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心配してくれたのね……
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書斎の暖炉では薪が静かに爆ぜていたが、フレン伯爵レイモンドの心は嵐のように騒いでいた。
何度目かのグラスに注がれたワインも、ほとんど手つかずのまま机に置かれている。
時刻はすでに深夜に差しかかっていた。
夕刻に出かけた妻は未だ帰ってこない。
彼は立ち上がり、深紅のベルベットのカーテンをかき分けて外を覗いた。
夜霧が立ちこめ、前庭の灯がぼんやりと滲んでいる。
「――妻は、まだ帰ってこないのか?」
その声は低く、押し殺されていた。だが、確かに苛立ちと不安が滲んでいる。
レイモンドの瞳は窓の向こうを見据えたまま、動かなかった。
主人の問いかけに背後に控えていた執事が、一歩前に出る。
白手袋に包まれた手を軽く胸の前に重ね、姿勢を正した。
「はい、旦那様」
執事は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せた。
「まだのようでございます。よろしければ先方に使いを出しますか?」
「……ああ、そうだな。そうしてくれ」
レイモンドは窓の外を見つめたまま、静かに頷いた。
そのとき――遠くから、馬車の車輪が石畳を軋ませる音が聞こえてきた。
「……!」
レイモンドは窓辺から離れ、一気に階段を下った。
大理石の広間に足音が響く。
玄関の扉が軋んで開いたその瞬間、彼の目に飛び込んできたのは夜の風に髪を揺らす妻、システィーナの姿だった。
「ごめんなさい。少々寄り道をしてしまったので、戻るのが遅くなりました」
その言葉を聞き終えるより早く、レイモンドはそっと彼女の手を取った。
「無事でいてくれてよかった……。何ごともなかったかい……?」
レイモンドはシスティーナの手をそっと握ったまま、広間の灯の下へ彼女を導いた。
執事が静かに距離を取り、扉を音もなく閉める。
「ええ、わたくしは無事です。心配なさらないで」
「そうか、それはよかった……。体調は大丈夫かい?」
「ええ、何ともありません。とても興味深いお茶会でしたわ……」
含みを帯びた言葉を紡ぎながら妖艶に微笑む妻に、レイモンドは思わず息を呑み見惚れた。
「茶会か……。夜に茶会を開催するなど本当におかしな話だよ」
「ふふ、その通りですね。会の時間も場所も、作法も、提供されたお茶さえも……わたくしの知るものとは全く違うものでしたわ」
システィーナがくすくすと笑う中、レイモンドは表情を引き締め、神妙な面持ちで言葉を紡いだ。
「システィーナ……私は、君に何かあったのではと、最悪の想像ばかりが頭をよぎった。……一度も、こんなにも遅くなったことはなかったから」
「旦那様…………」
システィーナは一歩彼に近づき、その手にそっと自分の手を重ねた。
彼女の声には、深い申し訳なさと、それ以上の愛情があった。
「心配させてごめんなさい。せめて使いの者を出せばよかったですね。でも……」
「でも?」とレオニールが問う。
「誰かが心から心配してくれているなんて、これまで全く考えたことがありませんでした。だって、わたくしはベロア家の娘。心配とは無縁の存在ですもの。でも……旦那様にこうして心配されて、不謹慎だけど嬉しいと思ってしまいました……」
それを聞いたレイモンドの眉がわずかに和らいだ。
怒りにも似た焦燥が、胸の奥で静かにほどけていく。
「心配するのは当然だ。君が何者であっても、私の大切な妻であることに変わりはない。……君に何かあれば、私は正気でいられる自信がないよ、システィーナ……」
逞しい腕に優しく抱き寄せられたシスティーナは、静かに彼の胸へ顔を寄せた。
年相応の乙女のような顔で微笑む彼女は、とても十数人を連行して牢屋に入れた猛者には見えない。
「少し休もう。さあ、こちらへ。何か温かいものでも用意しようか?」
「ええ、お茶会では何もいただいていないから喉が渇いたわ」
「……茶会で飲み物が用意されていないなんてことあるのかい?」
「いいえ? ご用意はしていただきましたよ。ただ、飲めるものではなかっただけです」
「ええ……」と無言で訴えるようなレイモンドの表情に、システィーナは思わず可笑しそうに笑った。
二人が連れ立って寝室へ戻る頃には、すでに部屋には暖炉の火が灯され、ほどよい温もりが満ちていた。
厚手の絨毯の上をシスティーナは静かに歩く。
レイモンドは執事に手配させた銀の茶器をテーブルに見つけ、彼女を椅子へと誘った。
「座って、冷えただろう。ミントとカモミールのお茶を用意させた。体も温まるだろう」
「まあ! 嬉しいです」
レイモンド自ら銀のポットを手に取り、慎重に湯を注ぐ。
小さな茶葉の香りがふわりと広がり、部屋の空気に優しさを加える。
彼はそっとカップを妻の前に差し出し、もう一つを自分の前に置いた。
レイモンドはカップを両手で包み込み、香りをゆっくり吸い込む。
「……いい香り。ミントの匂いはわたくし大好きですの。だから、先程もうっかり口にしてしまいそうでしたわ……」
「ええ……茶会でいったい何があった……?」
怪訝な顔で問いかけるレイモンドに、システィーナは茶会であった出来事を話した。
何度目かのグラスに注がれたワインも、ほとんど手つかずのまま机に置かれている。
時刻はすでに深夜に差しかかっていた。
夕刻に出かけた妻は未だ帰ってこない。
彼は立ち上がり、深紅のベルベットのカーテンをかき分けて外を覗いた。
夜霧が立ちこめ、前庭の灯がぼんやりと滲んでいる。
「――妻は、まだ帰ってこないのか?」
その声は低く、押し殺されていた。だが、確かに苛立ちと不安が滲んでいる。
レイモンドの瞳は窓の向こうを見据えたまま、動かなかった。
主人の問いかけに背後に控えていた執事が、一歩前に出る。
白手袋に包まれた手を軽く胸の前に重ね、姿勢を正した。
「はい、旦那様」
執事は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せた。
「まだのようでございます。よろしければ先方に使いを出しますか?」
「……ああ、そうだな。そうしてくれ」
レイモンドは窓の外を見つめたまま、静かに頷いた。
そのとき――遠くから、馬車の車輪が石畳を軋ませる音が聞こえてきた。
「……!」
レイモンドは窓辺から離れ、一気に階段を下った。
大理石の広間に足音が響く。
玄関の扉が軋んで開いたその瞬間、彼の目に飛び込んできたのは夜の風に髪を揺らす妻、システィーナの姿だった。
「ごめんなさい。少々寄り道をしてしまったので、戻るのが遅くなりました」
その言葉を聞き終えるより早く、レイモンドはそっと彼女の手を取った。
「無事でいてくれてよかった……。何ごともなかったかい……?」
レイモンドはシスティーナの手をそっと握ったまま、広間の灯の下へ彼女を導いた。
執事が静かに距離を取り、扉を音もなく閉める。
「ええ、わたくしは無事です。心配なさらないで」
「そうか、それはよかった……。体調は大丈夫かい?」
「ええ、何ともありません。とても興味深いお茶会でしたわ……」
含みを帯びた言葉を紡ぎながら妖艶に微笑む妻に、レイモンドは思わず息を呑み見惚れた。
「茶会か……。夜に茶会を開催するなど本当におかしな話だよ」
「ふふ、その通りですね。会の時間も場所も、作法も、提供されたお茶さえも……わたくしの知るものとは全く違うものでしたわ」
システィーナがくすくすと笑う中、レイモンドは表情を引き締め、神妙な面持ちで言葉を紡いだ。
「システィーナ……私は、君に何かあったのではと、最悪の想像ばかりが頭をよぎった。……一度も、こんなにも遅くなったことはなかったから」
「旦那様…………」
システィーナは一歩彼に近づき、その手にそっと自分の手を重ねた。
彼女の声には、深い申し訳なさと、それ以上の愛情があった。
「心配させてごめんなさい。せめて使いの者を出せばよかったですね。でも……」
「でも?」とレオニールが問う。
「誰かが心から心配してくれているなんて、これまで全く考えたことがありませんでした。だって、わたくしはベロア家の娘。心配とは無縁の存在ですもの。でも……旦那様にこうして心配されて、不謹慎だけど嬉しいと思ってしまいました……」
それを聞いたレイモンドの眉がわずかに和らいだ。
怒りにも似た焦燥が、胸の奥で静かにほどけていく。
「心配するのは当然だ。君が何者であっても、私の大切な妻であることに変わりはない。……君に何かあれば、私は正気でいられる自信がないよ、システィーナ……」
逞しい腕に優しく抱き寄せられたシスティーナは、静かに彼の胸へ顔を寄せた。
年相応の乙女のような顔で微笑む彼女は、とても十数人を連行して牢屋に入れた猛者には見えない。
「少し休もう。さあ、こちらへ。何か温かいものでも用意しようか?」
「ええ、お茶会では何もいただいていないから喉が渇いたわ」
「……茶会で飲み物が用意されていないなんてことあるのかい?」
「いいえ? ご用意はしていただきましたよ。ただ、飲めるものではなかっただけです」
「ええ……」と無言で訴えるようなレイモンドの表情に、システィーナは思わず可笑しそうに笑った。
二人が連れ立って寝室へ戻る頃には、すでに部屋には暖炉の火が灯され、ほどよい温もりが満ちていた。
厚手の絨毯の上をシスティーナは静かに歩く。
レイモンドは執事に手配させた銀の茶器をテーブルに見つけ、彼女を椅子へと誘った。
「座って、冷えただろう。ミントとカモミールのお茶を用意させた。体も温まるだろう」
「まあ! 嬉しいです」
レイモンド自ら銀のポットを手に取り、慎重に湯を注ぐ。
小さな茶葉の香りがふわりと広がり、部屋の空気に優しさを加える。
彼はそっとカップを妻の前に差し出し、もう一つを自分の前に置いた。
レイモンドはカップを両手で包み込み、香りをゆっくり吸い込む。
「……いい香り。ミントの匂いはわたくし大好きですの。だから、先程もうっかり口にしてしまいそうでしたわ……」
「ええ……茶会でいったい何があった……?」
怪訝な顔で問いかけるレイモンドに、システィーナは茶会であった出来事を話した。
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