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第一章 暗闇は深く
第7話 残業中の再会
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夜のオフィスは、昼間の慌ただしさが嘘のように静まり返っていた。
デスクランプの淡い光だけが、周囲をぼんやりと照らしている。
もう誰も残っていないオフィスでひとり、私は相変わらず書類の山に埋もれながら、カチカチとマウスを動かしていた。
あのシステムトラブルから、二週間。
表向きにはすっかり落ち着き、通常通りの日常に戻っている。
けれど、そのしわ寄せは、確実にこちらに回ってきていた。
問い合わせに対する対応の記録や、再発防止のための報告事項。
そういった雑務の担当は私たちアシスタントの仕事なのだ。
それに加えて、予想通り掘り返されたあの日の失敗について。
「そういえばさ、木崎さん。導入検討会、散々だったみたいじゃない。あなたが適当な仕事をすると私たちまで評価が下がるのよ」
今日のお昼、村上さんが突然思い出したように私を捕まえた。
そのおかげで業務が完全に滞り、気づけば残業に突入。
時計の針はいつの間にか22時を回っていた。
「ふう……」
ようやく手を止めて、深く息を吐く。
椅子の背にもたれ、凝り固まった肩をぐるりと回してみたものの、気分は少しも晴れない。
家に帰る気力なんて、もうとうに消え失せていた。
キリをつけて帰ることもできなくはないけれど——。
仕事が終われば次に脳裏に浮かぶのは、京介の顔だった。
「早く、終わりにしないと……」
誰もいないオフィスに、ぽつりと独り言がこぼれた。
_/_/_/_/_/_/
京介の浮気を目にしてしまった、あの日から。
私たちの関係は、取り返しのつかないところまで壊れてしまった。
あの夜、助けてくれた彼の家に泊まった私は家に帰らなかった。
帰れなかった、の方が正しいつもりだったけれど。
翌日、意を決して家に戻ると、京介は苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てたのだ。
「家事もせずに、どこ行ってたんだよ。……まさか、浮気か?」
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
「……どの口が言ってるの?」
気づけば、私はそんな言葉を発していた。
今までだったら彼に反抗することなんてなかったのに。
どんな理不尽でも静かに謝れるように、心を凍らせていたのに。
私の反論は、当然彼の感情の引き金を引いた。
「は?調子乗んなよ」
怒鳴り声と同時に、強く突き飛ばされる。
よろけた拍子に、背中が壁にぶつかった。
「最初に離れていったのは、そっちだろ」
仕事が忙しくて、余裕がなくなったこと。
前みたいに、楽しそうに笑わなくなったこと。
作り笑いばかりで、面白くもない返しをするようになったこと。
身なりに気を遣わなくなって、女らしさもなくなったこと。
次々とぶつけられる言葉に、何も言い返せなくなっていく。
「お前が……!お前がそんなだから、俺は」
「……っ」
ただ、泣くことしかできなかった。
笑わなくなったのはそっちじゃない。
話し合いができなくなって、暴力や暴言に変わっていった貴方に対して、私はどうするべきだったの?
言いたいことは山ほどあるのに、言えない時点で既に関係は破綻してしまっている。
「……もう、無理だよ」
考えもなく口から零れた言葉は、諦めだった。
こんなふうに傷つけられても、優しかった頃のこと、浮かんでくるのは楽しかった記憶ばかり。
終わりを目の前して、悲しさの涙が止まらなくなる。
「……出ていく」
固まりきらない心のまま、感情だけでそう告げると、京介の目は苛立ちで鋭く光った。
ーーまた怒鳴られる。
恐怖で身を固め、目をぎゅっと瞑るけれど、彼からは何も出てこなかった。
恐る恐る目を開くと、彼はすでに背を向けていた。
「お前が後悔しないなら、勝手にしろよ。別に、お前の代わりなんていくらでもいるんだ」
彼はさらに私の心に傷をつけ、そのまま苛立った様子で寝室に引きこもった。
それきり、私たちの間に会話はなくなった。
そして3日前。
仕事を終えて、重たい足取りで玄関を開けた先に、信じられない光景が広がっていた。
明らかに私のものではないピンク色の可愛らしいパンプスに、言葉を失う。
「……誰?」
小さく呟きながら恐る恐る廊下を進むと、リビングから聞きなれない可愛らしい笑い声が聞こえた。
「あはは、京介くんったら~!」
「まじでおもしろくね?これがさ……」
重なって聞こえてくる明るい京介の声に、胸が潰されるようにキツく痛む。
私がずっと縋っていた、かつての京介の姿がそこにあった。
思わず扉を開けると、肩が触れるような距離でソファに座る二人の男女がいた。
かつての私たちのように。
仲睦まじい様子で。
彼女は、私を見るなり、きょとんとした顔をして、それからすぐに、愛想のいい笑顔を浮かべる。
「どなたですか?」
にっこりと笑った可愛らしい顔を、殴ってやりたいと思った。
こんな強い感情になったのは、初めてのことだった。
「あー……帰ってきたんだ。遅いから帰らないと思った」
私の足を踏みとどめたのは、京介の冷たい言葉だった。
彼を見ると、私とは視線を合わさず彼女に優しい笑顔を向ける。
「まだ住んでるんだよ。別に何もないから、気にしないで」
京介の言葉に、彼女はにっこりと微笑む。
慌てない二人を見たら、彼女も大方の事情は知っているようだった。
「お邪魔してまーす♡」
無邪気すぎる彼女に、京介はおかしそうに笑う。
何を言えばいいのかも、どう振る舞えばいいのかも分からなかった。
ただ、自分の居場所が、もうここにはないのだと、はっきり分かった瞬間だった。
それから今日まで、ホテルを転々としながら暮らしている。
本当は、荷物をまとめて、ちゃんと家を出る準備をしなきゃいけない。
分かっていても、残業続きの毎日で、そんな時間も気力も残っていなかった。
「……はぁ……」
気付けば私は、静まり返った夜のオフィスで大きなため息を落としていた。
_/_/_/_/_/_/
「まだ残っていたんですか?」
誰もいないと思い込んでいた私は、背後からかけられた声に、思わず肩を跳ね上げた。
振り返ると、そこに立っていたのは藤堂さんだった。
彼が社内に姿を表すようになってもう二週間。
ハイスペックで目立つ彼のことは、もう見慣れたはずだったのに、夜のオフィスで向き合うと少しだけ距離感を近く感じる。
「藤堂さんこそ……もう帰られたのかと」
「サーバー室で部長と話していたので」
淡々とした口調は、昼間と変わらない。
私は、机の上に視線を落とした。
散らかった書類と、開きっぱなしの管理画面。
散らかった様子を今さら取り繕うこともできず、少し恥ずかしくなって書類を集める。
「急ぎの仕事ですか?」
「あ、いえ……その、帰る気がしなくて……つい」
思わずそう答えると、藤堂さんは一瞬だけ目を細める。
デスクランプの光に照らされたその笑顔はどこか柔らかい。
「……大丈夫ですか?」
「え?」
彼が急に真剣な表情を浮かべたので、思わず言葉に詰まった。
「午後、ずいぶん長い時間つかまってましたよね。システム部の方にも、村上さんの声が聞こえてました」
「そ、そうなんですか……」
心臓が嫌な鼓動を大きくした。
なんとなく知られたくなかったことが、すべて筒抜けだったと知り恥ずかしくなる。
「仕事ですから仕方ないです。……慣れました」
眉を下げて笑う。
そうだ、慣れている。
何を言われたって私はもうーー。
「でも」
気付いたら目線が合うようにしゃがんでいた藤堂さんが隣にいた。
「慣れていたって傷つく時はありますよね」
彼の柔らかな言葉が、そっと心に触れる。
あの日、雨の中で聞いた声も、こんなふうに優しかった気がする。
私は、無意識に顔を上げていた。
目が合うと、藤堂さんはほんの小さく微笑む。
その表情が、確かにあの夜の記憶と重なって見えて。
……いや、違う。
大規模障害が起きた日、私はちゃんと納得したはずだった。
藤堂さんとあの日の彼は、別人だ。
この二週間、彼の働く姿を見てきて、なおさらそう思う。
彼は仕事中、ほとんど感情を表に出さない。
あの日の彼に感じた優しさなんて、1ミリも感じなかった。
それどころか彼の淡々とした仕事ぶりはどこか冷徹にさえ感じるほどだった。
初日、あれだけ彼を囲んでいた女性社員たちも、今では必要以上に近づかない。
——観賞用のイケメン。
そんな距離感が、この二週間で出来上がってしまったほどなのだ。
それなのに、今さら記憶の彼と重ねてしまうなんて、馬鹿げている。
私は視線を逸らし、冷静さを取り戻すため小さく首を横に振った。
「……ふふ」
不意に、低い笑い声が落ちてきた。
驚いて顔を上げると、藤堂さんが、口元を押さえたままこちらを見ていた。
目を丸くしている私を前に、どこか堪えきれない様子で、静かに息を漏らしている。
——笑ってる。
仕事中には一度も見たことのない、力の抜けた笑顔。
その表情は柔らかくて、あまりにも——。
「……っ」
言葉を失ったまま、私はただ目を見開いて、その顔を見つめてしまう。
「……あー、ごめん。つい、可愛くて」
「え……?」
あまりに自然なタメ口に、頭の中が一気に混乱する。
言葉を返せずに固まっていると、藤堂さんは少しだけ意地悪そうに口角を緩めた。
「去るときはさ、お礼くらい言って帰るのが筋じゃない?」
その言葉に私は、確信した。
藤堂さんは、やっぱり、あの夜私に手を差し伸べてくれた恩人だったのだ。
「あのっ……!その節は本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでしたっ!情けない姿を見せた上に、助けていただいて、本当に感謝しておりました。……その、それなのにお礼も言えずに帰ってしまい……」
慌てて立ち上がり深々と頭を下げながら言葉を連ねる私に、彼は楽しそうに肩を揺らして笑った。
「冗談だよ。びしょ濡れで座り込むあなたを見た時は、何事かと思ったけど。翌日からちゃんと出社していたみたいで安心した」
「本当に助かりました。あの時、あなたがいなかったらどうなってたか……」
改めて真剣に感謝を伝えると、彼の笑顔が少しだけ柔らかさを増す。
「それなら何より。じゃあ、そろそろ帰ろうか。こんな時間まで残業してたら体に悪い」
「で、でも――」
「それ、明日にしても死なないよね?」
あまりにあっさりと言い切られて、私は手札を失った。
「待ってるから。一緒に出よう」
温かい言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
彼の視線に背中を押されるようにして、私はパソコンの電源を落とした。
_/_/_/_/_/_/
第七話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!
しおりが増えてきて嬉しい日々。
次回もぜひよろしくお願いいたします。
デスクランプの淡い光だけが、周囲をぼんやりと照らしている。
もう誰も残っていないオフィスでひとり、私は相変わらず書類の山に埋もれながら、カチカチとマウスを動かしていた。
あのシステムトラブルから、二週間。
表向きにはすっかり落ち着き、通常通りの日常に戻っている。
けれど、そのしわ寄せは、確実にこちらに回ってきていた。
問い合わせに対する対応の記録や、再発防止のための報告事項。
そういった雑務の担当は私たちアシスタントの仕事なのだ。
それに加えて、予想通り掘り返されたあの日の失敗について。
「そういえばさ、木崎さん。導入検討会、散々だったみたいじゃない。あなたが適当な仕事をすると私たちまで評価が下がるのよ」
今日のお昼、村上さんが突然思い出したように私を捕まえた。
そのおかげで業務が完全に滞り、気づけば残業に突入。
時計の針はいつの間にか22時を回っていた。
「ふう……」
ようやく手を止めて、深く息を吐く。
椅子の背にもたれ、凝り固まった肩をぐるりと回してみたものの、気分は少しも晴れない。
家に帰る気力なんて、もうとうに消え失せていた。
キリをつけて帰ることもできなくはないけれど——。
仕事が終われば次に脳裏に浮かぶのは、京介の顔だった。
「早く、終わりにしないと……」
誰もいないオフィスに、ぽつりと独り言がこぼれた。
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京介の浮気を目にしてしまった、あの日から。
私たちの関係は、取り返しのつかないところまで壊れてしまった。
あの夜、助けてくれた彼の家に泊まった私は家に帰らなかった。
帰れなかった、の方が正しいつもりだったけれど。
翌日、意を決して家に戻ると、京介は苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てたのだ。
「家事もせずに、どこ行ってたんだよ。……まさか、浮気か?」
その言葉に、頭の中が真っ白になった。
「……どの口が言ってるの?」
気づけば、私はそんな言葉を発していた。
今までだったら彼に反抗することなんてなかったのに。
どんな理不尽でも静かに謝れるように、心を凍らせていたのに。
私の反論は、当然彼の感情の引き金を引いた。
「は?調子乗んなよ」
怒鳴り声と同時に、強く突き飛ばされる。
よろけた拍子に、背中が壁にぶつかった。
「最初に離れていったのは、そっちだろ」
仕事が忙しくて、余裕がなくなったこと。
前みたいに、楽しそうに笑わなくなったこと。
作り笑いばかりで、面白くもない返しをするようになったこと。
身なりに気を遣わなくなって、女らしさもなくなったこと。
次々とぶつけられる言葉に、何も言い返せなくなっていく。
「お前が……!お前がそんなだから、俺は」
「……っ」
ただ、泣くことしかできなかった。
笑わなくなったのはそっちじゃない。
話し合いができなくなって、暴力や暴言に変わっていった貴方に対して、私はどうするべきだったの?
言いたいことは山ほどあるのに、言えない時点で既に関係は破綻してしまっている。
「……もう、無理だよ」
考えもなく口から零れた言葉は、諦めだった。
こんなふうに傷つけられても、優しかった頃のこと、浮かんでくるのは楽しかった記憶ばかり。
終わりを目の前して、悲しさの涙が止まらなくなる。
「……出ていく」
固まりきらない心のまま、感情だけでそう告げると、京介の目は苛立ちで鋭く光った。
ーーまた怒鳴られる。
恐怖で身を固め、目をぎゅっと瞑るけれど、彼からは何も出てこなかった。
恐る恐る目を開くと、彼はすでに背を向けていた。
「お前が後悔しないなら、勝手にしろよ。別に、お前の代わりなんていくらでもいるんだ」
彼はさらに私の心に傷をつけ、そのまま苛立った様子で寝室に引きこもった。
それきり、私たちの間に会話はなくなった。
そして3日前。
仕事を終えて、重たい足取りで玄関を開けた先に、信じられない光景が広がっていた。
明らかに私のものではないピンク色の可愛らしいパンプスに、言葉を失う。
「……誰?」
小さく呟きながら恐る恐る廊下を進むと、リビングから聞きなれない可愛らしい笑い声が聞こえた。
「あはは、京介くんったら~!」
「まじでおもしろくね?これがさ……」
重なって聞こえてくる明るい京介の声に、胸が潰されるようにキツく痛む。
私がずっと縋っていた、かつての京介の姿がそこにあった。
思わず扉を開けると、肩が触れるような距離でソファに座る二人の男女がいた。
かつての私たちのように。
仲睦まじい様子で。
彼女は、私を見るなり、きょとんとした顔をして、それからすぐに、愛想のいい笑顔を浮かべる。
「どなたですか?」
にっこりと笑った可愛らしい顔を、殴ってやりたいと思った。
こんな強い感情になったのは、初めてのことだった。
「あー……帰ってきたんだ。遅いから帰らないと思った」
私の足を踏みとどめたのは、京介の冷たい言葉だった。
彼を見ると、私とは視線を合わさず彼女に優しい笑顔を向ける。
「まだ住んでるんだよ。別に何もないから、気にしないで」
京介の言葉に、彼女はにっこりと微笑む。
慌てない二人を見たら、彼女も大方の事情は知っているようだった。
「お邪魔してまーす♡」
無邪気すぎる彼女に、京介はおかしそうに笑う。
何を言えばいいのかも、どう振る舞えばいいのかも分からなかった。
ただ、自分の居場所が、もうここにはないのだと、はっきり分かった瞬間だった。
それから今日まで、ホテルを転々としながら暮らしている。
本当は、荷物をまとめて、ちゃんと家を出る準備をしなきゃいけない。
分かっていても、残業続きの毎日で、そんな時間も気力も残っていなかった。
「……はぁ……」
気付けば私は、静まり返った夜のオフィスで大きなため息を落としていた。
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「まだ残っていたんですか?」
誰もいないと思い込んでいた私は、背後からかけられた声に、思わず肩を跳ね上げた。
振り返ると、そこに立っていたのは藤堂さんだった。
彼が社内に姿を表すようになってもう二週間。
ハイスペックで目立つ彼のことは、もう見慣れたはずだったのに、夜のオフィスで向き合うと少しだけ距離感を近く感じる。
「藤堂さんこそ……もう帰られたのかと」
「サーバー室で部長と話していたので」
淡々とした口調は、昼間と変わらない。
私は、机の上に視線を落とした。
散らかった書類と、開きっぱなしの管理画面。
散らかった様子を今さら取り繕うこともできず、少し恥ずかしくなって書類を集める。
「急ぎの仕事ですか?」
「あ、いえ……その、帰る気がしなくて……つい」
思わずそう答えると、藤堂さんは一瞬だけ目を細める。
デスクランプの光に照らされたその笑顔はどこか柔らかい。
「……大丈夫ですか?」
「え?」
彼が急に真剣な表情を浮かべたので、思わず言葉に詰まった。
「午後、ずいぶん長い時間つかまってましたよね。システム部の方にも、村上さんの声が聞こえてました」
「そ、そうなんですか……」
心臓が嫌な鼓動を大きくした。
なんとなく知られたくなかったことが、すべて筒抜けだったと知り恥ずかしくなる。
「仕事ですから仕方ないです。……慣れました」
眉を下げて笑う。
そうだ、慣れている。
何を言われたって私はもうーー。
「でも」
気付いたら目線が合うようにしゃがんでいた藤堂さんが隣にいた。
「慣れていたって傷つく時はありますよね」
彼の柔らかな言葉が、そっと心に触れる。
あの日、雨の中で聞いた声も、こんなふうに優しかった気がする。
私は、無意識に顔を上げていた。
目が合うと、藤堂さんはほんの小さく微笑む。
その表情が、確かにあの夜の記憶と重なって見えて。
……いや、違う。
大規模障害が起きた日、私はちゃんと納得したはずだった。
藤堂さんとあの日の彼は、別人だ。
この二週間、彼の働く姿を見てきて、なおさらそう思う。
彼は仕事中、ほとんど感情を表に出さない。
あの日の彼に感じた優しさなんて、1ミリも感じなかった。
それどころか彼の淡々とした仕事ぶりはどこか冷徹にさえ感じるほどだった。
初日、あれだけ彼を囲んでいた女性社員たちも、今では必要以上に近づかない。
——観賞用のイケメン。
そんな距離感が、この二週間で出来上がってしまったほどなのだ。
それなのに、今さら記憶の彼と重ねてしまうなんて、馬鹿げている。
私は視線を逸らし、冷静さを取り戻すため小さく首を横に振った。
「……ふふ」
不意に、低い笑い声が落ちてきた。
驚いて顔を上げると、藤堂さんが、口元を押さえたままこちらを見ていた。
目を丸くしている私を前に、どこか堪えきれない様子で、静かに息を漏らしている。
——笑ってる。
仕事中には一度も見たことのない、力の抜けた笑顔。
その表情は柔らかくて、あまりにも——。
「……っ」
言葉を失ったまま、私はただ目を見開いて、その顔を見つめてしまう。
「……あー、ごめん。つい、可愛くて」
「え……?」
あまりに自然なタメ口に、頭の中が一気に混乱する。
言葉を返せずに固まっていると、藤堂さんは少しだけ意地悪そうに口角を緩めた。
「去るときはさ、お礼くらい言って帰るのが筋じゃない?」
その言葉に私は、確信した。
藤堂さんは、やっぱり、あの夜私に手を差し伸べてくれた恩人だったのだ。
「あのっ……!その節は本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでしたっ!情けない姿を見せた上に、助けていただいて、本当に感謝しておりました。……その、それなのにお礼も言えずに帰ってしまい……」
慌てて立ち上がり深々と頭を下げながら言葉を連ねる私に、彼は楽しそうに肩を揺らして笑った。
「冗談だよ。びしょ濡れで座り込むあなたを見た時は、何事かと思ったけど。翌日からちゃんと出社していたみたいで安心した」
「本当に助かりました。あの時、あなたがいなかったらどうなってたか……」
改めて真剣に感謝を伝えると、彼の笑顔が少しだけ柔らかさを増す。
「それなら何より。じゃあ、そろそろ帰ろうか。こんな時間まで残業してたら体に悪い」
「で、でも――」
「それ、明日にしても死なないよね?」
あまりにあっさりと言い切られて、私は手札を失った。
「待ってるから。一緒に出よう」
温かい言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
彼の視線に背中を押されるようにして、私はパソコンの電源を落とした。
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