のことを諦めることができないと告げた。
祖父や父にも彼女でないと駄目だと懇願した。
彼らは彩人に、きちんと大学に行き学ぶこと。
彼らが認めるまで、波奈に会ってはならない、と命じた。
――時間が経てば彩人の想いが薄れ、波奈のことを忘れるだろう、と期待してのことだ。
自分がいない間に、波奈に『何か』があってはならない。
それだけは心配だったので、母に波奈の身辺を定期的に探るよう頼んだ。
時折、母の口から波奈が元気でやっていることを教えてもらいながら、彩人は大学に行き、勉強をし、交友関係を広げていった。
彩人は誰の目から見ても優秀で、人当たりがよく、しかし付け入る隙のない、『多岐川彩人』を演じた。
大学を卒業し、本社に入社してからも、演じ続けた。
もうずいぶんと、我慢した。
流石にこれ以上、反対されるようなら、多岐川の家を出るしかないだろう。
そう考えていた頃、強引に見合いをセッティングされた。
騙されるようなかたちで連れて行かれた見合いの席。
とある政治家の娘だという相手を紹介された彩人は、その場で――ブチ切れた。
あまりに常軌を逸した切れ方だったため、波奈とのことが許された。結果的には良かったのだけれど。
「あや……」
がちゃっと音がして振り返ると、波奈が寝室のドアを少しだけ開けていた。
その隙間から見える不安げな顔に、彩人は笑んだ。
「起きたの?」
そう言いながら、彼女に近づき、ドアを開けようとすると「来ちゃダメ」と拒まれた。
「その……服がないの」
「ああ……クリーニングに出したんだ。着替えを持ってくるよ」
「クリーニング……って、なんで……」
汚れた理由に思い至ったのか、波奈の顔が、赤く染まっていく。
「き、着替え!持ってきてね!」
波奈は恥ずかしいのか、怒ったような声で言うと、ドアを勢いよく閉めた。
――可愛いから、ずっと閉じ込めていたい。
服がなければ、どこにも行けず、彩人の部屋でじっとしているのだろうか。
ほの昏い感情が、彩人の胸の奥でちりちりと燃えている。
隣の家に暮らす女の子。
彩人が咳をはじめると、だいじょうぶ、と舌足らずな声で言い、彩人の背を撫でてくれる。
それでも止まらない咳に、慌てて大人を呼びに行き、大きな瞳から涙をこぼしていた。
可愛くて大事な、彩人だけの女の子。
『ぼく、ハナちゃんと、けっこんしたい』
幼いとき、結婚すれば波奈とずっと一緒にいられると知った彩人は、母にそうお願いした。
最初は適当に受け流していた母も、毎日のように言われ、その気になったらしい。
婚約者になり、あとは結婚できる年齢を待てば、それで良かったのに。
波奈の両親が起こした事件で、波奈は彩人のそばから去って行った。
六年は長い。
彩人は自分の想いが変わらない自信があったが、波奈の方はわからない。
もともと波奈は、彩人に好意こそ抱いてはいたが、友情の延長線のようなところがあった。
その証拠に、彩人がいくら彼女への気持ちを率直に伝えても、彼女から『好き』の言葉が返ってきたことはない。
性的な欲を見せれば、『恋愛』という感情ではないと気づいてしまうかもしれない。それが怖くて、ずっと手を出せずにいた。
だから、彼女のほうから体を求められ、浮かれてしまった。追い詰められていた彼女の気持ちに気づけなかった。
――離れている間に、誰かを好きになってしまったら。
不安はあったが、母から聞く限り、彼女に男の影はなかった。
生活に困り、恋愛する余裕がなかっただけかもしれない。
――もっと楽な生活をしていると、思っていたけれど。
母は波奈に最初に渡したお金以外にも、生活費を渡そうとしたらしいのだが……彼女が拒んだという。
それどころか、少しずつ返済もしていた。
苦労をさせて可哀想に思う。けれど、それが男を作らなかった理由になっていたのなら、彩人にとっては喜ばしいことだ。
再会して。好きだと言って。
それで元通りになる。
波奈は流されやすいところがあるから、きっと上手くいく。
そんな風に思っていたが、簡単にはいかなかった。
波奈は彩人を拒んだ。
彩人のため、という気持ちもあるのだろう。
確かに波奈の両親の事件は、マスコミによって面白おかしく取り上げられた。
けれど、まともな人種なら、両親の罪を娘に重ねはしない。
表だって彼女を批判する人はいないし、彩人もさせやしない。
説明しても、彼女は聞く耳を持たなかった。
波奈の心の中で、どのような葛藤があるのか彩人にはわからない。
ただ、彼女が自分を拒むたびに、少しずつ、胸の奥で昏い感情が芽生えていった。
――母さんの言うことなら、従うんだ……
気管支喘息を患っているのは本当だ。
しかし、入院したのも、母が波奈に話したこの六年間のことも嘘だ。
弟の陸を後継者にという話など、全くのでたらめだった。
何しろ、陸は女遊びが酷い。父は陸の後始末に苦労していた。
母の命令で、自分の元から去り、母の頼みで、自分と結婚する。
自分で仕組んだことで、望んだ結果に満足もしていた。
しかし、昏い感情が消えるどころか、心に染み渡るように広がっていく。
――離婚なんてするつもりはないけれど……今度逃げたら……。
「アヤ!」
そんな彩人の想いなど知らない波奈が、ドアの向こうで名前を呼ぶ。
「待って。すぐに行く」
もう二度と離すことはない。
枷をひとつずつ。
彼女が気づかぬうちに、ひとつずつ――嵌めていくのだ。
最初の枷である一枚の紙に視線を落とし、彩人は微笑んだ。
本人には決して言えないことを彩人は思う。
そもそも、離婚をしてもらえると思っているのがおかしい。
結構な執着を彼女にみせている気がしていたが……足りないのだろうか。
それとも、馬鹿になってしまうくらい、彼女の両親が起こした六年前の事件がトラウマになっているのか。
「まあ……どっちでもいいけど」
彩人は小声で呟き、ベッドからおりる。
波奈はまだ眠っていた。
愛らしい寝顔に、思わず口がだらしなく緩む。
鼻歌を歌いながら、寝室を出て、ローテーブルの上に置きっぱなしになった紙を手にした。
すぐにでも出しに行きたかったが、残念ながら今日は日曜日である。
明日にでも、波奈と一緒に提出しに行こう。
そんなことを考えていると、携帯電話が鳴る。
誰からか確認した彩人は、相手が何の用でかけてきたのか察し、電話にでるのが億劫になった。
しかし、だからといって無視するわけにもいかない。
彩人はため息を吐いたあと、電話に出た。
予想していた通り、電話の相手……母の要件は、説教だった。
彩人の嘘に加担し、波奈に嘘を吐いてしまったことに罪悪感を抱いているらしい。
あんなくだらない嘘を吐かず、正直にプロポーズしなさい、と言われた。
普通にプロポーズしても拒まれるから、嘘を吐いたというのに――。
そもそも六年前。
母が彩人に黙り、波奈との婚約を解消してしまったから、こんなややこしいことになった。
しかし――。
どちらにしろ、あのまま婚約を続けていたとしても、父や祖父によって、波奈とは強引に別れさせられたであろう。
母は波奈の母と友人であった。
事件後も愚かさを嘆いてはいたが、同情もしていた。
そのため波奈に対しても、それなりに情があった。
だからこそ、最初は反対していたものの、彩人に協力してくれ、父や祖父を説得してくれた。
いろいろ思うこともあったが、彩人は母に文句を言える立場にない。
適当に話を合わせ、すべては波奈のためだから、と言って電話を切った。
母が彩人の言葉を信用しているかはわからない。
しかし息子の気質をこの六年で思い知ってもいるだろうから、波奈に余計なことを言うような無粋な真似はしないだろう。
六年前。
波奈がいなくなってすぐ、彩人は母の後ろめたい表情を見て、彼女が消えた理由に気づいた。
母を問い詰め、波奈の居場所を知り、家を出ようと考えもした。
けれど、きっと波奈は責任を感じるだろうし、彩人の方も高校を卒業したばかりで生活力がない。
そんな自分が彼女を幸せにできるのか、自信がなかった。
彩人は考えたすえ、正直に、母に波奈のことを諦めることができないと告げた。
祖父や父にも彼女でないと駄目だと懇願した。
彼らは彩人に、きちんと大学に行き学ぶこと。
彼らが認めるまで、波奈に会ってはならない、と命じた。
――時間が経てば彩人の想いが薄れ、波奈のことを忘れるだろう、と期待してのことだ。
自分がいない間に、波奈に『何か』があってはならない。
それだけは心配だったので、母に波奈の身辺を定期的に探るよう頼んだ。
時折、母の口から波奈が元気でやっていることを教えてもらいながら、彩人は大学に行き、勉強をし、交友関係を広げていった。
彩人は誰の目から見ても優秀で、人当たりがよく、しかし付け入る隙のない、『多岐川彩人』を演じた。
大学を卒業し、本社に入社してからも、演じ続けた。
もうずいぶんと、我慢した。
流石にこれ以上、反対されるようなら、多岐川の家を出るしかないだろう。
そう考えていた頃、強引に見合いをセッティングされた。
騙されるようなかたちで連れて行かれた見合いの席。
とある政治家の娘だという相手を紹介された彩人は、その場で――ブチ切れた。
あまりに常軌を逸した切れ方だったため、波奈とのことが許された。結果的には良かったのだけれど。
「あや……」
がちゃっと音がして振り返ると、波奈が寝室のドアを少しだけ開けていた。
その隙間から見える不安げな顔に、彩人は笑んだ。
「起きたの?」
そう言いながら、彼女に近づき、ドアを開けようとすると「来ちゃダメ」と拒まれた。
「その……服がないの」
「ああ……クリーニングに出したんだ。着替えを持ってくるよ」
「クリーニング……って、なんで……」
汚れた理由に思い至ったのか、波奈の顔が、赤く染まっていく。
「き、着替え!持ってきてね!」
波奈は恥ずかしいのか、怒ったような声で言うと、ドアを勢いよく閉めた。
――可愛いから、ずっと閉じ込めていたい。
服がなければ、どこにも行けず、彩人の部屋でじっとしているのだろうか。
ほの昏い感情が、彩人の胸の奥でちりちりと燃えている。
隣の家に暮らす女の子。
彩人が咳をはじめると、だいじょうぶ、と舌足らずな声で言い、彩人の背を撫でてくれる。
それでも止まらない咳に、慌てて大人を呼びに行き、大きな瞳から涙をこぼしていた。
可愛くて大事な、彩人だけの女の子。
『ぼく、ハナちゃんと、けっこんしたい』
幼いとき、結婚すれば波奈とずっと一緒にいられると知った彩人は、母にそうお願いした。
最初は適当に受け流していた母も、毎日のように言われ、その気になったらしい。
婚約者になり、あとは結婚できる年齢を待てば、それで良かったのに。
波奈の両親が起こした事件で、波奈は彩人のそばから去って行った。
六年は長い。
彩人は自分の想いが変わらない自信があったが、波奈の方はわからない。
もともと波奈は、彩人に好意こそ抱いてはいたが、友情の延長線のようなところがあった。
その証拠に、彩人がいくら彼女への気持ちを率直に伝えても、彼女から『好き』の言葉が返ってきたことはない。
性的な欲を見せれば、『恋愛』という感情ではないと気づいてしまうかもしれない。それが怖くて、ずっと手を出せずにいた。
だから、彼女のほうから体を求められ、浮かれてしまった。追い詰められていた彼女の気持ちに気づけなかった。
――離れている間に、誰かを好きになってしまったら。
不安はあったが、母から聞く限り、彼女に男の影はなかった。
生活に困り、恋愛する余裕がなかっただけかもしれない。
――もっと楽な生活をしていると、思っていたけれど。
母は波奈に最初に渡したお金以外にも、生活費を渡そうとしたらしいのだが……彼女が拒んだという。
それどころか、少しずつ返済もしていた。
苦労をさせて可哀想に思う。けれど、それが男を作らなかった理由になっていたのなら、彩人にとっては喜ばしいことだ。
再会して。好きだと言って。
それで元通りになる。
波奈は流されやすいところがあるから、きっと上手くいく。
そんな風に思っていたが、簡単にはいかなかった。
波奈は彩人を拒んだ。
彩人のため、という気持ちもあるのだろう。
確かに波奈の両親の事件は、マスコミによって面白おかしく取り上げられた。
けれど、まともな人種なら、両親の罪を娘に重ねはしない。
表だって彼女を批判する人はいないし、彩人もさせやしない。
説明しても、彼女は聞く耳を持たなかった。
波奈の心の中で、どのような葛藤があるのか彩人にはわからない。
ただ、彼女が自分を拒むたびに、少しずつ、胸の奥で昏い感情が芽生えていった。
――母さんの言うことなら、従うんだ……
気管支喘息を患っているのは本当だ。
しかし、入院したのも、母が波奈に話したこの六年間のことも嘘だ。
弟の陸を後継者にという話など、全くのでたらめだった。
何しろ、陸は女遊びが酷い。父は陸の後始末に苦労していた。
母の命令で、自分の元から去り、母の頼みで、自分と結婚する。
自分で仕組んだことで、望んだ結果に満足もしていた。
しかし、昏い感情が消えるどころか、心に染み渡るように広がっていく。
――離婚なんてするつもりはないけれど……今度逃げたら……。
「アヤ!」
そんな彩人の想いなど知らない波奈が、ドアの向こうで名前を呼ぶ。
「待って。すぐに行く」
もう二度と離すことはない。
枷をひとつずつ。
彼女が気づかぬうちに、ひとつずつ――嵌めていくのだ。
最初の枷である一枚の紙に視線を落とし、彩人は微笑んだ。
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