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第1話
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「このドレス、欠陥品じゃありませんこと?」
甲高い声が、フォトンの仕立て屋の店内に響き渡った。
私、セリア・フォトンは、カウンターの奥で帳簿をつける手を止めた。
インクがぽたりと紙に落ちて、黒い染みを作る。
店の中央に立つ女性は、薄紫の絹のドレスに身を包み、真珠の首飾りを何重にも巻いていた。
亜麻色の髪は複雑に結い上げられ、ダイヤモンドの髪飾りがきらきらと輝いている。
セリーヌ・モンフォール男爵令嬢。この街で最も裕福な貴族の一人であり、誰もが恐れる存在だった。
「申し訳ございません、どちらに問題が……?」
父のジャックが、深々と頭を下げながら尋ねた。六十を過ぎた父の背中は、長年の仕立て仕事で少し曲がっている。
節くれだった指は、何万着もの服を仕立ててきた職人の手だ。セリーヌは手にしていた深紅のドレスを、まるでゴミでも扱うように床に投げ捨てた。
「見れば分かるでしょう? この縫い目の歪み。それにこの刺繍の雑さ。とても貴族が着られるものではありませんわ」
私は思わず立ち上がった。椅子が床を擦る音が響く。
そのドレスは、父が三週間もかけて仕立てた渾身の作品だった。
毎晩遅くまで、老眼鏡をかけて細かい刺繍を施していた。母のマルグリットも手伝って、一針一針、心を込めて縫い上げたものだ。
「セリーヌ様、そのドレスは――」「あら?」
セリーヌがゆっくりと振り返った。薄い唇に浮かんだ笑みは、まるで獲物を見つけた蛇のようだった。
「平民の小娘が、私に口答えをするの?」
彼女の取り巻きの侍女たちが、くすくすと笑い声を上げる。
まるで劇場で喜劇でも見ているかのような態度だった。父が慌てて私の前に立った。
「セリア、下がっていなさい。セリーヌ様、娘が失礼を……どうかお許しください」
「いいえ、面白いわ」
セリーヌが扇子を広げ、口元を隠しながら私をじろじろと眺めた。
その視線は、まるで品定めをするかのように冷たく、計算高い。
「ねえ、あなた、おいくつ?」
「……十八です」
「まあ、私と同じじゃない。それに……」
彼女が私の顔をまじまじと見つめた。瞳孔が少し開き、何か閃いたような表情を浮かべる。
「髪の色は違うけれど、顔立ちが私と似ているわね。背格好も同じくらいかしら」
嫌な予感が背筋を走った。セリーヌは優雅な仕草でドレスを拾い上げ、それを私の体に当てた。
「ほら、サイズもぴったりじゃない」
「セリーヌ様、一体何を……」
母のマルグリットが不安そうに口を開いた。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、質素なエプロンをつけた母は、明らかに怯えていた。
「簡単なことよ」
セリーヌは扇子をパチンと閉じた。
「このドレスの欠陥について、私は正当な賠償を要求します。金貨三百枚」
「さ、三百枚!?」
父が青ざめた。それは、うちの店の年収の十倍以上の金額だった。
「払えないのなら、この店を畳んで、一家全員、監獄行きね。
あら、下のお子さんたちもいらっしゃるんでしょう? 五歳と七歳と九歳でしたっけ? 可哀想に、監獄なんて劣悪な環境で育つなんて」
私の血が沸騰しそうだった。
ルイ、マリー、ピエール。
まだ幼い弟妹たちの顔が脳裏に浮かぶ。
あの子たちを監獄になんて絶対に送らせない。
「ただし」
セリーヌが人差し指を立てた。その爪には、血のように赤いマニキュアが塗られている。
「別の提案があるの。あなた――セリア、でしたっけ? あなたが私の代わりを務めてくれるなら、この件はなかったことにしてあげる」
「代わり……ですか?」
「そう。私には婚約者がいるの。ダルクール伯爵家の嫡男、リュカ様。でも正直、面倒なのよね。お茶会だの、観劇だの、退屈な時間を過ごすのは」
セリーヌは私の顎を掴み、顔を上げさせた。彼女の指は氷のように冷たい。
「だから、あなたが私のふりをして、彼と会ってちょうだい。髪を私と同じ亜麻色に染めて、私と同じ化粧をして、私と同じドレスを着て」
「そんなこと……!」
「できないと言うの?」
彼女の声が急に低くなった。
「じゃあ、今すぐ役人を呼んで、この店を差し押さえてもらいましょう。ああ、それから侮辱罪での告訴も追加ね。平民が貴族に口答えしたんですもの」
父と母が、縋るような目で私を見た。
弟妹たちの笑い声が、二階から聞こえてくる。
何も知らずに、今日も元気に遊んでいるのだろう。
私は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込んで、痛みが走る。
「……分かりました」
「セリア!」
母が悲鳴のような声を上げたが、私は首を振った。
「いいのよ、母さん。私なら……大丈夫だから」
セリーヌが満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、まるで美しい毒花のようだった。
「賢い選択ね。明日の午後二時、モンフォール邸にいらっしゃい。みっちり教育してあげるわ」
彼女は取り巻きを引き連れて店を出て行った。
馬車の車輪が石畳を転がる音が、次第に遠ざかっていく。
店内に重い沈黙が降りた。
「セリア……すまない……父さんが不甲斐ないばかりに……」
父が肩を震わせながら謝った。
職人として誇り高く生きてきた父が、こんなに打ちひしがれた姿を見るのは初めてだった。
「違うわ、父さん。悪いのはあの女よ」
私は父の手を握った。
長年の針仕事でごつごつとした、でも温かい手。
「大丈夫。きっと何とかなるわ」
そう言って笑ったけれど、心の中は不安でいっぱいだった。
貴族の婚約者のふりをするなんて、すぐにばれてしまうのではないか。
もしばれたら、今度こそ家族は破滅する。
でも、もう後戻りはできない。
明日から私は、セリア・フォトンではなく、セリーヌ・モンフォールとして生きることになるのだから。
甲高い声が、フォトンの仕立て屋の店内に響き渡った。
私、セリア・フォトンは、カウンターの奥で帳簿をつける手を止めた。
インクがぽたりと紙に落ちて、黒い染みを作る。
店の中央に立つ女性は、薄紫の絹のドレスに身を包み、真珠の首飾りを何重にも巻いていた。
亜麻色の髪は複雑に結い上げられ、ダイヤモンドの髪飾りがきらきらと輝いている。
セリーヌ・モンフォール男爵令嬢。この街で最も裕福な貴族の一人であり、誰もが恐れる存在だった。
「申し訳ございません、どちらに問題が……?」
父のジャックが、深々と頭を下げながら尋ねた。六十を過ぎた父の背中は、長年の仕立て仕事で少し曲がっている。
節くれだった指は、何万着もの服を仕立ててきた職人の手だ。セリーヌは手にしていた深紅のドレスを、まるでゴミでも扱うように床に投げ捨てた。
「見れば分かるでしょう? この縫い目の歪み。それにこの刺繍の雑さ。とても貴族が着られるものではありませんわ」
私は思わず立ち上がった。椅子が床を擦る音が響く。
そのドレスは、父が三週間もかけて仕立てた渾身の作品だった。
毎晩遅くまで、老眼鏡をかけて細かい刺繍を施していた。母のマルグリットも手伝って、一針一針、心を込めて縫い上げたものだ。
「セリーヌ様、そのドレスは――」「あら?」
セリーヌがゆっくりと振り返った。薄い唇に浮かんだ笑みは、まるで獲物を見つけた蛇のようだった。
「平民の小娘が、私に口答えをするの?」
彼女の取り巻きの侍女たちが、くすくすと笑い声を上げる。
まるで劇場で喜劇でも見ているかのような態度だった。父が慌てて私の前に立った。
「セリア、下がっていなさい。セリーヌ様、娘が失礼を……どうかお許しください」
「いいえ、面白いわ」
セリーヌが扇子を広げ、口元を隠しながら私をじろじろと眺めた。
その視線は、まるで品定めをするかのように冷たく、計算高い。
「ねえ、あなた、おいくつ?」
「……十八です」
「まあ、私と同じじゃない。それに……」
彼女が私の顔をまじまじと見つめた。瞳孔が少し開き、何か閃いたような表情を浮かべる。
「髪の色は違うけれど、顔立ちが私と似ているわね。背格好も同じくらいかしら」
嫌な予感が背筋を走った。セリーヌは優雅な仕草でドレスを拾い上げ、それを私の体に当てた。
「ほら、サイズもぴったりじゃない」
「セリーヌ様、一体何を……」
母のマルグリットが不安そうに口を開いた。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、質素なエプロンをつけた母は、明らかに怯えていた。
「簡単なことよ」
セリーヌは扇子をパチンと閉じた。
「このドレスの欠陥について、私は正当な賠償を要求します。金貨三百枚」
「さ、三百枚!?」
父が青ざめた。それは、うちの店の年収の十倍以上の金額だった。
「払えないのなら、この店を畳んで、一家全員、監獄行きね。
あら、下のお子さんたちもいらっしゃるんでしょう? 五歳と七歳と九歳でしたっけ? 可哀想に、監獄なんて劣悪な環境で育つなんて」
私の血が沸騰しそうだった。
ルイ、マリー、ピエール。
まだ幼い弟妹たちの顔が脳裏に浮かぶ。
あの子たちを監獄になんて絶対に送らせない。
「ただし」
セリーヌが人差し指を立てた。その爪には、血のように赤いマニキュアが塗られている。
「別の提案があるの。あなた――セリア、でしたっけ? あなたが私の代わりを務めてくれるなら、この件はなかったことにしてあげる」
「代わり……ですか?」
「そう。私には婚約者がいるの。ダルクール伯爵家の嫡男、リュカ様。でも正直、面倒なのよね。お茶会だの、観劇だの、退屈な時間を過ごすのは」
セリーヌは私の顎を掴み、顔を上げさせた。彼女の指は氷のように冷たい。
「だから、あなたが私のふりをして、彼と会ってちょうだい。髪を私と同じ亜麻色に染めて、私と同じ化粧をして、私と同じドレスを着て」
「そんなこと……!」
「できないと言うの?」
彼女の声が急に低くなった。
「じゃあ、今すぐ役人を呼んで、この店を差し押さえてもらいましょう。ああ、それから侮辱罪での告訴も追加ね。平民が貴族に口答えしたんですもの」
父と母が、縋るような目で私を見た。
弟妹たちの笑い声が、二階から聞こえてくる。
何も知らずに、今日も元気に遊んでいるのだろう。
私は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込んで、痛みが走る。
「……分かりました」
「セリア!」
母が悲鳴のような声を上げたが、私は首を振った。
「いいのよ、母さん。私なら……大丈夫だから」
セリーヌが満足そうに微笑んだ。
その笑顔は、まるで美しい毒花のようだった。
「賢い選択ね。明日の午後二時、モンフォール邸にいらっしゃい。みっちり教育してあげるわ」
彼女は取り巻きを引き連れて店を出て行った。
馬車の車輪が石畳を転がる音が、次第に遠ざかっていく。
店内に重い沈黙が降りた。
「セリア……すまない……父さんが不甲斐ないばかりに……」
父が肩を震わせながら謝った。
職人として誇り高く生きてきた父が、こんなに打ちひしがれた姿を見るのは初めてだった。
「違うわ、父さん。悪いのはあの女よ」
私は父の手を握った。
長年の針仕事でごつごつとした、でも温かい手。
「大丈夫。きっと何とかなるわ」
そう言って笑ったけれど、心の中は不安でいっぱいだった。
貴族の婚約者のふりをするなんて、すぐにばれてしまうのではないか。
もしばれたら、今度こそ家族は破滅する。
でも、もう後戻りはできない。
明日から私は、セリア・フォトンではなく、セリーヌ・モンフォールとして生きることになるのだから。
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