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第119話 暴力的なフェロモン
しおりを挟むこちらも、見張りの女性騎士の姿が見えるが、先ほどの陽動で混乱しているように見える。
「エマの部屋からは、生け垣だけが見えると言っていたな」
ルシアンは周囲を見渡して、眉をひそめた。
生け垣はあるが、それほど高さはない。
二階より上に部屋があれば、生け垣に邪魔されずとも庭園の様子が見えるはずだ。
(部屋が、一階にあるということか?)
貴族の住む建物で、主の部屋が一階にあるということは、まずない。
だが、その答えはすぐに分かった。
「ッ……!」
かすかに、甘い香りが漂ってくる。
アルファであるルシアンにしか感じ取れない、芳しい香りだ。
(発情期にしても、フェロモンが外に漏れるとは……)
ルシアンは思わず口元を覆った。
抑制剤を飲んでいないオメガは、発情期にひどく苦しむ。
せめて、ルシアンの渡した鎮静剤を飲んでいてくれたら、多少は楽になるはずだが……。
「閣下。離れに、わずかな明かりが見えます……使用人の住居でしょうか?」
ジュリアンが離れの建物に気づき、訝しげにつぶやく。彼はベータであるため、オメガの香りに気付かないのだ。
ルシアンは、今にも駆け出したい衝動を押し殺し、ジュリアンに命じた。
「私は離れへ向かう。お前は衛兵の注意を逸らせ」
「はっ」
「……館の中に、あの方の侍女が拘束されているかもしれない。もし見つけたら、ただちに救出を」
「侍女が、館に……ですか?」
琥珀の館は、聖樹のための住まいだ。聖樹の侍女が拘束されているなどと、普通は考えもしないだろう。
だが、レオナールの性格を考えれば、エマと侍女を引き離すことで、精神的に追い詰める可能性もあった。
(弱者をいたぶって喜ぶ、下劣な人間だからな)
「あの方と侍女以外は、すべて敵と思え」
ルシアンは低い声で吐き捨てた。
赤い瞳を怒りに染めて、離れを見据える。
「私が戻るまで、見張りを怠るな」
「かしこまりました、閣下」
ジュリアンは恭しく頭を垂れると、闇の中へと消えた。
しばらくして、煙幕玉から煙が上がるのを確認する。
最初はかすかだった白煙が、夜気に混じってゆっくりと広がり、やがて濃いもやとなって庭の一角を覆った。
焦げたような、乾いた草の匂いが風に乗って漂う。
「煙!?」
「火事か……?」
庭園側を見張っていた女性騎士が、驚きの声を上げた。
「まさか、食料庫が!?」
すぐさま、女性騎士が走り去っていく。
館と離れを繋ぐ通路を、別の女性騎士が本館へ駆けていくのも見えた。
(エマッ、いま行く!)
ルシアンは闇に紛れて、離れの庭から中へと侵入した。
生け垣を越えて庭へ入ると、すぐ目の前に小さな建物がある。
庭とも呼べぬほど狭い敷地は、生け垣に囲まれており、建物に近づくと、小さな窓と扉が見えた。
窓から、部屋のテーブルに置かれた燭台の灯りが見える。だが、小さな灯りでは、部屋の様子は分からない。
天井に近い小窓は開け放たれており、そこからフェロモンが漂ってくる。
「これは……っ」
間違いなく、愛しいエマの匂いだ。
少し嗅いだだけで、躰が熱くなる。
(発情期のオメガは、これほど強烈なのか)
アルファであれば必ず惹かれる、魅惑の香り。
ベータでさえ、その芳しい香りを無視することはできないだろう。
ルシアンは理性を失わないよう気を引き締めて、庭と部屋を繋ぐ小さな扉を押した。
施錠はされておらず、キィっと音を立てて、あっけなく開く。
ルシアンは布で口と鼻を覆ってから、部屋の中に足を踏み入れた。
すぐ側にあった燭台を手に持ち、様子を探ろうと掲げる。オレンジの灯りに照らされた室内を見て、ルシアンは息を呑んだ。
「これはッ!?」
カーテンは色を失い、壁紙はところどころ剥がれている。
古びた家具に、小さな机と背もたれが欠けた椅子。
まるで、何年も前に使われなくなった納屋を、そのまま部屋に仕立てたような有様だ。
(これが、エマの部屋だと!?)
ルシアンは怒りに体を震わせる。
だが、部屋中に満ちた芳しい香りが、ルシアンの意識を奪った。
(くッ……香りが強すぎるッ!)
むせるような濃密な香りは、理性を剥ぎ取り、本能を引きずり出すような、暴力的なフェロモンだった。
そこに、アルファを狂わす甘い声が響く。
「ぁっ……ぁぁんっ……んっ」
とっさに燭台を向けると、近くのベッドにエマが仰向けに横たわっていた。
「なッ……!?」
その姿を目にしたとたん、悲鳴を上げそうになった。
すんでのところで、グッと奥歯を噛みしめる。
エマは、裸でベッドに横たわっていた。
両の手足にそれぞれ枷が嵌められ、鎖がベッドの柵に繋がっている。手足は多少動かせるが、起き上がるには足りない長さだ。
当然、自らを慰めることもできない。
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