妹に婚約者も家名も奪われましたが私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました~
常陸之介寛浩📚️書籍・本能寺から始める
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第26話 妹は駒ではないと、初めて言う
リリアナは、その紙を見た瞬間、息の仕方を忘れた。
北翼の小さな証言室。
窓は細く、外には王宮の庭ではなく石造りの回廊が見える。部屋の中央には机があり、その上に数枚の書類が置かれていた。
王弟カイン。
エレノア。
女官長マルタ。
記録係のオスカー。
そして、リリアナ。
その場にいる者は少ない。
だが、リリアナにとっては、大裁定の間よりも息苦しかった。
目の前にあるのは、父グレゴールの書庫から見つかった相続案だった。
そこには、リリアナの名があった。
王太子妃候補としての婚資。
公爵家本家の維持。
分家との調整。
王太子府への影響力確保。
自分の名前が、まるで宝石箱や土地台帳と同じように並べられている。
そして、姉の名前もあった。
――エレノアについては、王太子妃候補解消後、修道院付属慈善院への寄進名目で整理。
リリアナは、その一文から目を離せなかった。
何度読んでも、意味が変わらない。
整理。
姉を、整理する。
父が。
父が、姉を。
「……なに、これ」
声が震えた。
誰もすぐには答えなかった。
エレノアは、リリアナの正面に座っている。顔色はいつもより少し白い。けれど姿勢はまっすぐで、机の上の書類から逃げる様子はない。
姉は、もう読んだのだ。
この文章を。
自分より先に。
そして、一人で受け止めた。
そう思った途端、リリアナの胸の奥が変なふうに痛んだ。
「お父様が……お姉様を、慈善院へ送ろうとしていたの?」
リリアナは、ようやく言葉にした。
エレノアは静かに答える。
「その案が残っていたわ」
「案って、何よ。だって、お姉様は……お姉様は公爵家の長女でしょう? 王太子殿下の婚約者だったでしょう? 王妃様に信頼されていたでしょう?」
「それでも、父にとって不要になれば、整理対象だったのでしょう」
その声は平らだった。
平らすぎて、リリアナは怖くなった。
怒鳴ってほしかった。
泣いてほしかった。
父はひどい、と言ってほしかった。
そうすれば、自分も一緒に泣けたかもしれない。
でもエレノアは泣かない。
怒鳴らない。
ただ、そこにある記録を見ている。
「私……知らなかった」
リリアナは呟いた。
「本当に、知らなかったの。お姉様がそんなふうにされるなんて。私、王太子妃候補になるって言われて……お姉様は少し休めるのだと思っていたの」
自分で言って、言葉の薄さに気づいた。
少し休める。
そんなはずがない。
婚約者を奪われ、王宮の机を奪われ、家の中で立場を失った姉が、どうして「休める」はずがあるのか。
それでもリリアナは、そう思いたかった。
そう思えば、自分が奪ったものの重さを見なくて済んだからだ。
「リリアナ」
エレノアが名前を呼んだ。
それだけで、リリアナは肩を揺らした。
「今、あなたにこれを見せているのは、私がどれだけ傷ついたかを分からせるためではないわ」
「じゃあ、どうして」
「あなたも、この案の中で駒にされているからよ」
リリアナは、書類へ視線を落とした。
王太子妃候補。
婚資。
公爵家本家維持。
王太子府への影響力。
そこには、リリアナの気持ちなど一行もない。
ユリウスを慕っていたことも。
姉に勝ちたいと思っていたことも。
王太子妃になれば皆に認めてもらえると信じていたことも。
何もない。
ただ、使い道だけが書いてある。
「私も……整理されるものだったの?」
リリアナの声は小さかった。
「整理ではなく、配置でしょうね」
エレノアは答えた。
「王太子殿下の隣に置く。公爵家の力を王宮に残す。分家との相続争いに利用する。そのための配置」
配置。
その言葉は、整理よりも少し柔らかく聞こえる。
けれど、人に向ける言葉ではないことに変わりはなかった。
リリアナは唇を噛んだ。
父は、自分を愛していたのだと思っていた。
母も、自分を可愛いから守ってくれたのだと思っていた。
もちろん、それが全部嘘だったとは思いたくない。
父の手が髪を撫でてくれたこともあった。
母が熱の夜に隣で眠ってくれたこともあった。
でも、愛していることと、利用しないことは同じではないのかもしれない。
その考えが、リリアナには苦しかった。
「私は、お父様に愛されていたの?」
思わずそう尋ねていた。
エレノアはすぐには答えなかった。
その沈黙が、むしろ誠実に感じられた。
「私には、父の心のすべては分からないわ」
「お姉様なら分かるでしょう」
「分からない」
きっぱりと言われた。
リリアナは目を上げる。
エレノアは、少しだけ疲れた顔をしていた。
「私もずっと、父が私をどう見ているのか分からなかった。優秀な娘として誇っているのか、使いやすい道具として見ているのか、家の面目のための飾りなのか。たぶん、全部が混ざっていたのだと思う」
「全部……」
「人の気持ちは、帳簿のように一つの欄には収まらないわ。愛していても、利用することはある。可愛がっていても、都合よく黙らせることはある」
その言葉は、リリアナの胸に重く落ちた。
愛しているなら、利用しない。
可愛がっているなら、守ってくれる。
そう思っていた。
けれど、現実はもっと汚い。
父はリリアナを可愛がっていたかもしれない。
それでも、王太子の隣に置く駒にした。
母はリリアナを抱きしめてくれたかもしれない。
それでも、首飾りの出所を見なかった。
「私、何も知らなかった」
リリアナは言った。
「でも、知らないことを、少し安心していたのかもしれない」
マルタが静かにリリアナを見る。
カインは何も言わない。
オスカーの筆だけが、控えめに走っている。
リリアナは、その音を聞きながら続けた。
「知らなければ、可愛い娘でいられる。知らなければ、お父様とお母様を疑わなくて済む。知らなければ、お姉様から奪ったことも、仕方なかったって思える」
声が震えた。
だが、泣き崩れなかった。
「でも、もう無理なのね」
エレノアは、少しだけ目を伏せた。
「ええ」
短い返事だった。
優しくはない。
けれど、嘘はなかった。
「リリアナ様」
カインが口を開いた。
リリアナは、はっとして背筋を伸ばす。
「あなたには、今日の裁定会議で証言してもらう」
リリアナの顔から血の気が引いた。
「裁定会議で……?」
「オルガ・ベルナール夫人の聴取が行われる。慈善衣料会、偽女官、サルヴィ商会、ダリウス・モーン、そしてあなたへの接触についてだ」
「私……人前で話すのですか」
「そうだ」
「無理です」
反射的にそう言っていた。
昔からそうだった。
怖いことがあると、まず「無理」と言う。
すると母が「無理しなくていいのよ」と言ってくれた。
父が代わりに相手を叱ってくれた。
姉が静かに処理してくれた。
でも、今は誰もすぐには助けてくれなかった。
エレノアも、カインも、マルタも、ただリリアナを見ている。
リリアナは震えた。
「だって、私、上手に話せないもの。聞かれたら間違えるかもしれない。泣いてしまうかもしれない。オルガ様は、きっと私よりずっと上手に話すわ。私が馬鹿みたいに見える」
カインが言った。
「上手に話す必要はない」
「でも」
「覚えていることを、覚えている通りに話せ」
「それが難しいのです」
リリアナは思わず強く言った。
「私は、ずっと人にどう見られるかばかり考えてきました。可愛く見えるか、優しく見えるか、可哀想に見えるか。だから、本当のことをそのまま話すのが怖いのです」
言ってから、自分で驚いた。
こんなことを人前で言うつもりはなかった。
けれど、口から出てしまった。
エレノアは、責めなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「怖いなら、怖いと言っていいわ」
エレノアが言った。
リリアナは姉を見る。
「ただし、怖いから話さない、は駄目」
「……お姉様は、やっぱり厳しい」
「そうね」
「でも、少し分かるようになりました」
「何が?」
「お姉様の厳しさは、私を嫌いだからだけじゃなかったんだって」
エレノアは、ほんのわずかに表情を変えた。
「嫌いだからだけ、ということは、嫌いではあるのね」
リリアナは、はっとして口元を押さえた。
「あ、違……違わないかもしれないけど、今そういう意味で言ったのではなくて」
マルタが小さく咳をした。
笑いを堪えたのかもしれない。
カインの表情は変わらない。
けれど、部屋の空気が一瞬だけ和らいだ。
リリアナは真っ赤になりながら俯いた。
「ごめんなさい」
「いいわ」
エレノアは静かに答えた。
「嫌いな気持ちが少しあるのは、たぶんお互い様だから」
リリアナは顔を上げた。
胸が痛かった。
でも、それは嘘で慰められるよりずっとましだった。
「でも」
エレノアは続けた。
「嫌いな気持ちがあることと、あなたをまた駒にさせていいことは別よ」
リリアナの目に、涙が浮かんだ。
今度の涙は、少し違った。
許されたからではない。
可哀想だと言われたからでもない。
姉が、自分を好きではない部分を抱えたまま、それでも守るべき証言者として見てくれている。
それが苦しくて、ありがたくて、どう受け取ればいいか分からなかった。
「私、駒じゃないって言いたい」
リリアナは、ぽつりと言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
父へか。
母へか。
オルガへか。
ダリウスへか。
姉へか。
それとも、自分自身へか。
「ずっと、お人形みたいにしていれば愛されると思っていました。綺麗なドレスを着て、泣く時も可愛く泣いて、殿下に選ばれたら、それで私はお姉様に勝てるんだって。でも、違った」
リリアナは書類を見た。
相続案。
父の文字。
姉の整理。
自分の配置。
「私は、駒じゃない」
声は小さかった。
けれど、今度ははっきりしていた。
「今日、言います。上手じゃなくても、泣いても、言います。私は駒じゃないって」
エレノアは、しばらく妹を見つめた。
それから、ゆっくり頷いた。
「その言葉は、記録に残す価値があるわ」
リリアナは少しだけ笑いそうになり、でもすぐ泣きそうになった。
「お姉様は、本当に何でも記録にするのね」
「必要だから」
「うん。今は、少しだけ分かる」
その返事を聞いて、エレノアの目元がほんのわずかに和らいだ。
ほんの一瞬。
けれど、リリアナはそれを見逃さなかった。
午後、大裁定の間には再び重い空気が満ちていた。
オルガ・ベルナール夫人は、逃げなかった。
王弟府の命令に従い、静かに王宮へ現れた。
灰青のドレス。
真珠一粒の髪飾り。
病弱な夫を支える分家夫人にふさわしい、控えめな装い。
彼女は、国王と王弟へ深く礼を取り、顔を上げた時にはいつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
声は柔らかい。
大裁定の間にいる何人かの貴族が、彼女へ同情めいた視線を向けている。
噂はすでに流れ始めていた。
王弟が分家夫人を疑っている。
エレノアが自分を追放しようとした一族への怒りで、分家にまで手を伸ばしている。
オルガ夫人は慈善活動に熱心なだけなのに、サルヴィ商会の罪を押しつけられている。
物語は、証拠より早く走る。
エレノアはそれを感じた。
だからこそ、今日の証言が必要だった。
オルガは、証拠を突きつけられても微笑むだろう。
なら、その微笑みが誰をどう動かしてきたのか、人の言葉で示さなければならない。
カインが、まず祈りの家で保護されたミラ・ハーディの証言を読み上げさせた。
ミラ本人は別室にいる。まだ衰弱が激しく、大裁定の間へ出ることは難しい。
証言には、オルガの名があった。
王宮女官服。
東翼執務室への侵入。
リリアナへの偽署名誘導。
ダリウスとの連絡。
祈りの家での監禁。
オルガは、微笑みをわずかに悲しげなものへ変えただけだった。
「ミラは、気の毒な女性です。生活に困って、判断を誤ったのでしょう。私の名を出せば、少しでも罪が軽くなると思ったのかもしれません」
予想通りだった。
カインは次に、サルヴィ商会主アルバンの証言を示した。
オルガは、また同じように言った。
「商人は保身のためなら、いくらでも名を売りますわ」
慈善衣料会の保管庫から見つかった女官服。
オルガ推薦のミラ・ハーディ。
架空配布先。
祈りの家の地下書類。
署名入り書簡。
それでも、彼女は崩れなかった。
「署名は似せられたものかもしれません。女官服は保管庫に寄付されたもの。架空配布先については、事務係の管理不足でしょう。祈りの家に私がいた証拠はございません」
ひとつひとつ、逃げ道を作る。
完全に否定せず、別の可能性を出す。
同情を混ぜる。
責任を散らす。
エレノアは、そのやり口を静かに見ていた。
そして、リリアナの番が来た。
「リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢」
カインに呼ばれ、リリアナは立ち上がった。
膝が震えているのが、自分でも分かった。
大裁定の間の視線が、一斉に集まる。
ユリウスも見ている。
エレノアも。
オルガも。
父はいない。
母もいない。
今は、自分一人で立たなければならない。
リリアナは、何度も深呼吸した。
うまく話そうとしてはいけない。
可愛く泣こうとしてはいけない。
覚えていることを、覚えている通りに。
「私は……リリアナ・ヴァレンシュタインです」
声は震えた。
少し笑う者がいるかと思ったが、誰も笑わなかった。
「私は、王太子殿下に選ばれた時、自分が特別なのだと思いました。お姉様より、私の方が人の心が分かるのだと。お姉様は冷たくて、私は優しいのだと……そう思っていました」
エレノアは表情を変えなかった。
リリアナは、続けた。
「でも、私は何も知りませんでした。王妃基金のことも、王太子妃候補の仕事も、書類に署名する責任も。知らなかったのに、知ろうともしませんでした」
大裁定の間は静まり返っている。
オルガは、微笑みを浮かべたままだった。
しかし、その目はリリアナをじっと見ていた。
誘導するように。
迷わせるように。
リリアナは、一瞬だけ言葉に詰まった。
その時、エレノアの声が聞こえた。
「リリアナ」
小さな声だった。
けれど、届いた。
「記録のために、見たことだけを」
リリアナは頷いた。
「はい」
そうだ。
見たことだけ。
覚えていることだけ。
「私は、東翼執務室で女官服の女性に会いました。名前は分かりません。優しい声で、私にも役に立てることがあると言いました。お姉様も最初は署名の練習から始めたのだと……そう言われました」
オルガの微笑みが、わずかに動いた。
「その女性は、私が分からないと言うと、怒りませんでした。むしろ、分からないままでも大丈夫だと。王太子妃になる方は、細かなことを全部分かる必要はないと。そう言いました」
リリアナは、ハンカチを握りしめる。
「私は、その言葉を聞いて安心しました。お姉様みたいにできなくてもいいのだと思いました。でも、それは違いました。私は、分からないまま署名しようとしました。お姉様の名前に似せて」
声が震える。
涙が浮かぶ。
でも、止まらない。
「それは、私の責任です」
大裁定の間に、静かな衝撃が走った。
リリアナが、自分で責任と言った。
誰かのせいだけにせず。
知らなかっただけで済ませず。
その言葉を、ユリウスは目を伏せて聞いていた。
オルガはまだ微笑んでいる。
だが、その微笑みは少し硬い。
リリアナは、彼女へ顔を向けた。
「オルガ様」
直接呼ばれ、オルガは優しく首を傾げた。
「何でしょう、リリアナ様」
その声は、相変わらず柔らかかった。
リリアナは、その声を聞いて思った。
昔なら、この声を信じたかもしれない。
この人は優しい人だと思ったかもしれない。
でも今は違う。
「私は、あなたに何度か茶会で声をかけられました」
「ええ。ご挨拶くらいは」
「その時、あなたは言いました。エレノア様は強すぎるから、殿下は安らげないのだと。王妃に必要なのは正しさより柔らかさだと」
オルガは微笑む。
「一般論として、そう申し上げたかもしれません」
「私は、それを聞いて嬉しかった」
リリアナは正直に言った。
「お姉様に勝てる理由をもらった気がしたから」
エレノアは目を伏せた。
リリアナは続ける。
「でも、あなたは私を見ていたのではありません。私の嫉妬を見ていたのです。私の弱さを見て、そこに言葉を置いた」
オルガの目が、初めて少し冷たくなった。
「リリアナ様。傷ついていらっしゃるのね。誰かにそう言うように言われたのでは?」
その一言で、場の空気が揺れた。
いつものやり方だ。
リリアナの言葉を、リリアナ自身のものではないと言う。
誰かに言わされたのだと。
また、駒に戻そうとしている。
リリアナの手が震えた。
泣きそうになる。
だが、今度は泣かなかった。
「違います」
小さく、しかしはっきりと言った。
「これは、私の言葉です」
オルガの微笑みが止まった。
リリアナは、震える足で立ち続けた。
「私は、馬鹿でした。知らないことを知らないままにして、可哀想な妹でいれば誰かが守ってくれると思っていました。だから、あなたの言葉も、ダリウス様の言葉も、都合よく信じました」
一度、息を吸う。
「でも、私は駒ではありません」
その言葉は、大裁定の間にまっすぐ響いた。
「お父様の駒でも、あなたの駒でも、殿下の隣に置かれるお人形でもありません。私は、自分がしたことを話します。知らなかったことも、知ろうとしなかったことも、全部」
涙が頬を伝った。
それでも、声は途切れなかった。
「私は駒ではありません。だから、もう誰かの言葉で泣きません」
沈黙。
深い沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、エレノアはリリアナを見ていた。
胸の奥に、いくつもの感情が押し寄せる。
怒りは消えない。
奪われたものは戻らない。
許しもまだ遠い。
それでも、妹が初めて自分の言葉で立ったことだけは、確かだった。
オルガは、ゆっくりと口を開いた。
「立派ですわ、リリアナ様」
声は柔らかい。
だが、ほんのわずかに硬かった。
「けれど、あなたはまだ子供です。自分が何を言っているか、本当に分かって」
「分かっていないこともあります」
リリアナは遮った。
初めて、オルガの言葉を遮った。
「でも、分からないまま、あなたに続きを決められるのは嫌です」
その一言で、オルガの微笑みから明らかに温度が消えた。
カインが静かに言った。
「記録したな」
「はい」
オスカーが答える。
「リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢の証言、記録済みです」
カインはオルガへ視線を向けた。
「オルガ・ベルナール夫人。あなたを、王妃基金不正、慈善衣料会を利用した偽署名誘導、王宮女官服不正使用、ダリウス・モーン監禁および証拠隠滅未遂の疑いで拘束する」
大裁定の間がざわついた。
オルガは一瞬、目を伏せた。
そして、また微笑んだ。
「お見事ですわ」
その言葉が誰へ向けられたものか、分からなかった。
カインか。
エレノアか。
それとも、自分の言葉で立ったリリアナか。
近衛がオルガのそばへ進む。
彼女は抵抗しなかった。
ただ、連れていかれる直前、エレノアへ視線を向けた。
「エレノア様。あなたは人を駒にしないと仰る。でも、裁く側に立つ者は、いつか必ず誰かを動かしますわ。その時、自分だけは違うと思わないことです」
エレノアは、まっすぐ彼女を見た。
「だから記録します」
オルガは、薄く笑った。
「本当に、王妃陛下そっくり」
その言葉を最後に、彼女は近衛に連れられて大裁定の間を出ていった。
扉が閉まる。
ざわめきが少しずつ収まる。
リリアナは、その場に立ったまま動けなかった。
力が抜けたように膝が揺れる。
ユリウスが反射的に動きかけたが、途中で止まった。
代わりに、マルタが近づき、そっと椅子を引いた。
「お座りください」
「……はい」
リリアナは椅子に腰を下ろした。
涙はまだ止まらない。
だが、泣き方が違った。
許してほしい涙ではない。
自分の言葉で立った後の、怖さと疲れの涙だった。
エレノアは、少し離れた場所から妹を見ていた。
リリアナが顔を上げる。
二人の目が合った。
リリアナは、何かを言おうとして、やめた。
謝罪ではない。
甘えでもない。
ただ、小さく頭を下げた。
エレノアも、ほんのわずかに頷いた。
姉妹の間にあるものは、まだ壊れたままだ。
でも、瓦礫の下から初めて、何かを拾い上げた気がした。
それが許しなのか、理解なのか、ただの始まりなのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
リリアナ・ヴァレンシュタインは、その日初めて、自分は駒ではないと言った。
そして、その言葉は正式な記録に残った。
北翼の小さな証言室。
窓は細く、外には王宮の庭ではなく石造りの回廊が見える。部屋の中央には机があり、その上に数枚の書類が置かれていた。
王弟カイン。
エレノア。
女官長マルタ。
記録係のオスカー。
そして、リリアナ。
その場にいる者は少ない。
だが、リリアナにとっては、大裁定の間よりも息苦しかった。
目の前にあるのは、父グレゴールの書庫から見つかった相続案だった。
そこには、リリアナの名があった。
王太子妃候補としての婚資。
公爵家本家の維持。
分家との調整。
王太子府への影響力確保。
自分の名前が、まるで宝石箱や土地台帳と同じように並べられている。
そして、姉の名前もあった。
――エレノアについては、王太子妃候補解消後、修道院付属慈善院への寄進名目で整理。
リリアナは、その一文から目を離せなかった。
何度読んでも、意味が変わらない。
整理。
姉を、整理する。
父が。
父が、姉を。
「……なに、これ」
声が震えた。
誰もすぐには答えなかった。
エレノアは、リリアナの正面に座っている。顔色はいつもより少し白い。けれど姿勢はまっすぐで、机の上の書類から逃げる様子はない。
姉は、もう読んだのだ。
この文章を。
自分より先に。
そして、一人で受け止めた。
そう思った途端、リリアナの胸の奥が変なふうに痛んだ。
「お父様が……お姉様を、慈善院へ送ろうとしていたの?」
リリアナは、ようやく言葉にした。
エレノアは静かに答える。
「その案が残っていたわ」
「案って、何よ。だって、お姉様は……お姉様は公爵家の長女でしょう? 王太子殿下の婚約者だったでしょう? 王妃様に信頼されていたでしょう?」
「それでも、父にとって不要になれば、整理対象だったのでしょう」
その声は平らだった。
平らすぎて、リリアナは怖くなった。
怒鳴ってほしかった。
泣いてほしかった。
父はひどい、と言ってほしかった。
そうすれば、自分も一緒に泣けたかもしれない。
でもエレノアは泣かない。
怒鳴らない。
ただ、そこにある記録を見ている。
「私……知らなかった」
リリアナは呟いた。
「本当に、知らなかったの。お姉様がそんなふうにされるなんて。私、王太子妃候補になるって言われて……お姉様は少し休めるのだと思っていたの」
自分で言って、言葉の薄さに気づいた。
少し休める。
そんなはずがない。
婚約者を奪われ、王宮の机を奪われ、家の中で立場を失った姉が、どうして「休める」はずがあるのか。
それでもリリアナは、そう思いたかった。
そう思えば、自分が奪ったものの重さを見なくて済んだからだ。
「リリアナ」
エレノアが名前を呼んだ。
それだけで、リリアナは肩を揺らした。
「今、あなたにこれを見せているのは、私がどれだけ傷ついたかを分からせるためではないわ」
「じゃあ、どうして」
「あなたも、この案の中で駒にされているからよ」
リリアナは、書類へ視線を落とした。
王太子妃候補。
婚資。
公爵家本家維持。
王太子府への影響力。
そこには、リリアナの気持ちなど一行もない。
ユリウスを慕っていたことも。
姉に勝ちたいと思っていたことも。
王太子妃になれば皆に認めてもらえると信じていたことも。
何もない。
ただ、使い道だけが書いてある。
「私も……整理されるものだったの?」
リリアナの声は小さかった。
「整理ではなく、配置でしょうね」
エレノアは答えた。
「王太子殿下の隣に置く。公爵家の力を王宮に残す。分家との相続争いに利用する。そのための配置」
配置。
その言葉は、整理よりも少し柔らかく聞こえる。
けれど、人に向ける言葉ではないことに変わりはなかった。
リリアナは唇を噛んだ。
父は、自分を愛していたのだと思っていた。
母も、自分を可愛いから守ってくれたのだと思っていた。
もちろん、それが全部嘘だったとは思いたくない。
父の手が髪を撫でてくれたこともあった。
母が熱の夜に隣で眠ってくれたこともあった。
でも、愛していることと、利用しないことは同じではないのかもしれない。
その考えが、リリアナには苦しかった。
「私は、お父様に愛されていたの?」
思わずそう尋ねていた。
エレノアはすぐには答えなかった。
その沈黙が、むしろ誠実に感じられた。
「私には、父の心のすべては分からないわ」
「お姉様なら分かるでしょう」
「分からない」
きっぱりと言われた。
リリアナは目を上げる。
エレノアは、少しだけ疲れた顔をしていた。
「私もずっと、父が私をどう見ているのか分からなかった。優秀な娘として誇っているのか、使いやすい道具として見ているのか、家の面目のための飾りなのか。たぶん、全部が混ざっていたのだと思う」
「全部……」
「人の気持ちは、帳簿のように一つの欄には収まらないわ。愛していても、利用することはある。可愛がっていても、都合よく黙らせることはある」
その言葉は、リリアナの胸に重く落ちた。
愛しているなら、利用しない。
可愛がっているなら、守ってくれる。
そう思っていた。
けれど、現実はもっと汚い。
父はリリアナを可愛がっていたかもしれない。
それでも、王太子の隣に置く駒にした。
母はリリアナを抱きしめてくれたかもしれない。
それでも、首飾りの出所を見なかった。
「私、何も知らなかった」
リリアナは言った。
「でも、知らないことを、少し安心していたのかもしれない」
マルタが静かにリリアナを見る。
カインは何も言わない。
オスカーの筆だけが、控えめに走っている。
リリアナは、その音を聞きながら続けた。
「知らなければ、可愛い娘でいられる。知らなければ、お父様とお母様を疑わなくて済む。知らなければ、お姉様から奪ったことも、仕方なかったって思える」
声が震えた。
だが、泣き崩れなかった。
「でも、もう無理なのね」
エレノアは、少しだけ目を伏せた。
「ええ」
短い返事だった。
優しくはない。
けれど、嘘はなかった。
「リリアナ様」
カインが口を開いた。
リリアナは、はっとして背筋を伸ばす。
「あなたには、今日の裁定会議で証言してもらう」
リリアナの顔から血の気が引いた。
「裁定会議で……?」
「オルガ・ベルナール夫人の聴取が行われる。慈善衣料会、偽女官、サルヴィ商会、ダリウス・モーン、そしてあなたへの接触についてだ」
「私……人前で話すのですか」
「そうだ」
「無理です」
反射的にそう言っていた。
昔からそうだった。
怖いことがあると、まず「無理」と言う。
すると母が「無理しなくていいのよ」と言ってくれた。
父が代わりに相手を叱ってくれた。
姉が静かに処理してくれた。
でも、今は誰もすぐには助けてくれなかった。
エレノアも、カインも、マルタも、ただリリアナを見ている。
リリアナは震えた。
「だって、私、上手に話せないもの。聞かれたら間違えるかもしれない。泣いてしまうかもしれない。オルガ様は、きっと私よりずっと上手に話すわ。私が馬鹿みたいに見える」
カインが言った。
「上手に話す必要はない」
「でも」
「覚えていることを、覚えている通りに話せ」
「それが難しいのです」
リリアナは思わず強く言った。
「私は、ずっと人にどう見られるかばかり考えてきました。可愛く見えるか、優しく見えるか、可哀想に見えるか。だから、本当のことをそのまま話すのが怖いのです」
言ってから、自分で驚いた。
こんなことを人前で言うつもりはなかった。
けれど、口から出てしまった。
エレノアは、責めなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「怖いなら、怖いと言っていいわ」
エレノアが言った。
リリアナは姉を見る。
「ただし、怖いから話さない、は駄目」
「……お姉様は、やっぱり厳しい」
「そうね」
「でも、少し分かるようになりました」
「何が?」
「お姉様の厳しさは、私を嫌いだからだけじゃなかったんだって」
エレノアは、ほんのわずかに表情を変えた。
「嫌いだからだけ、ということは、嫌いではあるのね」
リリアナは、はっとして口元を押さえた。
「あ、違……違わないかもしれないけど、今そういう意味で言ったのではなくて」
マルタが小さく咳をした。
笑いを堪えたのかもしれない。
カインの表情は変わらない。
けれど、部屋の空気が一瞬だけ和らいだ。
リリアナは真っ赤になりながら俯いた。
「ごめんなさい」
「いいわ」
エレノアは静かに答えた。
「嫌いな気持ちが少しあるのは、たぶんお互い様だから」
リリアナは顔を上げた。
胸が痛かった。
でも、それは嘘で慰められるよりずっとましだった。
「でも」
エレノアは続けた。
「嫌いな気持ちがあることと、あなたをまた駒にさせていいことは別よ」
リリアナの目に、涙が浮かんだ。
今度の涙は、少し違った。
許されたからではない。
可哀想だと言われたからでもない。
姉が、自分を好きではない部分を抱えたまま、それでも守るべき証言者として見てくれている。
それが苦しくて、ありがたくて、どう受け取ればいいか分からなかった。
「私、駒じゃないって言いたい」
リリアナは、ぽつりと言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
父へか。
母へか。
オルガへか。
ダリウスへか。
姉へか。
それとも、自分自身へか。
「ずっと、お人形みたいにしていれば愛されると思っていました。綺麗なドレスを着て、泣く時も可愛く泣いて、殿下に選ばれたら、それで私はお姉様に勝てるんだって。でも、違った」
リリアナは書類を見た。
相続案。
父の文字。
姉の整理。
自分の配置。
「私は、駒じゃない」
声は小さかった。
けれど、今度ははっきりしていた。
「今日、言います。上手じゃなくても、泣いても、言います。私は駒じゃないって」
エレノアは、しばらく妹を見つめた。
それから、ゆっくり頷いた。
「その言葉は、記録に残す価値があるわ」
リリアナは少しだけ笑いそうになり、でもすぐ泣きそうになった。
「お姉様は、本当に何でも記録にするのね」
「必要だから」
「うん。今は、少しだけ分かる」
その返事を聞いて、エレノアの目元がほんのわずかに和らいだ。
ほんの一瞬。
けれど、リリアナはそれを見逃さなかった。
午後、大裁定の間には再び重い空気が満ちていた。
オルガ・ベルナール夫人は、逃げなかった。
王弟府の命令に従い、静かに王宮へ現れた。
灰青のドレス。
真珠一粒の髪飾り。
病弱な夫を支える分家夫人にふさわしい、控えめな装い。
彼女は、国王と王弟へ深く礼を取り、顔を上げた時にはいつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
声は柔らかい。
大裁定の間にいる何人かの貴族が、彼女へ同情めいた視線を向けている。
噂はすでに流れ始めていた。
王弟が分家夫人を疑っている。
エレノアが自分を追放しようとした一族への怒りで、分家にまで手を伸ばしている。
オルガ夫人は慈善活動に熱心なだけなのに、サルヴィ商会の罪を押しつけられている。
物語は、証拠より早く走る。
エレノアはそれを感じた。
だからこそ、今日の証言が必要だった。
オルガは、証拠を突きつけられても微笑むだろう。
なら、その微笑みが誰をどう動かしてきたのか、人の言葉で示さなければならない。
カインが、まず祈りの家で保護されたミラ・ハーディの証言を読み上げさせた。
ミラ本人は別室にいる。まだ衰弱が激しく、大裁定の間へ出ることは難しい。
証言には、オルガの名があった。
王宮女官服。
東翼執務室への侵入。
リリアナへの偽署名誘導。
ダリウスとの連絡。
祈りの家での監禁。
オルガは、微笑みをわずかに悲しげなものへ変えただけだった。
「ミラは、気の毒な女性です。生活に困って、判断を誤ったのでしょう。私の名を出せば、少しでも罪が軽くなると思ったのかもしれません」
予想通りだった。
カインは次に、サルヴィ商会主アルバンの証言を示した。
オルガは、また同じように言った。
「商人は保身のためなら、いくらでも名を売りますわ」
慈善衣料会の保管庫から見つかった女官服。
オルガ推薦のミラ・ハーディ。
架空配布先。
祈りの家の地下書類。
署名入り書簡。
それでも、彼女は崩れなかった。
「署名は似せられたものかもしれません。女官服は保管庫に寄付されたもの。架空配布先については、事務係の管理不足でしょう。祈りの家に私がいた証拠はございません」
ひとつひとつ、逃げ道を作る。
完全に否定せず、別の可能性を出す。
同情を混ぜる。
責任を散らす。
エレノアは、そのやり口を静かに見ていた。
そして、リリアナの番が来た。
「リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢」
カインに呼ばれ、リリアナは立ち上がった。
膝が震えているのが、自分でも分かった。
大裁定の間の視線が、一斉に集まる。
ユリウスも見ている。
エレノアも。
オルガも。
父はいない。
母もいない。
今は、自分一人で立たなければならない。
リリアナは、何度も深呼吸した。
うまく話そうとしてはいけない。
可愛く泣こうとしてはいけない。
覚えていることを、覚えている通りに。
「私は……リリアナ・ヴァレンシュタインです」
声は震えた。
少し笑う者がいるかと思ったが、誰も笑わなかった。
「私は、王太子殿下に選ばれた時、自分が特別なのだと思いました。お姉様より、私の方が人の心が分かるのだと。お姉様は冷たくて、私は優しいのだと……そう思っていました」
エレノアは表情を変えなかった。
リリアナは、続けた。
「でも、私は何も知りませんでした。王妃基金のことも、王太子妃候補の仕事も、書類に署名する責任も。知らなかったのに、知ろうともしませんでした」
大裁定の間は静まり返っている。
オルガは、微笑みを浮かべたままだった。
しかし、その目はリリアナをじっと見ていた。
誘導するように。
迷わせるように。
リリアナは、一瞬だけ言葉に詰まった。
その時、エレノアの声が聞こえた。
「リリアナ」
小さな声だった。
けれど、届いた。
「記録のために、見たことだけを」
リリアナは頷いた。
「はい」
そうだ。
見たことだけ。
覚えていることだけ。
「私は、東翼執務室で女官服の女性に会いました。名前は分かりません。優しい声で、私にも役に立てることがあると言いました。お姉様も最初は署名の練習から始めたのだと……そう言われました」
オルガの微笑みが、わずかに動いた。
「その女性は、私が分からないと言うと、怒りませんでした。むしろ、分からないままでも大丈夫だと。王太子妃になる方は、細かなことを全部分かる必要はないと。そう言いました」
リリアナは、ハンカチを握りしめる。
「私は、その言葉を聞いて安心しました。お姉様みたいにできなくてもいいのだと思いました。でも、それは違いました。私は、分からないまま署名しようとしました。お姉様の名前に似せて」
声が震える。
涙が浮かぶ。
でも、止まらない。
「それは、私の責任です」
大裁定の間に、静かな衝撃が走った。
リリアナが、自分で責任と言った。
誰かのせいだけにせず。
知らなかっただけで済ませず。
その言葉を、ユリウスは目を伏せて聞いていた。
オルガはまだ微笑んでいる。
だが、その微笑みは少し硬い。
リリアナは、彼女へ顔を向けた。
「オルガ様」
直接呼ばれ、オルガは優しく首を傾げた。
「何でしょう、リリアナ様」
その声は、相変わらず柔らかかった。
リリアナは、その声を聞いて思った。
昔なら、この声を信じたかもしれない。
この人は優しい人だと思ったかもしれない。
でも今は違う。
「私は、あなたに何度か茶会で声をかけられました」
「ええ。ご挨拶くらいは」
「その時、あなたは言いました。エレノア様は強すぎるから、殿下は安らげないのだと。王妃に必要なのは正しさより柔らかさだと」
オルガは微笑む。
「一般論として、そう申し上げたかもしれません」
「私は、それを聞いて嬉しかった」
リリアナは正直に言った。
「お姉様に勝てる理由をもらった気がしたから」
エレノアは目を伏せた。
リリアナは続ける。
「でも、あなたは私を見ていたのではありません。私の嫉妬を見ていたのです。私の弱さを見て、そこに言葉を置いた」
オルガの目が、初めて少し冷たくなった。
「リリアナ様。傷ついていらっしゃるのね。誰かにそう言うように言われたのでは?」
その一言で、場の空気が揺れた。
いつものやり方だ。
リリアナの言葉を、リリアナ自身のものではないと言う。
誰かに言わされたのだと。
また、駒に戻そうとしている。
リリアナの手が震えた。
泣きそうになる。
だが、今度は泣かなかった。
「違います」
小さく、しかしはっきりと言った。
「これは、私の言葉です」
オルガの微笑みが止まった。
リリアナは、震える足で立ち続けた。
「私は、馬鹿でした。知らないことを知らないままにして、可哀想な妹でいれば誰かが守ってくれると思っていました。だから、あなたの言葉も、ダリウス様の言葉も、都合よく信じました」
一度、息を吸う。
「でも、私は駒ではありません」
その言葉は、大裁定の間にまっすぐ響いた。
「お父様の駒でも、あなたの駒でも、殿下の隣に置かれるお人形でもありません。私は、自分がしたことを話します。知らなかったことも、知ろうとしなかったことも、全部」
涙が頬を伝った。
それでも、声は途切れなかった。
「私は駒ではありません。だから、もう誰かの言葉で泣きません」
沈黙。
深い沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、エレノアはリリアナを見ていた。
胸の奥に、いくつもの感情が押し寄せる。
怒りは消えない。
奪われたものは戻らない。
許しもまだ遠い。
それでも、妹が初めて自分の言葉で立ったことだけは、確かだった。
オルガは、ゆっくりと口を開いた。
「立派ですわ、リリアナ様」
声は柔らかい。
だが、ほんのわずかに硬かった。
「けれど、あなたはまだ子供です。自分が何を言っているか、本当に分かって」
「分かっていないこともあります」
リリアナは遮った。
初めて、オルガの言葉を遮った。
「でも、分からないまま、あなたに続きを決められるのは嫌です」
その一言で、オルガの微笑みから明らかに温度が消えた。
カインが静かに言った。
「記録したな」
「はい」
オスカーが答える。
「リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢の証言、記録済みです」
カインはオルガへ視線を向けた。
「オルガ・ベルナール夫人。あなたを、王妃基金不正、慈善衣料会を利用した偽署名誘導、王宮女官服不正使用、ダリウス・モーン監禁および証拠隠滅未遂の疑いで拘束する」
大裁定の間がざわついた。
オルガは一瞬、目を伏せた。
そして、また微笑んだ。
「お見事ですわ」
その言葉が誰へ向けられたものか、分からなかった。
カインか。
エレノアか。
それとも、自分の言葉で立ったリリアナか。
近衛がオルガのそばへ進む。
彼女は抵抗しなかった。
ただ、連れていかれる直前、エレノアへ視線を向けた。
「エレノア様。あなたは人を駒にしないと仰る。でも、裁く側に立つ者は、いつか必ず誰かを動かしますわ。その時、自分だけは違うと思わないことです」
エレノアは、まっすぐ彼女を見た。
「だから記録します」
オルガは、薄く笑った。
「本当に、王妃陛下そっくり」
その言葉を最後に、彼女は近衛に連れられて大裁定の間を出ていった。
扉が閉まる。
ざわめきが少しずつ収まる。
リリアナは、その場に立ったまま動けなかった。
力が抜けたように膝が揺れる。
ユリウスが反射的に動きかけたが、途中で止まった。
代わりに、マルタが近づき、そっと椅子を引いた。
「お座りください」
「……はい」
リリアナは椅子に腰を下ろした。
涙はまだ止まらない。
だが、泣き方が違った。
許してほしい涙ではない。
自分の言葉で立った後の、怖さと疲れの涙だった。
エレノアは、少し離れた場所から妹を見ていた。
リリアナが顔を上げる。
二人の目が合った。
リリアナは、何かを言おうとして、やめた。
謝罪ではない。
甘えでもない。
ただ、小さく頭を下げた。
エレノアも、ほんのわずかに頷いた。
姉妹の間にあるものは、まだ壊れたままだ。
でも、瓦礫の下から初めて、何かを拾い上げた気がした。
それが許しなのか、理解なのか、ただの始まりなのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
リリアナ・ヴァレンシュタインは、その日初めて、自分は駒ではないと言った。
そして、その言葉は正式な記録に残った。
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