僕たちはまだ人間のまま

ヒャク

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第15話「行け」

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「お疲れ様でしたー!」

演技に集中していた芽依は、その声でハッとしてスタジオの壁にかけてある丸い時計を見上げた。
銀の縁取りに白い盤、黒い数字に黒い時針と分針、赤い秒針の時計は、21時21分を指している。

「あ、」

待ち合わせ時間から、既に2時間近くが過ぎていた。

(ブロック、してない)
「な、中谷!」
「はいー?」

ヒロイン役に話し掛けられていたマネージャーの中谷は、浮かれたような声を出して芽依の元に駆け寄ってくる。
歳は芽依とあまり変わらない、ふくよかな体型のふわふわした雰囲気の女性だ。

「ケータイちょうだい」
「はいはいはい、はい!」

焦った様子の芽依に、彼女が持ち歩いている少し大きめのポーチから携帯電話を急いで取り出し、中谷はパッと彼の目の前にそれを差し出した。
電源を入れると、芽依は周りを見回してからアプリを起動する。

「メイ、それ車の中でしてくれない?もう帰るよ。せっかく早めに終わったんだから」
「分かってる、分かってるから」

いや、行かなくていいんだ。
別にブロックなんてすぐにでなくても、帰ってからゆっくりすればいい。

(行かない、行かないんだ)

全身の血が沸騰したようで、身体が熱く、汗をかいている。
衣装を着替えてメイクを落としてさっさと帰ってしまえばいいのに芽依はどうしても気になって、人が近くにいない事を確認するとメッセージ画面を開いた。

「、、あっ、」
「メーイー?」
「ごめん、一瞬だから」

雨宮[急がなくて大丈夫ですよ。待ってますね]

携帯電話の画面に映ったこちらを気遣う優しい文章に、芽依の胸の中にズクンと重たく罪悪感が乗っかった。
一緒に送られてきている画像は、手に持ったかすみ草の小さな花束だ。

(残業なのかとか、遅延してるのかとか、問い詰めればいいじゃん、、、何してんのこの人)

重い、苦しい。
どうしてこんな人を騙してしまったんだろう。
携帯電話を見たまま、芽依はその場にしゃがみ込んでしまった。

「え、メイ!?大丈夫!?」
「中谷、、俺どうしよう、」

待ってくれている。
何時間も経っているのに。
そんな雨宮の人の良さに、肩と頭が重くなり、また、何故だかドキドキと胸がうるさくなっていた。

「は!?なに!?詐欺にでも引っかかったの?もうやめてよ、スキャンダル!?」

彼女の本音だったのだろう。
焦った様子で小さくそう叫びながら周りをキョロキョロと見回して、しゃがんだ芽依の背中を摩ってくれる。
中谷は「母ちゃん」と呼びたくなるときがたまにあった。

「スキャンダルではない、、」
「もうやだよメイが元気ないのは、、頼むからしっかりしてくれ」

ポンポン、と中谷に背中を叩かれて、芽依は膝に力を入れて立ち上がる。

(俺、雨宮さんで最後にしよう)

もう騙すのは充分だった。
こんなに良い人に出会ってしまったから。
芽依はこのアプリを使うのも、ネカマをするのも、人を騙すのもこれで最後にしようと思って携帯電話をポケットにしまい、控え室に向かう事にした。
メッセージを見たせいで立った鳥肌や、動悸を、落ち着けねばならないと思ったのだ。

(こんなに苦しいとか、聞いてねーぞ泰清、、)

始めたときは「みんな死ね」と言う精神でいたのに、気が付けば、今は周りの優しさを見つめられるようになっている。
細かな気遣いや日常のどうでもいい事に小さな喜びをいちいち見つけられるようになっている。
2ヶ月前、飲む事しか楽しくなかった自分とは違う。
1ヶ月前の、嫌がらせに全てを注ぎ込んでいた自分とも違う。

(雨宮さんのおかげだ)

ストレスの発散方法なんて、サランラップをちぎりまくればいいじゃないか。
ほんの少しだけ余裕のできた自分の胸を見下ろして、フッと息を吐いた。

(帰ったらブロックしよう。それで終わりにするんだ)

しかし、何だか逃げているような気もした。
ブロックして時間が過ぎれば、自分はやがて雨宮を忘れて人の優しさに触れながら生きていけるのだ。
彼が今回の件で負う人間不信や裏切られる傷を目の当たりにする事なく、ただぼんやりと想像して、心の中で「ごめん」と言って終わり。
芽依からしたらその程度の事だ。

「、、、」
「あ、ねえねえメイ。あのお花もらっていいんだって。私貰ってきていい?最近旦那と一緒に部屋の飾り付けこっててさ~。ちょっと待っててね」
「、、花?」

スタジオから廊下へ出る出入り口の手前に置かれた机の上の花瓶に、ピンク系でまとめられた色合いの花が生けてある。
中谷はそれを指さしていた。

「ピンクのバラ、、」

花瓶には、薄いピンク色のバラが見える。
ユリや桔梗の中に残り1本だけ、しゃんとした姿で上を向いていた。

「え。私もバラ欲しい」
「ダメ。譲って。あとすぐ着替えるから新宿駅まで乗っけてって」
「え」

「行け」と、言われている気がした。

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