2 / 16
第2話
しおりを挟む二週間後、私は言われた通り、薄紫のドレスに身を包んでダルクール伯爵邸へ向かっていた。
男爵令嬢としての振る舞いや歩き方、言葉遣いは、セリーヌによって鞭と言葉の暴力によって詰め込まれさせられていた。
こんなことを三か月、セリーヌは続けろという。
なんでもきっかり三か月後に婚約者リュカ・ダルクールに婚約破棄を突き付けるのが彼女の目的らしい。
理由は価値観の相違。
質問は許されなかった。ただ粛々と彼女に従うほかなかった。
モンフォール家の馬車は豪華で、座席はビロードで覆われ、窓にはレースのカーテンがかかっている。でも、私には囚人護送車のように感じられた。
ダルクール伯爵邸は、モンフォール邸よりもさらに荘厳だった。
何百年もの歴史を感じさせる重厚な造りで、古い石造りの壁には蔦が絡まっている。まるでおとぎ話に出てくる古城のようだ。
「モンフォール嬢、お待ちしておりました」
初老の執事が恭しく一礼した。
白い口ひげが特徴的な人物で、年齢に見合わずかくしゃくとした背筋だった。
庶民の街ではまず会わない人間だ。
(執事からして、これほど違うのね……)
私は練習した通り、優雅に頷いてみせた。
「リュカ様はいらっしゃる?」
声が震えないよう、必死で平静を装った。
「はい、庭園でお待ちです。ご案内いたします」
執事について歩きながら、私は台本の内容を必死で思い出していた。
最初の挨拶は「お会いできて光栄ですわ、リュカ様」。
その後は天気の話をして、次に最近読んだ本について……
「モンフォール嬢」
低い声に、思考が中断された。
顔を上げると、そこに立っていたのは――
息が止まりそうだった。
漆黒の髪は陽光を受けて青みがかって見え、絹糸のような光沢を放っている。高い鼻梁、きりりとした眉、そして何より、灰色の瞳が印象的だった。まるで嵐の前の空のような、深い色。
背は私より頭一つ分高く、深緑のジャケットが広い肩幅を強調している。
ダルクール伯爵家嫡男、リュカ。
絵画から抜け出してきたような、完璧な美貌の持ち主だった。
「お会いできて……」
台詞を言おうとしたのに、言葉が出てこない。
彼の瞳に見つめられると、まるで心の奥底まで見透かされているような気がした。
「大丈夫か? 顔色が優れないようだが」
リュカが心配そうに一歩近づいた。
ほのかに香る香水の匂い。森の奥の泉のような、清涼な香りがした。
「い、いえ、大丈夫です。お会いできて光栄です、リュカ様」
ようやく台詞を口にすることができた。
はにかむように微笑むと、彼は黙りこくってしまった。
何か粗相を働いてしまったのかしら。
「――思っていたよりも可愛いな」
ぼそりと聞こえた呟きは、風の音にさらわれて消えてしまった。
「リュカ様?」
「堅苦しいのは抜きにしよう、リュカでいい」
「でも……」
「俺たちは婚約者同士だろう?」
その言葉に、胸が痛んだ。
婚約者。でも、それは偽りの関係。私はセリーヌではなく、ただの平民の娘。
「では……リュカ」
貴族の名前を呼び捨てにするなど、心臓が縮む思いだ。
それでも彼に不審がられたら一巻のおしまいだ。
リュカが満足そうに頷いた。
「庭を歩きながら話そう。今は薔薇が見頃だ」
彼が自然に私の手を取った。
大きな手のひらに、すっぽりと包み込まれる。
「ひゃっ」
思わず変な声が出てしまった。慌てて口を押さえる。
「どうした?」
リュカが振り返り、私の顔を覗き込んできた。
灰色の瞳が間近に迫り、息がかかる距離まで顔を近づけてくる。
「な、なんでもありません!」
後ずさりしようとしたが、手をしっかり掴まれているため逃げられない。
こんなに綺麗な男性と手をつないで歩くなど、生まれて初めてのことだった。
「顔が真っ赤だぞ」
彼の手がそっと私の額に触れた。ひんやりとした感触に、体温が一気に上昇する。
「熱はないようだな」
「も、もちろんです! 私は健康そのものですから!」
必死に取り繕うと、リュカがくすりと笑った。
「前に会った時より、表情豊かだな」
え?
セリーヌは彼と婚約をすでに結んでいる。
ということはリュカとも何度か会っているはずだ。その時、彼女がどんな態度を取っていたか私は知らない。
「そ、そうでしょうか?」
「ああ。前はまるで人形のように無表情だった。今の方がずっといい」
彼が私の手を引いて歩き始めた。
庭園は確かに美しかった。色とりどりの薔薇が咲き乱れ、甘い香りが漂っている。
でも、隣を歩く男性の存在感が強すぎて、花なんて全く目に入らなかった。
「セリーヌ」
急に名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせる。
「は、はい?」
「そんなに緊張するな。俺は君を食べたりしない」
そう言いながら、彼は悪戯っぽく微笑んだ。
「……まだな」
最後の言葉は小さくて聞き取れなかった。
「今、何か?」
「いや、何でもない。それより」
リュカが立ち止まり、私の方を向いた。
逆光で彼の表情がよく見えない。ただ、灰色の瞳だけが鋭く光っていた。
「君は本当にセリーヌ・モンフォールか?」
心臓が止まりそうになった。
まさか、もうばれた? でも、まだ会って十分も経っていないのに。
「な、何を仰るんですか? 私はセリーヌ・モンフォールですわ」
必死に取り繕うが、声が震えてしまう。
リュカが一歩、また一歩と近づいてきた。
私は後退りするが、すぐに薔薇の生垣に背中がついてしまった。
「その顔は嘘をついているな」
彼が両手を生垣に置いて、私を閉じ込める。逃げ場がない。そして、目の前の彼からとてもいい匂いがする。
「う、嘘なんて……」
「目を見ればわかる」
リュカの顔がさらに近づいてきた。
長い睫毛、整った鼻筋、そして――
「君は、前に会ったセリーヌとは別人のようだ」
ドキドキと心臓が激しく鳴る。
「だが」
彼の声が優しくなった。
「今の君の方が好きだな」
え?
リュカの手が、私の頬にそっと触れた。
「とても可愛い」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
可愛い? 私が?
「あの、リュカ様」
「様はいらないと言っただろう」
彼の親指が、私の唇をなぞった。
「っ!」
電撃が走ったような感覚に、全身が震える。
「敏感だな」
リュカが満足そうに笑った。まるで獲物を狩る肉食獣のような表情。
「そんな顔をされると」
彼の顔がゆっくりと近づいてくる。
「キスしたくなる」
「きっ、キス!?」
慌てて彼の胸を押したが、びくともしない。
それどころか、私の手首を掴んで、そのまま生垣に押し付けられてしまった。
「ダメか?」
耳元で囁かれ、ぞくりと背筋が震えた。
低い声が、鼓膜を震わせる。
「だ、ダメです! 私たち、まだそんな関係では……」
「婚約者同士だろう?」
「それはそうですが、でも……」
言葉に詰まる。だって、本当の婚約者はセリーヌで、私はただの偽物なのだから。
「可愛いな」
リュカがくすくすと笑った。
「からかっただけだ。そんなに慌てるな」
からかった!?
「ひどいです!」
思わず叫ぶと、彼はさらに楽しそうに笑った。
「でも、いつかは本当にキスをする」
「えっ」
「その時を楽しみにしている」
そう言って、彼は私を解放した。
急に体が自由になり、よろめいてしまう。
「大丈夫か?」
リュカがさっと私を支えてくれた。
腰に回された腕の感触に、また顔が熱くなる。
「平気です」
そそくさと彼から離れた。
このままだと、本当に意識してしまいそうだ。
いけない。私はセリーヌじゃない。この人と恋仲になることは許されない。
「あの、リュカ様」
「リュカ」
「リュカ……今日はそろそろ失礼します」
逃げるように言うと、彼が私の手を掴んだ。
「次はいつ会える?」
その真剣な眼差しに、胸が締め付けられた。
「来週の同じ時間に……」
「遅い。明後日」
リュカが子どものように唇をすぼめた。拗ねた顔が可愛かった。
「え?」
「明後日の夜、仮面舞踏会がある。君もどうだ?」
頷いてしまいたかったが、セリーヌから彼と会う時期は事細かく指定していた。
明後日会うことにすれば、きっと折檻が待ち受けているだろう。
断らなくては……。
「申し訳ありません。明後日は都合が――」
「そうか」
リュカがあっさりと引き下がった。
拍子抜けして顔を上げると、彼は不敵な笑みを浮かべていた。
「なら、今ここでキスする」
「は?」
「断ったら、今ここでキスすると言ったんだ。人目もある庭園で、婚約者にキスされて困る訳でもないだろう?」
そう言いながら、リュカが一歩近づいてきた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて後ずさりするが、彼はさらに距離を詰めてくる。
「待たない」
リュカの手が私の頬を包んだ。
逃げようとしたが、腰に回された腕でしっかりと捕まえられてしまう。
「本気ですか!?」
「俺がいつ冗談を言った?」
灰色の瞳は真剣そのものだった。
庭園には、手入れをする庭師や、散歩をしている使用人たちがいる。
チラチラとこちらを見ている視線を感じた。
「み、見られてます!」
「婚約者同士なら問題ないだろう」
リュカの顔がゆっくりと近づいてくる。長い睫毛が、間近に迫った。
「五秒やる」
彼の吐息が私の唇にかかった。
「五」
心臓が爆発しそうだ。
「四」
このままでは本当にキスされてしまう。しかも人目のある場所で。
「三」
使用人たちがひそひそ話す声が聞こえてきた。
お願い、見ないで。
「二」
もう限界だった。
「わ、分かりました。行きます! 明後日の仮面舞踏会に行きますから!」
絞り出すような声で叫んだ。
ようやっとリュカが動きを止めた。
唇まであと数センチという距離で。
「本当か?」
「はい、約束します!」
必死で頷くと、リュカがにやりと笑った。
「最初から素直にそう言えばよかったのに」
彼はゆっくりと顔を離したが、腰に回した腕はそのままだった。
「あの、手を離してください」
「もう少しこのままでいたい」
「でも……」
振り返ると、庭師たちが慌てて視線を逸らした。今の私の顔は、きっと真っ赤になっているに違いない。
「可愛い」
リュカが私の耳元で囁いた。
「明後日は、もっと可愛い姿を見せてくれ」
そう言って、ようやく彼は私を解放した。
「仮面舞踏会だから、好きな仮面を選んでいい。でも」
リュカが私の手を取り、恭しく口づけを落とした。
「どんな仮面を着けていても、俺には君だと分かる」
その言葉に、また心臓が跳ね上がった。
「それじゃあ、明後日の午後八時に迎えに行く」
「お迎えは結構です。自分で支度して参りま――」
「断ったら」
リュカが意味深に微笑んだ。
「今度こそ、本当にキスするぞ」
その脅しに、今度こそ私は何も言えなくなってしまった。
馬車に乗り込んでからも、心臓の鼓動は収まらなかった。
唇に、彼の吐息の感触がまだ残っている。
あと少しで、本当にキスされるところだった。
いや、もしかしたら彼は最初から、私が折れるのを分かっていたのかもしれない。
「ずるい人……」
呟いた言葉は、非難なのか、それとも――
窓の外を見ると、門の前でリュカがまだこちらを見送っていた。その姿に、胸の奥が甘く疼いた。
1
あなたにおすすめの小説
元婚約者に捨てられて皇太子に拾われたけど、今さら後悔しても遅いですよ?
exdonuts
恋愛
婚約破棄された日に崖から落ちた。目覚めたら見知らぬ国の皇太子に拾われ、私は皇太子妃候補に。元婚約者は私の死を喜び、新妻と祝杯を挙げていた。だが一年後、国賓として訪れた私は皇太子の腕に抱かれていた。彼の溺愛は国を揺るがすほどで、元婚約者の後悔の叫びなど届かない。ざまぁ、あなたが捨てたこの女が、今世界で一番愛されているのよ。
冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件
水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」
結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。
出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。
愛を期待されないのなら、失望させることもない。
契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。
ただ「役に立ちたい」という一心だった。
――その瞬間。
冷酷騎士の情緒が崩壊した。
「君は、自分の価値を分かっていない」
開始一分で愛さない宣言は撤回。
無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。
以後、
寝室は強制統合
常時抱っこ移動
一秒ごとに更新される溺愛
妻を傷つける者には容赦なし宣言
甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。
さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――?
自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。
溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ
婚約破棄された悪役令嬢は、辺境侯に拾われて過保護に愛される
nacat
恋愛
公爵令嬢エリシアは、婚約者である王太子に突然「お前とは結婚できない」と告げられる。
身に覚えのない罪を着せられ、社交界から追放されかけた彼女を救ったのは、冷徹と噂の辺境侯ゼノヴィア。
「俺の城で静かに暮らすといい」――そう言って差し伸べられた手は、思いのほか優しかった。
氷のように無表情だった彼が、次第に見せる愛情はあまりにも熱く、独占的で、息ができないほど。
そして彼女が新しい幸福を手にしたその時、かつて彼女を捨てた者たちが、後悔と嫉妬に塗れた顔で跪く――。
王道ざまぁ×激甘溺愛×救済ロマンス。苦しみの果てに手にした愛は、もう二度と離さない。
花冠の誓いは裏切りに散って ~婚約破棄された令嬢は、冷酷公爵の溺愛に絡め取られる~
nacat
恋愛
婚約破棄の夜、名門令嬢リリアナはすべてを失った。恋人、友人、家族の信頼さえ。
絶望に沈む彼女の前に現れたのは、“氷の公爵”と呼ばれる男。冷たく見えたその瞳が、なぜか彼女にだけは熱を帯びていた。
裏切りの痛みと、新たに芽吹く愛の狭間で、リリアナは自らの誇りを取り戻していく。
――これは、捨てられた令嬢が世界を見返す物語。そして、彼女を決して離さない男の、執着の恋の物語。
【完結】断罪された占星術師は、処刑前夜に星を詠む
佐倉穂波
恋愛
星は、嘘をつかない。嘘をついていたのは——わたし自身だった。
王宮の卜部に勤める十七歳の占星術師リュシア・アストレアは、ある日、王太子妃候補の婚儀に「凶」の星を読んだ。星が告げるままに報告したに過ぎなかったのに、翌朝には牢に入れられていた。罪状は「占星術を用いて王家を惑わせ、王太子暗殺を画策した」こと。
言いがかりだ。
しかし、証明する術がない。
処刑は五日後の朝と告げられ、リュシアは窓もない石の牢に閉じ込められた。
そこで彼女は気づいてしまう。占いが外れ続けていた本当の理由に。
道具も星図もない暗闇の中で、生まれて初めて、星の声を正しく聞いた。
瞼の裏に広がる夜空が、告げる。
【王太子が、明後日の夜に殺される】
処刑前夜に視た予言を、誰が信じるというのか。それでも、若き宰相クラウス・ベルシュタインは深夜の牢へ足を運び、断罪された少女の言葉に耳を傾けた。
二人の出会いは、運命をどう変えていくのかーー。
君は恋人、でもまだ家族じゃない
山田森湖
恋愛
あらすじ
同棲して3年。
毎朝コーヒーを淹れて、彼の寝ぼけた声に微笑んで、
一緒に暮らす当たり前の幸せを噛みしめる——そのはずだった。
彼女は彼を愛している。
彼も自分を愛してくれていると信じている。
それでも、胸の奥には消えない不安がある。
「私たちは、このまま“恋人”で止まってしまうの?」
結婚の話になると、彼はいつも曖昧に笑ってごまかす。
最初は理由をつけていたのに、今では何も言わなくなった。
周囲の友人は次々と結婚し、家族を持ち始めている。
幸せそうな写真を見るたび、彼女の心には
“言えない言葉”だけが増えていく。
愛している。
でも、それだけでは前に進めない。
同棲という甘い日常の裏で、
少しずつ、確かにズレ始めているふたりの未来。
このまま時間に流されるだけの恋なのか、
それとも、家族へと歩き出せる恋なのか——。
彼の寝息を聞きながら、
彼女は初めて「涙が出そうな夜」を迎えていた。
悪役令嬢を断罪したくせに、今さら溺愛とか都合が良すぎますわ!
nacat
恋愛
侯爵令嬢リディアは、無実の罪で婚約者の王太子に断罪された。
冷笑を浮かべ、すべてを捨てて国外へ去った彼女が、数年後、驚くべき姿で帰ってくる。
誰もが羨む天才魔導師として──。
今さら後悔する王太子、ざまぁを噛みしめる貴族令嬢たち。
そして、リディアをひそかに守ってきた公爵の青年が、ようやく想いを告げる時が来た。
これは、不当な断罪を受けた少女が、自分の誇りと愛を取り戻す溺愛系ロマンス。
すべての「裏切られた少女」たちに捧ぐ、痛快で甘く切ない逆転劇。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる