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八話 さらに近づく心

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 その翌日、朝食と身支度を済ませたエリーズが通されたのは王城の一室だった。結婚式の際に着るドレスやその他の衣服、装飾品を用意するために採寸を行うのだという。
 ほとんどものが置かれていない部屋にはすでに数人の女性が待ち構えており、エリーズはあれよあれよという間に彼女たちに囲まれた。
 背丈や腰回りの長さを計るだけだとばかり思っていたがそれだけには収まらず、足の大きさ、首の太さ、更には指の一本一本の太さまで、全身至る所に巻き尺をあてられて事細かに計測された。
 計測係たちはてきぱきと仕事をしたためエリーズの拘束時間はそこまで長くなかったものの、終わる頃にはエリーズは放心状態となっていた。
 カイラが気を回して、休憩のために茶を淹れてくれた。

「まさか、体の全部を測られるなんて思ってもみなかったわ……」
「今は取り急ぎ王城にあったものを着て頂いておりますが、王侯貴族の方々のお召し物はすべて、その方の体にぴったり合うように一から作るのですよ」

 エリーズが真っ当な貴族の娘として育っていたら嫁入り道具として持ってこられるドレスも何着かあったはずだが、生憎持っているのは母の形見で唯一残った一着だけだ。それも今は王城仕えの仕立て屋に預けられている。
 エリーズの持ち物はすべて王家で用意するから心配はいらないとヴィオルは言ってくれたが、どうにも申し訳なさが拭えなかった。

「普通は、何着くらい持つものなのかしら?」
「エリーズ様は王妃となられる方ですから、最低でも百着ほどはお持ち頂きますわ。それで用意を進めております」

 それを聞いて、エリーズは思わず持っていたカップを落としそうになった。
 百着のドレスがあったとしたら、一年の中で同じものに袖を通すのは三回ほどということになる。それが最低ということは、実際は更に多くのドレスを持つのだろう。エリーズの常識をはるかに超えている。

(何だか、すごい世界に来てしまったみたい)

 エリーズ様にお似合いのドレスが仕立てあがるのが楽しみですと言うカイラが、とても頼もしく見えた。

***

 国王の近侍のジギスに言われていた通り、エリーズが王妃に必要な教養を身につけるための時間が設けられるようになった。
 アルクレイド王国の成り立ちから政治の体制、地理、知っておくべき法律。七百年ほど前、ある男が大地の精霊の加護を受けて興したのがこの王国であり、国章である翼の生えた鹿はその精霊の姿を現している。精霊は角を頂いた牡鹿おじかの姿をしていたが女性で、人の姿をとって初代国王との間に子を成した。王は皆、精霊の血をひいているのだという。
 何も知らない自分が勉強についていくのは大変だろうとエリーズは覚悟していたが、長時間拘束されることも難しい課題を与えられることもなく拍子抜けしてしまった。教師たちは質問にも快く答えてくれるので学ぶこと自体はとても楽しく、休憩時間の間にもエリーズは教本を読みふけって過ごした。
 座学だけではなく、作法を身につける時間もある。エリーズの両親が生きていた頃にある程度は教えてくれていたが、それも完璧ではない。だがあまり厳しい指導をされることはなく、むしろよく褒めてもらった。
 ヴィオルは日中も政務の合間をぬい、エリーズに顔を見せにきた。毎日ではなかったが都合が合えば食事を共にし、それに加えて毎晩エリーズの部屋を訪れ、今日はあれを学んだ、これを知ったと話すエリーズの言葉に耳を傾けてくれる。更には庭園に咲く花を摘んで作ったという花束を持ってきてくれることもあった。
 エリーズを苦しめていた手荒れも、毎日朝と晩に欠かさず薬を塗ったため七日経つ頃にはすっかり良くなった。綺麗になった手を見せるとヴィオルは喜んでくれたが、同時に少し寂しそうな顔をした。

「もちろん治って良かったと思っているけれど、君の手にたくさん触れるための口実が無くなってしまうな」
「口実なんていらないと思うわ。わたしたち……その、結婚するんですもの」

 エリーズの方から手を伸ばしヴィオルの手をそっと握る。自分からなんてはしたないかしら、と思っていると、ヴィオルは小さなうめき声を漏らしてエリーズの首筋に顔をすり寄せた。

「君が他の誰かのものになる前に見つけられて本当に良かった」

 彼に触れられたところから、甘い喜びが肌を伝っていくのを感じる。それは乾いた大地に降る恵みの雨のように、エリーズの心の奥深くまでしみ込んでいく。

「わたしも、ヴィオルに会えて幸せよ」

 婚約者の胸に顔を寄せてエリーズがつぶやくように言うと、優しいキスが唇に落とされた。

***

「教師たちが驚いていたよ。君は何でもすぐ覚えると」

 エリーズが王城で暮らし始めて十五日目の夜、いつものように部屋に訪れたヴィオルが言った。

「お勉強はすごく楽しいわ。本を読んでいると時間があっという間に過ぎてしまうの」
「無理しないでいいんだよ?」
「全然無理なんてしていないわ」

 教わることはエリーズにとってどれも新鮮で、自分が今までどれほど狭い世界で生きていたのかを痛感させられる。王城の図書室には一生をかけても読み切れないほどの蔵書が保管されており、授業がない間もエリーズはそこに入り浸るようになっていた。
 知識を与えてくれる教師たちも、使用人も皆とても親切だ。カイラは休憩時間にいつも温かい茶を淹れる他、ずっと本を読んでいては目が疲れてしまいますからと目に当てるための温かい布を用意してくれる。シェリアとルイザはペンが転がっても楽しい年頃なのかいつも明るく笑いながらエリーズの世話役や話し相手になってくれる。彼女たちを見ていると、エリーズの頭にかつてガルガンド家で働いてくれていた女性たちの記憶が蘇る。エリーズと一番年が近かった娘は、いつも遊び相手をしてくれた。
 王城で預かりになっていたエリーズの母の形見のドレスは、新品と見まがう程綺麗に仕立て直されてエリーズのもとに帰ってきた。元の形やデザインを崩さないまま、傷みが酷かった部分にリボンやレース飾りがあしらわれており、心なしかドレスも生き生きしているように見えた。

「あ、そういえばダンスの練習を全然していないの。先生方にお伺いしたら、する必要はないとヴィオルが言っていたって……」
「ああ。確かに僕がそう伝えた。君はもう十分に踊れているからね」

 ヴィオルと踊ったのは彼と初めて出会ったあの夜会の時だけだ。確かに転んだり彼の足を踏んだりすることはなかったものの、エリーズの記憶の中ではかなりぎこちない動きをしていたように思う。ヴィオルがかなり慣れていたからどうにか最後まで踊れたようなものだ。

「本当に大丈夫かしら……練習しておいた方がいいと思うけれど……」
「練習は相手役がいないとできないだろう?」

 ヴィオルが手を伸ばし、エリーズの肩を抱き寄せた。

「申し訳ないけれど、練習であっても君が他の男と踊るなんて許容できない。君の相手は僕だけだ」
「まあ」

 これが「妬く」ということなのかと、エリーズはぱちぱちと瞬きをした。一国の王であり自分より八つも年上の彼が小さな子供のように見える。だが、彼に執着されているという事実が妙に心地よく思えた。

「こんなに器の小さい男じゃ、君に嫌われてしまうかもしれないな……」

 眉を下げながらヴィオルが言う。エリーズはふふっと笑った。

「嫌いになんてならないわ。でも……」
「でも?」
「ヴィオルも、他の人とはもう踊らない?」
「勿論だ。君しかいない。エリーズ以外はあり得ない」

 強すぎるくらいの力で、ヴィオルはエリーズをぎゅっと抱きしめた。

***

 さらに日が経ち、とうとう結婚式の前夜となった。
 その準備に加えて政務もこなすヴィオルは相当疲れているはずだが、今日も彼はエリーズの部屋を訪ね、エリーズの手を握って寄り添ってくれた。

「やっと君の花嫁姿が見られる……」

 エリーズの髪を撫でながら、ため息混じりに彼が言う。
 花嫁衣裳はすでに仕上がっており、先日試着も行った。明日その姿でヴィオルの前に立つのだと考えるだけでそわそわしてしまう。果たして今夜はまともに眠れるのだろうか。
 ヴィオルの肩に頭を寄せ、エリーズは彼の顔を見た。エリーズと目が合うと、ヴィオルの紫水晶の瞳は柔らかい輝きを放つ。

「どうしたの、不安になってきた?」
「そうね……あ、結婚が嫌では決してなくて……」

 恋した相手の花嫁になれる。ずっと夢みていたことが明日にはすべて現実になる。

「少しだけ怖いの……わたし、もうヴィオルのことが大好きで、結婚したら絶対にもっと好きになるわ。好き過ぎて変になってしまいそうだから……」

 エリーズがヴィオルと出会ってひと月、その間に色々な話をして彼のことを知る程に、恋い慕う気持ちはどんどん膨らんでいく。目が合えば胸は高鳴り、抱きしめられれば彼の温もりと香りに頭がくらりとし、口づけをされれば有頂天だ。
 底のない沼に沈んでいくのがひどく心地よくて、それでいて体全部が浸かってしまったら自分はどうなってしまうのか分からないのが怖かった。

「ああエリーズ、僕をこれ以上狂わせないで。何があっても夫婦になるまでは我慢すると決めているのに」

 ヴィオルに抱き寄せられ、エリーズの心が甘く震える。

「……僕も、君を想うだけで胸が張り裂けそうになる。ずっと君だけを見つめていたい。君の言葉は何一つ聞き漏らしたくない」
「ヴィオル……」

 彼の右手がエリーズの頬を優しく撫でた。

「こんなに誰かを好きになれるなんて思っていなかった」

 輝く美貌の令嬢や立派に教養を身につけた王女と出会ったことはいくらでもあるはずなのに、ヴィオルの心が向かうのはエリーズただ一人だ。初めて恋をした相手が、深い愛で包み込んでくれる。これ程幸せなことがあるだろうか。
 二人の唇が重なる。毎夜ヴィオルがくれる口づけは、日を追うごとに甘さと深さを増していく。静かな部屋の中で、エリーズの全てを乞うようなキスが音を奏でる。

「……もう、寝ないとね」

 ひと際長い口づけを終え、ヴィオルが呟いた。ぼんやりとしたままのエリーズを抱き上げて寝台まで運び、ガラスの人形を扱うかのように優しく寝かせる。

「お休みエリーズ。また明日」
「おやすみなさい……」

 一人だけで眠る最後の夜、エリーズの胸の鼓動はなかなか落ち着かないままだった。
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