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第三章 夫の実家に初訪問

34、夢だったけど

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 そこは、幸せな空間だった。

 私は幼い子供で、小さな部屋が一つだけの木のおうちでお母さんと一緒に暮らしている。

 顔はぼやけて見えないのだけど私を産んでくれた本当のお母さんで、優しくって温かくって、私は目一杯彼女に甘えて纏わりついていた。
 頭を撫でてもらって抱っこしてもらって、ぎゅうっとしがみついて優しいふわふわとした腕に包まれてお母さん、と呼びかける。表情は判然としないのに柔らかな笑みを浮かべて私を見下ろしているのが分かって、私はもう一度お母さん、と声を出す。

「・・・シルフィア」

 しっとりと穏やかな声音で名を呼ばれて私はもう一度抱っこして貰おうと、お母さんの方へ手を伸ばした。直ぐに大きな腕でふわりと優しく優しく抱きしめられていい匂いがした。

 ・・・・・・一番、安心する匂い。でも、これはお母さんの匂いじゃない、気がする。何処で馴染んだものだったかな・・・?

「お、母さん・・・?」

 重く閉じていた瞼を頑張って押し上げて、その匂いの主を確かめる。やっぱりお母さんじゃない。性別が違う。この男の人は誰?

「あなた、誰? 私のお母さんは?」

 そう尋ねれば、こちらを見つめている綺麗な薄青の瞳が大きく見開かれ、悲しそうな表情に変わった。それから、彼は一瞬だけ目を伏せると真っ直ぐに私を見た。

「シルフィア、君のお母さんはずっと前に亡くなっているんだよ」
「なんでそんな嘘をつくの? 私、さっきまでお母さんと一緒にいたのに」
「夢を見たんだね。お母さんは優しかった?」
「うん、とっても優しかった! でも夢じゃないの。私、お母さんにまた抱きしめてもらいたいの。だから、お母さんを探してるの」

 お母さんはどこに消えたの? そういえば、ここはどこだろう、小さな木のおうちじゃないのかな?

 不安になって周りを確かめようとした途端、目の前の人がぎゅうっと力を入れて抱きしめ直してきた。

「シルフィア! 君のお母さんに代わってこれからは僕が君を抱きしめるから、お願い、僕の名前を呼んで」

 あれ、この感触をよく知っているような、すごく安心するような?

 サラリと視界の端を灰色の髪がよぎって、私の口が勝手に動いた。

「テオ」

 ・・・ああ、そうだった。私は小さい子供なんかじゃなくて既に結婚した大人で、お母さんは私を産んだことで命を落としたんだった。

 そうか、あの幸せは目が覚めたら消える夢だったのかと悟った瞬間、私の目からどんどん涙があふれてきて止まらなくなった。
 
 夢だったけど、顔も分からなかったけど、初めて会えた。お母さんの存在を知った時からどんな人だったのかなと、生きていたら愛してくれたかなと想像して縋っていた。たとえこれが自分の都合のよい妄想の産物だったとしても、嬉しかった。

「テオ、私は夢の中では幼くなっていて、お母さんに抱っこされて撫でてもらえました」
「それは、いい夢だったね」

 差し出されたタオルを顔に当てて、鼻をグスグスいわせながら身体を起こせば、テオはベッドに軽く腰掛けて私の背中を支え、優しく撫でてくれた。もしや、夢の中のお母さんは彼だったかと思ったが、やっぱり何か違う。

「水、飲んで・・・ああ、熱は下がってきたかな。一時、随分と高くて心配したけれど、意識が戻ってホッとした」

 テオが私の額と自分の額をくっつけて嬉しそうに言う。私はまだ半分ふわふわとした空間にいるようで、彼のこともなんだか自分の都合のよい夢に思えた。

「テオは本当に存在していますか? 私の夢ではないですか?」

 じっと見つめながら問えば、目の前の彼は私の頬を両手で包みこんでニコリと笑った。

「心配しなくても僕はここにいるよ。ほら、ちゃんとこうやって触れられるでしょ。もう少し、証明しようか?」

 そう言うなり、頬に添えた手に力が籠もってあっという間にキスされて唇を塞がれた。
 ジタバタしていたらそのまま深くなってベッドに押し倒される。呼吸の仕方が分からなくなって気が遠くなりかけた頃、解放された。

「今度は、僕のこと忘れないでよね」

 掛布を首元まで引き上げられ、ポンポンとあやすように整えられて寝かしつけられる。

 テオの存在が夢じゃないのは分かったけれど、顔が火照って眠れない。

「テオ、これではとても寝られません」

 恨みがましげに彼を見上げれば、大きな手がそっと私の目を覆って小さな声の子守唄が聞こえてきた。
 私はしばらく彼の手の暗闇の中で目を瞬かせていたが、その落ち着いた旋律に誘われていつの間にか眠りに落ちていた。


 次に見た夢では、私はテオの末の妹でディーやパットと一緒に庭を駆け回り、お義母様の膝に乗って大きなケーキを食べさせてもらっていた。

 目覚めてから、テオにその話をすると『それだと僕は一生独身だね』と微妙な顔をしていた。


■■


「お母様、嬉しそう。何かあったの?」
「午後にお見舞いに行ったら、寝ているシルフィアに『お母さん』と呼ばれたの」
「お義姉様に会ったの?! いいなあ、テオ兄様ってば、お義姉様の熱が出た昨日から私を部屋に入れてくれないのよね」
「それはディーがシルフィアに会うと喜びを自制できなくなるからでしょ」
「これでも、初日に比べて随分と制御できるようになったのよ。あ、そうそう、聞いてお母様」

 楽しい秘密を打ち明けるような、いたずらっぽい表情になったディートリントが、母親の公爵夫人へ顔を寄せる。

「さっき部屋の様子を窺ってたら、テオ兄様が子守唄歌ってたの!」 
「ディー・・・貴方、それは盗み聞きっていうのよ・・・」
「いいじゃない。テオ兄様が部屋に入れてくれないのがいけないのよ。それでね、テオ兄様ってば子守唄が意外と上手かったのよ」

 それを聞いた公爵夫人は目を細め、口元を綻ばせて末娘の頭を撫でた。

「それはそうよ。テオはパットと貴方に子守唄をよく歌っていたもの。私達には聞かれないようにこっそり歌っていたようだったけれど、時々聞こえてきてたの」
「そうなの?! ということは、私の記憶にある子守唄ってテオ兄様が歌ってたの?!」
「そうねえ。私は苦手であまり歌わなかったからテオかリーンの可能性が高いわね」
「お父様も?!」

 そうよ、と笑顔で頷く母親の言葉でディートリントは考え込んだ。

 知っていたけれど、本当に私は家族からの愛情たっぷりに育てられてきたのね・・・。お義姉様とは大違いで、なんだか申し訳なくなってくるわ。私に何か出来ることはないかしら?

 そうだ、私が受けた愛情を今度は私からお義姉様に渡せばいいのよ。そういう大義名分なら、テオ兄様も文句を言わないでしょ。

「お母様! 厨房に行けばアイスクリームと果物があるわよね?!」
「あるわよ。だけどディー、食べ過ぎじゃない?」
「違うわよ、お義姉様に持っていって差し上げるの」
「シルフィアはさっき眠ったところだから、起きたら僕が持っていくよ」

 突然、背後から現れたテオドールが、ディートリントを制す。振り返った彼女は腰に両手を当て得意げに胸を反らせた。

「お義姉様にはテオ兄様以外の『家族』からの愛情もたくさん必要よ! 私は今まで皆からもらってきた愛情をお義姉様へ横流しするって決めたの。だから、これからも私は思いっきりお義姉様へ愛を叫ぶし、お見舞いも行くし、元気になったら一緒にお茶をしてデートだってしちゃうんだから。テオ兄様、止めても無駄よ」

 妹の勢いに目を丸くしたテオドールが噴き出した。

「ふはっ、横流しって。ディーの気持ちは分かった。熱も下がってきたし後でシルフィアを見舞ってあげて。だけどちょっとでも怖がらせたらつまみ出すからな。さて、ディーがデザートを持っていくなら僕はおかゆでも作ろうかな。彼女はそれでお腹いっぱいになるかもね」

「あ、テオ兄様ズルい。私も手伝う!」
「あら、それなら私も参加したいわ」
「お母様は鍋の見張り担当ね!」
「それはダメ。エミィが火傷したらどうするの。それにおかゆとデザートなら、既に料理長が何種類か作ってたよ?」
「リーン?! いつの間に帰ってきてたの?」
「ちょっと前に。これ、城下の街で一番美味しいゼリー。シルフィアに買ってきたのだけど、具合はどう?」





*************

ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。
これにて本編は終了です。あと一話、かんさつ日記があります。

長くなりそうなので、帰省編を分けることにしました。ということで次章もハーフェルト公爵家に滞在しています。
シルフィアが慣れてきたところで街でお買い物などお出掛けメインで楽しんでもらう予定です。

またしばらくお時間いただきますが、お待ちいただければ嬉しいです。
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