身代わり令嬢は愛されすぎて逃げられない

er

文字の大きさ
16 / 16

第17話

しおりを挟む
私は拳を握りしめた。
爪が掌に深く食い込み、じんわりと血が滲む。痛みは感じない。それどころか、全身が燃えるような怒りと、凍りつくような恐怖で麻痺していた。月光の下で、手から流れる血が黒く見える。
「セリア、やめろ」
父が激しく首を振った。縄で縛られた体を必死に動かし、私から目を逸らそうとしない。その瞳には、娘を思う愛情と、死を覚悟した諦観が入り混じっていた。
「お前には関係ない。逃げなさい」
掠れた声が、夜風に吹き消されそうなほど弱々しい。それでも必死に私を逃がそうとする父の姿に、胸が引き裂かれそうになる。
「でも……」
言葉が喉に詰まる。涙が視界を歪ませ、父の姿がぼやけて見えた。
「いいから!」
父の必死な叫びが庭園に響き渡った。その声は、私が幼い頃に叱られた時のような強さを持っていた。でも今は、その強さの裏に隠された絶望が、痛いほど伝わってくる。胸が万力で締め付けられるような苦しさに、呼吸が浅くなる。
どうすればいい。
頭の中で無数の選択肢が駆け巡り、どれも袋小路に行き着く。
石版を解読すれば、セリーヌに強大な力を与えてしまう。エルヴァニアの失われた魔術が彼女の手に渡れば、どんな災いが起こるか分からない。
でも、父を見捨てることなんて――
私の全存在が、その選択を拒絶していた。
「時間切れね」
セリーヌの冷たい声が、思考を断ち切った。彼女が優雅に護衛に合図する。その手の動きは、まるで舞踏会で次の曲を指示するかのように軽やかで、それが逆に恐ろしい。
剣が父の首筋に押し当てられる。月光を反射する刃が、銀色の死線となって父の喉元で光った。刃先が皮膚に触れ、薄く血が滲むのが見えた。
「待って!」
私は全身全霊を込めて叫んだ。
その瞬間、体中から光があふれ出した。
金色の光が、まるで生きているかのように螺旋を描きながら天へと昇っていく。光の粒子が私の肌から湧き出し、髪が風もないのに舞い上がる。全身が熱く、そして同時に冷たく、今まで感じたことのない感覚に包まれた。
「これは……」
セリーヌが息を呑んだ。いつも余裕に満ちた彼女の顔に、初めて動揺の色が浮かぶ。扇子を持つ手が微かに震えているのが見えた。
私の中で、何かが目覚めた。
封印されていた扉が一気に開かれたような、堤防が決壊したような、抑えきれない奔流。
祖母から受け継いだ血が、記憶が、力が、一気に解放される。それは、私という器には収まりきらないほど膨大で、古く、そして神聖なものだった。体の奥底から、見たことのない映像が次々と浮かび上がる。荘厳な城、美しい庭園、そして滅びゆく王国の最後の光景。
目の前に、無数の文字が浮かび上がった。
それは石版の文字だけじゃない。空気中に、大地に、月光の中に、薔薇の花弁に、石畳の隙間に、全てのものに刻まれた古の文字。世界そのものが巨大な書物となって、私に語りかけてくる。金色、銀色、虹色、様々な色の文字が乱舞し、美しくも荘厳な光景を作り出していた。
「エルヴァニアの加護よ」
セリーヌが後退った。ハイヒールが石畳を擦る音が、恐怖に震えている。薄紫のドレスの裾が乱れ、完璧に結い上げられていた髪も崩れ始めた。
「まさか、完全覚醒するなんて」
彼女の声には、畏怖と恐怖、そして僅かな羨望が入り混じっていた。
私は静かに手を伸ばした。
意識しなくても、光の文字が私の意志に従って動く。それらは生きた糸のように父の元へと伸び、縄を縛る結び目を正確に捉えた。
光の文字が、父を縛る縄を音もなく切り裂いた。麻縄が塵となって風に散り、父が自由になる。
「父さん、逃げて」
私の声は、不思議なほど落ち着いていた。体の芯から湧き上がる確信が、恐怖を押し流していく。
「セリア……」
父の瞳に、驚きと心配、そして娘への深い愛情が浮かんでいた。
「大丈夫。私は、もう人形じゃないから」
その言葉には、これまでの屈辱と決別する決意が込められていた。父が深く頷き、護衛たちの間をすり抜けて走り去った。誰も父を追おうとしない。皆が、私から発せられる光に圧倒されて動けなくなっていた。
私はゆっくりとセリーヌと向き合った。
彼女の完璧に化粧された顔に、初めて恐怖の色が浮かんでいる。薄い唇が震え、瞳孔が開き、額に汗が浮かんでいた。今まで見たことのない、セリーヌの素顔がそこにあった。
「あなたは間違っている」
私は静かに言った。声は穏やかだが、その奥には揺るぎない意志が宿っていた。
「エルヴァニアの力は、復讐のためにあるんじゃない」
風が吹き、光の文字たちがさらに激しく踊り始めた。
「黙れ!」
セリーヌが叫んだ。その声は金切り声のように甲高く、今までの優雅さは微塵も残っていなかった。
「あなたに何が分かるの! 国を失い、誇りを奪われ、日陰者として生きてきた屈辱が!」
彼女の瞳に、涙が光った。月光を反射するその雫は、宝石のように美しく、そして悲しい。初めて見るセリーヌの本当の感情に、私の心が揺れた。
「私は、取り戻したかっただけよ。失われた栄光を」
その言葉には、押し殺してきた二百年分の怨念と悲しみが詰まっていた。
「でも、それは過去のこと」
私は一歩近づいた。光の文字が私の足元から広がり、地面に美しい紋様を描いていく。
「私たちは、今を生きているの」
光の文字が優しくセリーヌを包み込んだ。それは攻撃ではなく、慰めるような、癒やすような温かい光。
彼女は最初抵抗しようとした。両手を振り回し、護衛に助けを求めたが、やがて力を失って膝をついた。薄紫のドレスが地面に広がり、まるで萎れた花のように見えた。
「なぜ……なぜあなたは……」
膝をついたセリーヌが、信じられないという表情で私を見上げた。
「私にも分からない」
正直に答えた。この力がどこから来て、なぜ今発現したのか、私にも理解できていない。
「でも、憎しみからは何も生まれない。それだけは分かる」
セリーヌが崩れ落ちた。膝から力が抜け、両手を地面についた。プライドの塊だった彼女が、泥にまみれて泣いている。
護衛たちも、戦意を失って武器を下ろした。剣や棍棒が次々と地面に落ち、金属音が夜の静寂に響いた。誰もが、光の中で起きた奇跡に呆然としていた。
「終わったな」
リュカが私の隣に立った。彼の革の上着は所々破れ、顔には疲労の色が濃く浮かんでいるが、それでも安堵の表情は隠せなかった。
手には紫水晶の首飾りがしっかりと握られている。月光から朝日へと移り変わる光の中で、紫水晶は刻々と色を変え、深い紫から薄い藤色へ、そして朝露のような透明感を帯びた輝きへと変化していく。彼の灰色の瞳にも、ようやく緊張が解けた穏やかな光が宿っていた。
「これで任務は完了だ」
その言葉には、長い追跡劇がようやく終わったという深い安堵と、僅かな寂しさが入り混じっているように聞こえた。
ナタンも近づいてきた。金髪は乱れ、顔には煤と土埃がついているが、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。彼の足取りは軽く、まるで祭りの後の心地よい疲労感を楽しんでいるかのようだった。
「しかし、すごい力だったな。まるで女神様みたいだったぜ」
ナタンが感嘆の息を漏らしながら、私を上から下まで眺めた。その瞳には、畏敬の念と同時に、仲間への親しみも込められている。
私は苦笑した。唇の端が僅かに上がり、疲れと照れが入り混じった複雑な表情になっているのが自分でも分かった。
すでに光は消え、全身を包んでいた神聖な力も霧のように消え去っている。今の私は、黒い潜入用の服を着た、ただの仕立て屋の娘に戻っている。髪は乱れ、顔は汗と涙の跡でぐしゃぐしゃだろう。先ほどまでの神々しい姿など、夢だったのではないかと思えるほどだ。
「もう、使えないと思います」
静かに告白すると、二人が同時に私を見た。
「なぜ?」
リュカの問いかけは真剣で、灰色の瞳が探るように私を見つめている。
「分からないけど、そんな気がするんです」
手のひらを見つめながら答えた。さっきまで光を放っていた指先は、今はただの人間の手。針仕事で硬くなった指先と、僅かに残る鞭の傷跡があるだけだ。
一度きりの奇跡。
体の奥底から、そんな確信が湧き上がってくる。まるで、エルヴァニアの力が最後に私に別れを告げたかのような、そんな感じがした。あの力は私を通り過ぎていった。必要な時に、必要なだけ。そして今、その役目を終えて、どこか遠い場所へと還っていったのだろう。
遠くから馬車の音が聞こえてきた。規則正しい蹄の音が、朝の静寂を破りながら近づいてくる。
騎士団が到着し、重々しい鎧の音を立てながら庭園に入ってきた。彼らは訓練された動きでセリーヌと護衛たちを連行していく。かつては誇り高かった令嬢も、今は項垂れたまま、抵抗する気力も失っているようだった。薄紫のドレスは泥で汚れ、真珠の首飾りも輝きを失っている。
地下室から運び出された盗品の数々も、騎士たちによって丁寧に、しかし手際よく全て回収される。木箱に詰められた石版も、他の宝物と共に馬車に積み込まれていく。それらがこれからどうなるのか、私には分からない。
気がつけば、朝日が昇り始めていた。
東の空が徐々に明るくなり、紺色から藍色へ、そして薄い紫へと変化していく。やがて地平線が金色に輝き始め、太陽の最初の光が顔を覗かせた。
オレンジ色の光が、優しく庭園を照らしていく。夜露に濡れた薔薇の花弁が、朝日を受けてきらきらと輝いた。まるで無数の小さなプリズムのように、虹色の光を放っている。
昨夜の激闘が嘘のように、庭園は平和な朝の顔を取り戻していった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

元婚約者に捨てられて皇太子に拾われたけど、今さら後悔しても遅いですよ?

exdonuts
恋愛
婚約破棄された日に崖から落ちた。目覚めたら見知らぬ国の皇太子に拾われ、私は皇太子妃候補に。元婚約者は私の死を喜び、新妻と祝杯を挙げていた。だが一年後、国賓として訪れた私は皇太子の腕に抱かれていた。彼の溺愛は国を揺るがすほどで、元婚約者の後悔の叫びなど届かない。ざまぁ、あなたが捨てたこの女が、今世界で一番愛されているのよ。

冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件

水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」 結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。 出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。 愛を期待されないのなら、失望させることもない。 契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。 ただ「役に立ちたい」という一心だった。 ――その瞬間。 冷酷騎士の情緒が崩壊した。 「君は、自分の価値を分かっていない」 開始一分で愛さない宣言は撤回。 無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。 以後、 寝室は強制統合 常時抱っこ移動 一秒ごとに更新される溺愛 妻を傷つける者には容赦なし宣言 甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。 さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――? 自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。 溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ

婚約破棄された悪役令嬢は、辺境侯に拾われて過保護に愛される

nacat
恋愛
公爵令嬢エリシアは、婚約者である王太子に突然「お前とは結婚できない」と告げられる。 身に覚えのない罪を着せられ、社交界から追放されかけた彼女を救ったのは、冷徹と噂の辺境侯ゼノヴィア。 「俺の城で静かに暮らすといい」――そう言って差し伸べられた手は、思いのほか優しかった。 氷のように無表情だった彼が、次第に見せる愛情はあまりにも熱く、独占的で、息ができないほど。 そして彼女が新しい幸福を手にしたその時、かつて彼女を捨てた者たちが、後悔と嫉妬に塗れた顔で跪く――。 王道ざまぁ×激甘溺愛×救済ロマンス。苦しみの果てに手にした愛は、もう二度と離さない。

花冠の誓いは裏切りに散って ~婚約破棄された令嬢は、冷酷公爵の溺愛に絡め取られる~

nacat
恋愛
婚約破棄の夜、名門令嬢リリアナはすべてを失った。恋人、友人、家族の信頼さえ。 絶望に沈む彼女の前に現れたのは、“氷の公爵”と呼ばれる男。冷たく見えたその瞳が、なぜか彼女にだけは熱を帯びていた。 裏切りの痛みと、新たに芽吹く愛の狭間で、リリアナは自らの誇りを取り戻していく。 ――これは、捨てられた令嬢が世界を見返す物語。そして、彼女を決して離さない男の、執着の恋の物語。

【完結】断罪された占星術師は、処刑前夜に星を詠む

佐倉穂波
恋愛
 星は、嘘をつかない。嘘をついていたのは——わたし自身だった。  王宮の卜部に勤める十七歳の占星術師リュシア・アストレアは、ある日、王太子妃候補の婚儀に「凶」の星を読んだ。星が告げるままに報告したに過ぎなかったのに、翌朝には牢に入れられていた。罪状は「占星術を用いて王家を惑わせ、王太子暗殺を画策した」こと。  言いがかりだ。  しかし、証明する術がない。  処刑は五日後の朝と告げられ、リュシアは窓もない石の牢に閉じ込められた。  そこで彼女は気づいてしまう。占いが外れ続けていた本当の理由に。  道具も星図もない暗闇の中で、生まれて初めて、星の声を正しく聞いた。  瞼の裏に広がる夜空が、告げる。  【王太子が、明後日の夜に殺される】  処刑前夜に視た予言を、誰が信じるというのか。それでも、若き宰相クラウス・ベルシュタインは深夜の牢へ足を運び、断罪された少女の言葉に耳を傾けた。  二人の出会いは、運命をどう変えていくのかーー。

君は恋人、でもまだ家族じゃない

山田森湖
恋愛
あらすじ 同棲して3年。 毎朝コーヒーを淹れて、彼の寝ぼけた声に微笑んで、 一緒に暮らす当たり前の幸せを噛みしめる——そのはずだった。 彼女は彼を愛している。 彼も自分を愛してくれていると信じている。 それでも、胸の奥には消えない不安がある。 「私たちは、このまま“恋人”で止まってしまうの?」 結婚の話になると、彼はいつも曖昧に笑ってごまかす。 最初は理由をつけていたのに、今では何も言わなくなった。 周囲の友人は次々と結婚し、家族を持ち始めている。 幸せそうな写真を見るたび、彼女の心には “言えない言葉”だけが増えていく。 愛している。 でも、それだけでは前に進めない。 同棲という甘い日常の裏で、 少しずつ、確かにズレ始めているふたりの未来。 このまま時間に流されるだけの恋なのか、 それとも、家族へと歩き出せる恋なのか——。 彼の寝息を聞きながら、 彼女は初めて「涙が出そうな夜」を迎えていた。

悪役令嬢を断罪したくせに、今さら溺愛とか都合が良すぎますわ!

nacat
恋愛
侯爵令嬢リディアは、無実の罪で婚約者の王太子に断罪された。 冷笑を浮かべ、すべてを捨てて国外へ去った彼女が、数年後、驚くべき姿で帰ってくる。 誰もが羨む天才魔導師として──。 今さら後悔する王太子、ざまぁを噛みしめる貴族令嬢たち。 そして、リディアをひそかに守ってきた公爵の青年が、ようやく想いを告げる時が来た。 これは、不当な断罪を受けた少女が、自分の誇りと愛を取り戻す溺愛系ロマンス。 すべての「裏切られた少女」たちに捧ぐ、痛快で甘く切ない逆転劇。

処理中です...