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第10章『風は止まず、想い揺れる秋』
第九十二話『おしのの反乱──「わたしは女中やない」』
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小牧への赴任準備が本格化し、墨俣の屋敷では昼夜問わず荷の出入りが続いていた。
帳簿を締めるねね、食器と道具の仕分けを進める千鶴、外商と交渉するお濃。
それぞれが自分の持ち場で動いていた。
そんな中、誰よりも忙しく動き回っていたのが、おしのだった。
「殿下の風呂桶は墨俣仕様では合いません! 早く新しい木桶注文して!
布団は“草履の匂いが取れない”って苦情来るから、新調を!」
彼女の声が屋敷中を飛び交っていた。
だがその日、事件は夜になって起こった。
◆ ◆ ◆
風呂上がりの廊下。
秀吉が縁側に腰を下ろして湯上がりの酒をすすっていたところに、おしのがふらりと現れた。
「殿下」
「ん、おつかれやな」
「少し……お時間、いただいてもよろしいですか?」
その声は、普段のような軽やかさがなかった。
「……ええよ。どうしたんや?」
縁側の隣に腰を下ろしたおしのは、しばし無言で星を見上げていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……うち、ずっと、女中としてやってきました」
「そやな。うちの中では、なんでも一番回せるし──」
「それが、嫌なんです」
「──え?」
秀吉が酒を止めた。
「女中やから、殿下の隣におれる。
けど、女中やから、それ以上にはなれへん」
秀吉は、おしのの言葉を飲み込んだ。
「おしの……」
「うちは……うちは、ただの世話係ちゃう。
笑ってほしくて、ご飯作って、湯を沸かして、寝巻きを干して……それ全部、好きやからやったんや」
おしのの頬が紅潮していた。
だが、その瞳は真っ直ぐだった。
「殿下……女として、わたしを見てくれたこと、ありますか?」
秀吉の口が動きかけた、その瞬間──
「……おしの」
後ろから、聞き覚えのある声。
ねねだった。
「ごめん……なんか、水さした?」
おしのが振り返り、立ち上がる。
ねねも黙って立ち尽くしていた。
「……うち、部屋戻るわ」
おしのはそれだけ言って、静かに縁側を後にした。
残された秀吉とねねの間に、しばし沈黙が流れた。
「……聞いてもうたわ」
「……わしも、答え、出せんかった」
「おしの、変わったなあ」
「いや、変わったんやなくて、ずっと我慢しとったんやろな」
「それでも、言うてくれたんなら……ちゃんと、受け止めなあかんやろ」
ねねの声に、責める響きはなかった。
「でもあんた……気づいてへんのも、罪やで」
「……わかってる」
◆ ◆ ◆
その夜、三人はそれぞれの部屋で眠れぬ夜を過ごしていた。
おしのは月を見上げながら、手に包んだ髪留めを握りしめ。
ねねは布団の中で天井を見つめ、そっと吐息を漏らした。
秀吉は、膝を抱えたまま、何も言葉にできなかった。
──好き、という気持ちは、簡単には収まらない。
でも、簡単には壊せない関係の中で、
それぞれが、自分なりの“覚悟”を抱きはじめていた。
帳簿を締めるねね、食器と道具の仕分けを進める千鶴、外商と交渉するお濃。
それぞれが自分の持ち場で動いていた。
そんな中、誰よりも忙しく動き回っていたのが、おしのだった。
「殿下の風呂桶は墨俣仕様では合いません! 早く新しい木桶注文して!
布団は“草履の匂いが取れない”って苦情来るから、新調を!」
彼女の声が屋敷中を飛び交っていた。
だがその日、事件は夜になって起こった。
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「殿下」
「ん、おつかれやな」
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「……ええよ。どうしたんや?」
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そして、ぽつりと呟いた。
「……うち、ずっと、女中としてやってきました」
「そやな。うちの中では、なんでも一番回せるし──」
「それが、嫌なんです」
「──え?」
秀吉が酒を止めた。
「女中やから、殿下の隣におれる。
けど、女中やから、それ以上にはなれへん」
秀吉は、おしのの言葉を飲み込んだ。
「おしの……」
「うちは……うちは、ただの世話係ちゃう。
笑ってほしくて、ご飯作って、湯を沸かして、寝巻きを干して……それ全部、好きやからやったんや」
おしのの頬が紅潮していた。
だが、その瞳は真っ直ぐだった。
「殿下……女として、わたしを見てくれたこと、ありますか?」
秀吉の口が動きかけた、その瞬間──
「……おしの」
後ろから、聞き覚えのある声。
ねねだった。
「ごめん……なんか、水さした?」
おしのが振り返り、立ち上がる。
ねねも黙って立ち尽くしていた。
「……うち、部屋戻るわ」
おしのはそれだけ言って、静かに縁側を後にした。
残された秀吉とねねの間に、しばし沈黙が流れた。
「……聞いてもうたわ」
「……わしも、答え、出せんかった」
「おしの、変わったなあ」
「いや、変わったんやなくて、ずっと我慢しとったんやろな」
「それでも、言うてくれたんなら……ちゃんと、受け止めなあかんやろ」
ねねの声に、責める響きはなかった。
「でもあんた……気づいてへんのも、罪やで」
「……わかってる」
◆ ◆ ◆
その夜、三人はそれぞれの部屋で眠れぬ夜を過ごしていた。
おしのは月を見上げながら、手に包んだ髪留めを握りしめ。
ねねは布団の中で天井を見つめ、そっと吐息を漏らした。
秀吉は、膝を抱えたまま、何も言葉にできなかった。
──好き、という気持ちは、簡単には収まらない。
でも、簡単には壊せない関係の中で、
それぞれが、自分なりの“覚悟”を抱きはじめていた。
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