どうして許されると思ったの?

わらびもち

文字の大きさ
130 / 136

エルザにとっての流刑地

しおりを挟む
 濃密な香が空気の中に静かに滞っていた。
 沈香に似た香木の煙が天井近くでゆるやかに渦を巻き、透きとおる天蓋の絹をくぐり抜けては金糸の房飾りをゆらしている。

 寝台は低く広く、その周囲には濃紅や藍、琥珀色の布が何重にも垂れ、まるで静かな聖域のような気配をたたえていた。壁には幾何模様のタイルがはめ込まれ、窓から射す朝の光は、彫りの深い木枠と透かし彫りの格子を通して、幾筋もの影を床に落としている。

 その中央、絹の枕にもたれて横たわる女性はまるで細工物の人形のように微かに揺れるだけで動かない。
 肌は陶器のように白く、重ねられた薄絹の衣がほとんどその輪郭を覆い隠していた。

 目は開かれていたが、夢の中と現の境に漂うように、焦点はどこにも定まらない。
 薄紅の唇がかすかに動きかけたが、言葉になる前にその息は静かに胸の奥に沈んでいく。

 起き上がろうと、思った。だがその想いは身体のどこにも届かなかった。まるでこの部屋全体が重たい絹で編まれた繭のように、彼女を静かに包みこんでいるかのようだった。

 遠く、鳴子のような音が響く。侍女たちが朝の仕度に立つ気配か。
 けれど彼女は目を閉じ、音の聞こえる方へ顔を向けることさえしなかった。
 ただこの部屋の空気と光と香りの中に、沈むように身をゆだねていた。

「エルザ、起きたか」

 その声は寝室の奥、重たく装飾の施された扉の向こうから、低く、しかしはっきりと届いた。

 寝台に横たわっている女性──エルザは目を開けた。
 けれど首を傾けることはせず、ただその声だけを静かに耳の奥でなぞった。
 声の主が誰であるか、疑う余地はない。彼女の顔に、怯えと緊張がかすかに影を落とし始めた。

 扉がゆっくりと開く音がした。錠前の軋むような金属音と、絨毯を踏む柔らかな足音。
 その音が聞こえるたびに、彼女の心臓は強く脈を打ち、逃れようのない不安が胸に押し寄せた。

 男はゆっくりと寝台へと歩み寄る。身に纏った衣装の豪華さが、彼のただならぬ身分を物語っていた。
 彼はエルザの傍らまで来ると立ち止まり、しばし見下ろした。彼女のの頬にかかる髪が微かに揺れるのを、じっと見つめる。

「艶めかしいな……。そのようなしどけない姿を見ていると、また其方を可愛がりたくなってくる」

 その言葉に、エルザは慌てて飛び起きた。冗談じゃない——そう言わんばかりの剣幕で。

「……何かご用でしょうか、旦那様」

 無造作に床に置かれた衣服を掴み、急いでそれを見につけながら傍らの男に問いかける。
 まるで話題を逸らすかのように。

「ああ、これから謁見に向かうのでな。それを言いに来た。寂しいだろうが、いい子で待っているのだぞ」

 男は腰をかがめ、手を伸ばし、エルザの額にそっと触れる。
 その瞬間、彼女の背筋をぞわりと寒気が走った。

「必要があれば、使いを出せ」

 その言葉にエルザはわずかに目を伏せ、何も答えなかった。
 だが、男はそんな彼女の反応を気にする様子も無い。彼にとってエルザの意志などどうでもよいのだ。

 男はやがて手を引き、静かに立ち去る。まるで何もなかったかのように絹の天蓋をもとの位置に戻しながら。
 再び一人になった寝台でエルザは目から涙を溢れさせ、そのまま枕へと顔を押し付ける。

「なんでっ……私が、こんな目に……!!」

 怨嗟のような声は誰の耳にも届かぬまま、朝の光に溶けて消えた。


「おはようございます、第六夫人様。朝の湯浴みの準備が整いました」

 男が出て行ってから、入れ違いのように使用人が扉の向こうから声をかけてきた。
 その声にエルザは「……分かったわ」と力なく答える。

 扉が開けられた先には二人の女官が控えており、ひとりは銀の水差しを抱え、もうひとりは繊細な刺繍の入ったリネンの布を腕にかけていた。

 寝台から降りたエルザが歩を進めると、足元の絨毯がふわりと沈み、周囲の香炉が音もなく煙を立てた。
 回廊を抜けた先には白い大理石の壁に囲まれた湯殿が現れる。中央には円形の浴槽があり、湯面には薔薇の花弁とミントの葉が浮かび、蒸気がゆるやかに天井のモザイク画へと昇っていた。

 壁際の噴水からは、細い銀の弧を描いて絶え間なく温かな湯が注がれている。
 祖国では見たことがないほど豪奢で贅沢な浴室を見てもエルザの心が躍ることはなかった。

 衣を脱ぎ、静かに湯へと身を沈めた彼女は、そのまま目を閉じた。
 肌を撫でる湯の感触は絹にも似てやわらかく、まるで時の流れそのものが止まったよう。

(このまま、本当に時が止まってしまえばいいのに……。そうすればもう……あの男に好き勝手にされることもないのに……)

 叶う事のない願いを頭に浮かべ、エルザは浴槽の縁へと寝そべる。
 湯に身を沈めてしばらくすると、ひとりの女官が湯殿の縁へとやってきた。

 次の瞬間、女官の手がエルザの濡れた髪をすくい上げ、そのまま強引に引っ張った。
 ぬるりとした水音とともに髪が後ろへ引かれ、首がぐいとのけぞる。

「……痛ッ! 何するのよ!?」

 痛みに悲鳴をあげるエルザの顔を覗き込んだのは、彼女の従妹であるパメラだった。
 パメラは怒りをあらわにしてエルザを睨みつけていた。

「あんたのせいで私までこんな所に連れてこられて、奴隷のように働かされてんのに……なに呑気に湯舟になんて浸かってんのよ!!」

「ちょっ……痛いッ! やめて、パメラお従姉様!」

 髪を引き抜かれそうなほど強く引かれ、なんとか逃れようと必死に体を捩った――その時だった。

「お前、何をしているのですか!」

 女官の一人がエルザに乱暴を働くパメラに向かって容赦なく平手打ちを浴びせた。
 あまりの強さに、パメラは反動でよろめき、浴室の床に尻もちをついた。

「痛ッ……!! ちょっと何するのよ!?」

「それはこちらの台詞です! 第六夫人様になんて真似を……! 端女の分際で、に傷をつけようとするなど言語道断。この愚か者に罰を与えなさい!」

「あっ、ちょっと! 引っ張らないで! 痛い! 痛いってば!?」

 女官が命令すると、どこからともなく黒いベールで顔を隠した使用人が現れ、パメラの腕を掴み浴室の外へと引きずって行った。しばらくすると、隣室より悲鳴が響く。

「失礼いたしました。お支度を続けさせていただきます」

 何事もなかったかのように、悲鳴などまるで聞こえないように、女官はエルザの髪を洗い始める。
 その淡々とした様が恐ろしくて、隣室で何が行われているのかを聞くことが出来なかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

兄にいらないと言われたので勝手に幸せになります

毒島醜女
恋愛
モラハラ兄に追い出された先で待っていたのは、甘く幸せな生活でした。 侯爵令嬢ライラ・コーデルは、実家が平民出の聖女ミミを養子に迎えてから実の兄デイヴィッドから冷遇されていた。 家でも学園でも、デビュタントでも、兄はいつもミミを最優先する。 友人である王太子たちと一緒にミミを持ち上げてはライラを貶めている始末だ。 「ミミみたいな可愛い妹が欲しかった」 挙句の果てには兄が婚約を破棄した辺境伯家の元へ代わりに嫁がされることになった。 ベミリオン辺境伯の一家はそんなライラを温かく迎えてくれた。 「あなたの笑顔は、どんな宝石や星よりも綺麗に輝いています!」 兄の元婚約者の弟、ヒューゴは不器用ながらも優しい愛情をライラに与え、甘いお菓子で癒してくれた。 ライラは次第に笑顔を取り戻し、ベミリオン家で幸せになっていく。 王都で聖女が起こした騒動も知らずに……

存在感のない聖女が姿を消した後 [完]

風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは 永く仕えた国を捨てた。 何故って? それは新たに現れた聖女が ヒロインだったから。 ディアターナは いつの日からか新聖女と比べられ 人々の心が離れていった事を悟った。 もう私の役目は終わったわ… 神託を受けたディアターナは 手紙を残して消えた。 残された国は天災に見舞われ てしまった。 しかし聖女は戻る事はなかった。 ディアターナは西帝国にて 初代聖女のコリーアンナに出会い 運命を切り開いて 自分自身の幸せをみつけるのだった。

【完結】恋人との子を我が家の跡取りにする? 冗談も大概にして下さいませ

水月 潮
恋愛
侯爵家令嬢アイリーン・エヴァンスは遠縁の伯爵家令息のシリル・マイソンと婚約している。 ある日、シリルの恋人と名乗る女性・エイダ・バーク男爵家令嬢がエヴァンス侯爵邸を訪れた。 なんでも彼の子供が出来たから、シリルと別れてくれとのこと。 アイリーンはそれを承諾し、二人を追い返そうとするが、シリルとエイダはこの子を侯爵家の跡取りにして、アイリーンは侯爵家から出て行けというとんでもないことを主張する。 ※設定は緩いので物語としてお楽しみ頂けたらと思います ☆HOTランキング20位(2021.6.21) 感謝です*.* HOTランキング5位(2021.6.22)

私を追い出した結果、飼っていた聖獣は誰にも懐かないようです

天宮有
恋愛
 子供の頃、男爵令嬢の私アミリア・ファグトは助けた小犬が聖獣と判明して、飼うことが決まる。  数年後――成長した聖獣は家を守ってくれて、私に一番懐いていた。  そんな私を妬んだ姉ラミダは「聖獣は私が拾って一番懐いている」と吹聴していたようで、姉は侯爵令息ケドスの婚約者になる。  どうやらラミダは聖獣が一番懐いていた私が邪魔なようで、追い出そうと目論んでいたようだ。  家族とゲドスはラミダの嘘を信じて、私を蔑み追い出そうとしていた。

戻る場所がなくなったようなので別人として生きます

しゃーりん
恋愛
医療院で目が覚めて、新聞を見ると自分が死んだ記事が載っていた。 子爵令嬢だったリアンヌは公爵令息ジョーダンから猛アプローチを受け、結婚していた。 しかし、結婚生活は幸せではなかった。嫌がらせを受ける日々。子供に会えない日々。 そしてとうとう攫われ、襲われ、森に捨てられたらしい。 見つかったという遺体が自分に似ていて死んだと思われたのか、別人とわかっていて死んだことにされたのか。 でももう夫の元に戻る必要はない。そのことにホッとした。 リアンヌは別人として新しい人生を生きることにするというお話です。

三年の想いは小瓶の中に

月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。 ※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。

実は家事万能な伯爵令嬢、婚約破棄されても全く問題ありません ~追放された先で洗濯した男は、伝説の天使様でした~

空色蜻蛉
恋愛
「令嬢であるお前は、身の周りのことは従者なしに何もできまい」 氷薔薇姫の異名で知られるネーヴェは、王子に婚約破棄され、辺境の地モンタルチーノに追放された。 「私が何も出来ない箱入り娘だと、勘違いしているのね。私から見れば、聖女様の方がよっぽど箱入りだけど」 ネーヴェは自分で屋敷を掃除したり美味しい料理を作ったり、自由な生活を満喫する。 成り行きで、葡萄畑作りで泥だらけになっている男と仲良くなるが、実は彼の正体は伝説の・・であった。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

処理中です...