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時の河のむこう
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——春の夜、風が静かに流れていた。
窓の外では桜坂の桜がほのかに光をまとい、月明かりを受けて揺れている。
机の上には、開きっぱなしの参考書と赤いペン。
ページの端には涙の跡のようなシミがひとつ。
美咲は、手にした模試の結果を見つめていた。
「……ダメだな」
獣医になる——その夢を追いかけてもうすぐ2年。
だけど現実は、思うように結果が出ない。
数学も化学も、平均より少し下。
周囲の友達は推薦や合格を決めはじめている。
「わたし、ほんとに向いてるのかな……」
つぶやく声が、夜の部屋に沈んでいく。
机の端には、今も大切に置かれた小さな鈴。
ポチの首輪についていたものだ。
指先でそれをなぞる。
かすかに、チリンと鳴った。
その音だけが、胸の奥にやさしく響く。
——あの日、約束の丘で誓った。
もう泣かないって。前を向いて生きるって。
それでも、心が折れそうになる夜がある。
母は最近、体調を崩して仕事を減らした。
学費や進学のことを考えると、不安ばかりが積もっていく。
机の上の紙がにじんで、数字が霞む。
「ポチ……どうしたらいいの……」
そのまま机に伏せて、涙が落ちた。
ゆっくりとまぶたが重くなり、眠りの底へと沈んでいく。
──気づくと、美咲は川辺に立っていた。
目の前には、ゆるやかに流れる透明な川。
その向こうには金色の草原が広がり、空にはどこまでも白い雲。
時間が止まったような静けさ。
「ここ……どこだろう」
足もとには、柔らかな草の感触。
見上げた空の青さが、胸を打つほどまぶしい。
そのとき——
「ワン!」
懐かしい声が響いた。
振り返ると、そこにポチがいた。
光をまとった毛並み。
あのころのままの瞳で、彼女を見つめている。
「ポチ……!」
美咲は駆けだした。
ポチは尻尾を振りながら、川辺を走り回っている。
まるで待っていたかのように。
「ポチ……会いたかったよ……!」
涙がこぼれた。
ポチは美咲の手に鼻先を寄せ、ぺろりと舐めた。
そのぬくもりは確かに、本物だった。
「どうして、ここに……?」
ポチは少し首を傾げ、
まるで笑っているような顔で、美咲を見上げた。
「だって、美咲が泣いてたから」
その声は直接心の中に響いた。
懐かしくて、あたたかくて、涙がまたあふれる。
「もう、泣かないって約束したのに……」
「いいんだよ」
ポチは尾をゆらしながら、静かに言った。
「泣いてもいいよ。でも、その涙を“止めよう”とした君の気持ちは、本当だろ?」
美咲はうなずいた。
喉の奥が詰まり、声にならなかった。
「僕ね、美咲が獣医を目指してるの、ずっと見てたんだよ」
「え……」
「夜遅くまで勉強してるときも、疲れて泣いてるときも、
ちゃんと、見えてた。ずっと、そばにいたんだ」
美咲の目からまた涙があふれた。
「でも……ダメかもしれない。
頭もよくないし、家のことも……どうしたらいいのか、わからなくて」
ポチはゆっくりと川のほとりに歩み寄り、水面を見つめた。
水は鏡のように澄んでいて、二人の姿をやわらかく映している。
「見て。これが“時の河”なんだ」
「時の……河?」
「そう。過去も未来も流れてる。
ほら、見える?」
美咲がのぞきこむと、水面の奥に光が広がった。
そこには、未来の自分が映っていた。
白衣を着て、笑っている。
その手には、小さな子犬。
助けられた命が、嬉しそうに尻尾を振っていた。
「……これ、わたし?」
「うん。まだ少し先の未来。
でもね、美咲なら必ずここまでたどり着ける」
「……ほんとに?」
ポチは優しく頷いた。
「だいじょうぶ。美咲ならできるよ。
だって、僕が守ってきた“人”だから」
その言葉に、胸の奥が震えた。
あたたかくて、まっすぐで、涙が止まらなかった。
「ありがとう、ポチ……」
「泣き顔も悪くないけど、笑ったほうがずっといいよ」
ポチがそう言って、小さく吠えた。
——ワン。
その声と同時に、川の流れが少しずつ速くなる。
光が美咲を包み込み、世界がやさしく滲んでいく。
「もう行く時間だね」
「待って! まだ……!」
美咲が手を伸ばすと、ポチが彼女の掌に鼻を押し当てた。
その一瞬、あのころと同じ体温が伝わった。
「また会おうね。約束の丘で」
ポチの姿が光の粒に変わり、風に舞った。
やがてそのすべてが川の向こうに溶けていく。
「ポチ……!」
——次の瞬間、美咲は目を覚ました。
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気を染めている。
机の上にはノートと鉛筆。
そして、ポチの鈴がひとりでに“チリン”と鳴った。
美咲は涙をぬぐいながら、そっと微笑んだ。
「うん……わかった。もう一度、やってみるね」
窓を開けると、朝の風が流れ込んできた。
遠くで小鳥の声が聞こえる。
桜坂の方角から、やわらかな光が差していた。
その光の向こうに、
ポチの影が一瞬だけ見えたような気がした。
彼は笑っていた。
そして、また静かに風になって消えていった。
——夢ではなかった。
美咲は深く息を吸い込んだ。
胸の中にまだ、あの言葉が残っている。
「だいじょうぶ。美咲ならできるよ。」
涙がこぼれた。
けれど、その涙は、もう悲しみではなかった。
未来へ続く道の始まりを照らす——
小さな光のような涙だった。
窓の外では桜坂の桜がほのかに光をまとい、月明かりを受けて揺れている。
机の上には、開きっぱなしの参考書と赤いペン。
ページの端には涙の跡のようなシミがひとつ。
美咲は、手にした模試の結果を見つめていた。
「……ダメだな」
獣医になる——その夢を追いかけてもうすぐ2年。
だけど現実は、思うように結果が出ない。
数学も化学も、平均より少し下。
周囲の友達は推薦や合格を決めはじめている。
「わたし、ほんとに向いてるのかな……」
つぶやく声が、夜の部屋に沈んでいく。
机の端には、今も大切に置かれた小さな鈴。
ポチの首輪についていたものだ。
指先でそれをなぞる。
かすかに、チリンと鳴った。
その音だけが、胸の奥にやさしく響く。
——あの日、約束の丘で誓った。
もう泣かないって。前を向いて生きるって。
それでも、心が折れそうになる夜がある。
母は最近、体調を崩して仕事を減らした。
学費や進学のことを考えると、不安ばかりが積もっていく。
机の上の紙がにじんで、数字が霞む。
「ポチ……どうしたらいいの……」
そのまま机に伏せて、涙が落ちた。
ゆっくりとまぶたが重くなり、眠りの底へと沈んでいく。
──気づくと、美咲は川辺に立っていた。
目の前には、ゆるやかに流れる透明な川。
その向こうには金色の草原が広がり、空にはどこまでも白い雲。
時間が止まったような静けさ。
「ここ……どこだろう」
足もとには、柔らかな草の感触。
見上げた空の青さが、胸を打つほどまぶしい。
そのとき——
「ワン!」
懐かしい声が響いた。
振り返ると、そこにポチがいた。
光をまとった毛並み。
あのころのままの瞳で、彼女を見つめている。
「ポチ……!」
美咲は駆けだした。
ポチは尻尾を振りながら、川辺を走り回っている。
まるで待っていたかのように。
「ポチ……会いたかったよ……!」
涙がこぼれた。
ポチは美咲の手に鼻先を寄せ、ぺろりと舐めた。
そのぬくもりは確かに、本物だった。
「どうして、ここに……?」
ポチは少し首を傾げ、
まるで笑っているような顔で、美咲を見上げた。
「だって、美咲が泣いてたから」
その声は直接心の中に響いた。
懐かしくて、あたたかくて、涙がまたあふれる。
「もう、泣かないって約束したのに……」
「いいんだよ」
ポチは尾をゆらしながら、静かに言った。
「泣いてもいいよ。でも、その涙を“止めよう”とした君の気持ちは、本当だろ?」
美咲はうなずいた。
喉の奥が詰まり、声にならなかった。
「僕ね、美咲が獣医を目指してるの、ずっと見てたんだよ」
「え……」
「夜遅くまで勉強してるときも、疲れて泣いてるときも、
ちゃんと、見えてた。ずっと、そばにいたんだ」
美咲の目からまた涙があふれた。
「でも……ダメかもしれない。
頭もよくないし、家のことも……どうしたらいいのか、わからなくて」
ポチはゆっくりと川のほとりに歩み寄り、水面を見つめた。
水は鏡のように澄んでいて、二人の姿をやわらかく映している。
「見て。これが“時の河”なんだ」
「時の……河?」
「そう。過去も未来も流れてる。
ほら、見える?」
美咲がのぞきこむと、水面の奥に光が広がった。
そこには、未来の自分が映っていた。
白衣を着て、笑っている。
その手には、小さな子犬。
助けられた命が、嬉しそうに尻尾を振っていた。
「……これ、わたし?」
「うん。まだ少し先の未来。
でもね、美咲なら必ずここまでたどり着ける」
「……ほんとに?」
ポチは優しく頷いた。
「だいじょうぶ。美咲ならできるよ。
だって、僕が守ってきた“人”だから」
その言葉に、胸の奥が震えた。
あたたかくて、まっすぐで、涙が止まらなかった。
「ありがとう、ポチ……」
「泣き顔も悪くないけど、笑ったほうがずっといいよ」
ポチがそう言って、小さく吠えた。
——ワン。
その声と同時に、川の流れが少しずつ速くなる。
光が美咲を包み込み、世界がやさしく滲んでいく。
「もう行く時間だね」
「待って! まだ……!」
美咲が手を伸ばすと、ポチが彼女の掌に鼻を押し当てた。
その一瞬、あのころと同じ体温が伝わった。
「また会おうね。約束の丘で」
ポチの姿が光の粒に変わり、風に舞った。
やがてそのすべてが川の向こうに溶けていく。
「ポチ……!」
——次の瞬間、美咲は目を覚ました。
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の空気を染めている。
机の上にはノートと鉛筆。
そして、ポチの鈴がひとりでに“チリン”と鳴った。
美咲は涙をぬぐいながら、そっと微笑んだ。
「うん……わかった。もう一度、やってみるね」
窓を開けると、朝の風が流れ込んできた。
遠くで小鳥の声が聞こえる。
桜坂の方角から、やわらかな光が差していた。
その光の向こうに、
ポチの影が一瞬だけ見えたような気がした。
彼は笑っていた。
そして、また静かに風になって消えていった。
——夢ではなかった。
美咲は深く息を吸い込んだ。
胸の中にまだ、あの言葉が残っている。
「だいじょうぶ。美咲ならできるよ。」
涙がこぼれた。
けれど、その涙は、もう悲しみではなかった。
未来へ続く道の始まりを照らす——
小さな光のような涙だった。
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