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第一章 暗闇は深く
第11話:嘘でも縋りたい
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<何時に終わる?>
定時が過ぎ、スマホに短く表示されたメッセージが目に入る。
顔を上げると、少し離れた席で藤堂さんは相変わらず淡々とパソコンに向かっていた。
誰も寄せつけない雰囲気のままなのに、こんな連絡が来ると、なんとも不思議な気分になってしまう。
<19時頃に退勤予定です。
荷物を取りに一度戻ろうと思っているので、家には20時頃になると思います。
今日はご飯、作れなさそうです>
少し迷って正直に送ると、すぐに返事が来た。
<わかった。ひとりで大丈夫?>
その一言に、胸の奥がきゅっと縮まる。
<大丈夫です>
それ以外に返せることはないけれど、心配してくれることが温かくて、画面を見つめてしまう。
<ご飯、用意しておくよ。俺は作れないから出前になるけど>
<嬉しいです。楽しみに帰ります>
送信してからスマホを伏せる。
何事もなかったように仕事を続けている藤堂さんを見て、ほんの少しだけ胸がそわそわするような感覚になった。
_/_/_/_/_/_/
扉を開けて、女性物のパンプスがないことに安心する。
そんなトラウマまで植え付けられたというのに、リビングに入れば輝かしい過去が思い出されてしまうのは、何故だろう。
ぎゅっと苦しくなる胸を誤魔化すように深呼吸をする。
静まり返った部屋には、京介もまだ帰っていないようで安心して私はクローゼットを開けた。
春先の服を選んで、だいたいまとめ終えたところで、玄関の鍵が回る音がした。
当時を思い出すように、身体がビクリと跳ねる。
京介が帰ってきたのだ。
「……いつまでそんなことしてんの?」
帰ってきた京介は、スーツを脱ぎながら、吐き捨てるような声を投げてきた。
いつまでって……。
私だって分からない。
何も言い返せないでいると、彼はズカズカと近くまでやって来て、私の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。
「どうせ帰ってきたいんだろ?お前、寂しがりだもんな」
そして、手元に置かれたカバンを見て、鼻で笑う。
「ほら、そんな小さいカバンに入る分だけ持ってさ。俺と完全に離れるのが寂しいんだよな」
言葉が、次々と突き刺さっていた。
京介の言う通りだ。
私だって、本当は、分かってる。
視界が滲んで、あっという間に膝に雫が落ちた。
「なあ、言えよ」
京介は、片手で私の頬を掴んでぐっと無理やり顔をあげさせる。
「ごめんなさい、戻りたいです、って。言えたら許してやるから」
なんで、そんなに苦しそうな顔するの?
私じゃない人と付き合って、息抜きが日常になったら、京介は幸せになるはずじゃん。
苛立ちばかりを見せるけれど、隠しきれていない苦しみが滲む表情に、私は言いそうになった。
ーーごめんなさい。
私は、京介と一緒にいたいよ。
だってきっと、彼がこんなに荒れているのは、あの人とも別れたからだ。
こんな気性の荒さを向けられるのは、私だけなんだ。
そんな歪んだ特別すら、嬉しく感じてしまう自分がいた。
「……っ」
口を開きそうになったそのとき、一瞬だけ藤堂さんの顔が浮かんだ。
<ご飯、用意しておくよ>
温かいメッセージと、退勤する時に一瞬合った優しい瞳。
京介が目の前にいるのに彼のことを思い出すのは初めてで、私は戸惑う。
分かってる。
私は藤堂さんにとって特別なんかじゃない。
でも、もしかしたら。
あのずるいくらいの優しさに、惹かれ始めている自分がいるのかもしれない。
それでも、彼を信じきって完全に寄りかかることも怖かった。
結局、京介の言う通りなのだ。
私は、一人になるのが怖いだけだ。
残ったほんの少しの理性で、キレるくらいに強く唇を噛み締めた。
ぐちゃぐちゃにまとめた荷物を抱え、なんとか部屋を出る。
バタンと閉じたドア。
その瞬間から、涙が止まらなくなった。
ーー私は、本当は、どうしたいんだろう。
ぐちゃぐちゃの心で、ぼんやりと考える。
藤堂さんに伝えた20時を過ぎてしまっていることにも気が付かないで、私は泣きながら街頭の灯る夜道を歩いていた。
_/_/_/_/_/_/
21時を少し回った頃。
泣き顔で電車に乗ることは出来なくて、いくつか駅を越えて歩いた末に、藤堂さんのマンションが見えてきた。
その頃には涙もすっかり枯れていて、残っているのは体の奥に溜まった重たい疲労感だけだった。
「もう、大丈夫かな」
乾燥した目元に手を触れ、確かめる。
手を離すと、マンションの前からこちらへ向かって走ってくる男性が見えた。
ーー藤堂さん?
立ち止まっているうちに、あっという間に目の前に来た藤堂さんは、息を切らしていた。
「遅いから心配した。連絡もないし」
ため息混じりにそう言われて、ポケットの中のスマホが、急に重く感じられた。
思わずスマホを確認すると、画面にはいくつか藤堂さんからメッセージが届いている。
「もう……気付いてなかっただけ?」
照れ隠しをするように自分の髪に触れる彼を見ていたら、どうしてか感情が溢れ出した。
「……なんで……」
声が震える。
俯いたまま喋りだした私に、藤堂さんは視線を向けた。
「なんで、私なんかに、こんなに優しくするんですか……」
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れる。
長い時間を歩いて、なんとか止めたはずだったのに。
何の意味もなかったじゃない。
突然ぽろぽろと泣き出した私に、藤堂さんは困っているようだった。
京介と鉢合わせたことで、自分がどれだけずるくて、卑怯か、分かってしまった。
一人になりたくなくて、藤堂さんに甘えて。
それなのに、京介とも完全には離れられなくて。
「私、最低なんです。藤堂さんのこと利用して……そんなに優しくされていい人じゃ……っ」
泣きじゃくる私を落ち着かせるように、藤堂さんは一歩近寄って私の頭に触れた。
「急にどうしたの、とりあえず部屋入ろ。もう遅いし、疲れたでしょ」
その優しい声に落ち着かされ、気付けばソファに座っていた。
「でー?何があったの、京介くんに酷いことされた?」
喉が乾いていると察したのか、冷たいお茶を差し出される。
ひとくち飲めば、信じられないほど美味しくて、一気に飲み干してしまった。
「……何もされてないです」
言いながら彼の言葉を思い出して、熱くなる目元を隠すと、彼は隣に座って、その両手を優しく掴んだ。
「何も無かった顔じゃないよ」
穏やかな優しさの中に、心配の色が見えて、ぼろぼろだった心が魔法みたいに安心していく。
私は震える口元で、そのままの思いを口にした。
「……気付かされただけです。
京介のことが憎くて、怖くて、もう散々だって思うのに。
同棲してた家に女性を連れ込むような人許せないって思うのに……。
それでも「俺と一緒にいたいなら謝れよ」って、そう言われて謝りそうになった」
さっきの出来事を口にすると、藤堂さんは驚いたように、手のひらの力を弛めた。
自由になった両手で、私はまた涙を隠す。
「私、もう離れられないんです。
京介のこと最低だって思うのに……。
あんな生活、もう嫌なのに、せっかく藤堂さんに助けてもらったのに……」
涙が流れていくまま、私は藤堂さんを見つめた。
こんな話をしてもまだ心配の色をしている彼の瞳は、本当に私になんて向けられるべきじゃないと思いながら。
また最低で自分勝手な気持ちを口にする。
「……藤堂さんのこと、好きになりたい……っ」
一瞬の沈黙のあと、藤堂さんは、今まで見たことのない表情で笑った。
「好きになってよ。茉莉が楽になるのなら、どれだけでも俺を利用して」
低い声で、初めて名前を呼ばれる。
「俺だって、茉莉のことを利用してるんだ」
その小さな声に、私は目を見開いた。
——ずるい。
意地悪な顔をして言うその一言さえ、今の私が一番欲しかったものだったのだ。
利用しているという言葉の裏に、どんな本音があるのかは分からないけど。
今の私にとっては、罪悪感を薄めてくれる都合の良い言葉に違いなかった。
「俺は、茉莉が必要としてくれる限りは離れないよ。絶対にひとりにはしない」
わたしはその言葉を聞きおわる前に、彼の唇に口付けした。
彼は、そのまま、優しく私の口付けを受け止める。
私は最低だけど、藤堂さんも大概残酷だ。
だって、ひとりにはしないなんて言っておいて、彼にとって、私はただの一人の女性じゃない。
その事実は、洗濯物に紛れた名刺や、時々シャツに残る口紅の跡が、何度も教えてくれていた。
気付けば体制は逆になり、彼の柔らかな唇が首筋に沿っていく。
痺れるような快感に、現実がぼやけていくのが心地いい。
残酷なくらいで、いいのかもしれない。
誰かが自分だけを大切にしてくれるなんて、もう信じられる気がしなかった。
京介に引き裂かれた心は、思っていた以上に深く傷ついていて、そんな純朴な信用なんて持ってくれない。
それなら、最初から。
この人の特別にはなれないと分かっていたって、不確かな関係のまま寄りかかる弱さを、許してもらえるなら。
……それで幸せだと思ってしまう私は、やっぱり、ずるいのかもしれない。
「……柊真さん、好きです」
自分を騙すようにそう言って彼の首に腕を回す。
彼は私を受け入れて、ぎゅぅと力を強めてくれた。
今まで何度も、落ち込んだ夜に、眠れないときに、彼はただ黙って抱きしめてくれた。
でも今夜は違う。
優しさだけじゃない熱を帯びた腕に包まれながら、私は彼に寄りかかる弱さを受け入れた。
_/_/_/_/_/_/
次の週末。
泣き腫らしてパンパンの目で、いくつかの段ボールを持って帰宅した私を、柊真さんは嬉しそうに招き入れた。
「頑張ったね」
「はい」
優しく撫でてくれる大きな手に、京介との思い出が完全に塗り潰されるまで。
私はこの人のことを好きでいる。
_/_/_/_/_/_/
第11話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!
次回もぜひよろしくお願いいたします。
定時が過ぎ、スマホに短く表示されたメッセージが目に入る。
顔を上げると、少し離れた席で藤堂さんは相変わらず淡々とパソコンに向かっていた。
誰も寄せつけない雰囲気のままなのに、こんな連絡が来ると、なんとも不思議な気分になってしまう。
<19時頃に退勤予定です。
荷物を取りに一度戻ろうと思っているので、家には20時頃になると思います。
今日はご飯、作れなさそうです>
少し迷って正直に送ると、すぐに返事が来た。
<わかった。ひとりで大丈夫?>
その一言に、胸の奥がきゅっと縮まる。
<大丈夫です>
それ以外に返せることはないけれど、心配してくれることが温かくて、画面を見つめてしまう。
<ご飯、用意しておくよ。俺は作れないから出前になるけど>
<嬉しいです。楽しみに帰ります>
送信してからスマホを伏せる。
何事もなかったように仕事を続けている藤堂さんを見て、ほんの少しだけ胸がそわそわするような感覚になった。
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扉を開けて、女性物のパンプスがないことに安心する。
そんなトラウマまで植え付けられたというのに、リビングに入れば輝かしい過去が思い出されてしまうのは、何故だろう。
ぎゅっと苦しくなる胸を誤魔化すように深呼吸をする。
静まり返った部屋には、京介もまだ帰っていないようで安心して私はクローゼットを開けた。
春先の服を選んで、だいたいまとめ終えたところで、玄関の鍵が回る音がした。
当時を思い出すように、身体がビクリと跳ねる。
京介が帰ってきたのだ。
「……いつまでそんなことしてんの?」
帰ってきた京介は、スーツを脱ぎながら、吐き捨てるような声を投げてきた。
いつまでって……。
私だって分からない。
何も言い返せないでいると、彼はズカズカと近くまでやって来て、私の顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。
「どうせ帰ってきたいんだろ?お前、寂しがりだもんな」
そして、手元に置かれたカバンを見て、鼻で笑う。
「ほら、そんな小さいカバンに入る分だけ持ってさ。俺と完全に離れるのが寂しいんだよな」
言葉が、次々と突き刺さっていた。
京介の言う通りだ。
私だって、本当は、分かってる。
視界が滲んで、あっという間に膝に雫が落ちた。
「なあ、言えよ」
京介は、片手で私の頬を掴んでぐっと無理やり顔をあげさせる。
「ごめんなさい、戻りたいです、って。言えたら許してやるから」
なんで、そんなに苦しそうな顔するの?
私じゃない人と付き合って、息抜きが日常になったら、京介は幸せになるはずじゃん。
苛立ちばかりを見せるけれど、隠しきれていない苦しみが滲む表情に、私は言いそうになった。
ーーごめんなさい。
私は、京介と一緒にいたいよ。
だってきっと、彼がこんなに荒れているのは、あの人とも別れたからだ。
こんな気性の荒さを向けられるのは、私だけなんだ。
そんな歪んだ特別すら、嬉しく感じてしまう自分がいた。
「……っ」
口を開きそうになったそのとき、一瞬だけ藤堂さんの顔が浮かんだ。
<ご飯、用意しておくよ>
温かいメッセージと、退勤する時に一瞬合った優しい瞳。
京介が目の前にいるのに彼のことを思い出すのは初めてで、私は戸惑う。
分かってる。
私は藤堂さんにとって特別なんかじゃない。
でも、もしかしたら。
あのずるいくらいの優しさに、惹かれ始めている自分がいるのかもしれない。
それでも、彼を信じきって完全に寄りかかることも怖かった。
結局、京介の言う通りなのだ。
私は、一人になるのが怖いだけだ。
残ったほんの少しの理性で、キレるくらいに強く唇を噛み締めた。
ぐちゃぐちゃにまとめた荷物を抱え、なんとか部屋を出る。
バタンと閉じたドア。
その瞬間から、涙が止まらなくなった。
ーー私は、本当は、どうしたいんだろう。
ぐちゃぐちゃの心で、ぼんやりと考える。
藤堂さんに伝えた20時を過ぎてしまっていることにも気が付かないで、私は泣きながら街頭の灯る夜道を歩いていた。
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21時を少し回った頃。
泣き顔で電車に乗ることは出来なくて、いくつか駅を越えて歩いた末に、藤堂さんのマンションが見えてきた。
その頃には涙もすっかり枯れていて、残っているのは体の奥に溜まった重たい疲労感だけだった。
「もう、大丈夫かな」
乾燥した目元に手を触れ、確かめる。
手を離すと、マンションの前からこちらへ向かって走ってくる男性が見えた。
ーー藤堂さん?
立ち止まっているうちに、あっという間に目の前に来た藤堂さんは、息を切らしていた。
「遅いから心配した。連絡もないし」
ため息混じりにそう言われて、ポケットの中のスマホが、急に重く感じられた。
思わずスマホを確認すると、画面にはいくつか藤堂さんからメッセージが届いている。
「もう……気付いてなかっただけ?」
照れ隠しをするように自分の髪に触れる彼を見ていたら、どうしてか感情が溢れ出した。
「……なんで……」
声が震える。
俯いたまま喋りだした私に、藤堂さんは視線を向けた。
「なんで、私なんかに、こんなに優しくするんですか……」
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れる。
長い時間を歩いて、なんとか止めたはずだったのに。
何の意味もなかったじゃない。
突然ぽろぽろと泣き出した私に、藤堂さんは困っているようだった。
京介と鉢合わせたことで、自分がどれだけずるくて、卑怯か、分かってしまった。
一人になりたくなくて、藤堂さんに甘えて。
それなのに、京介とも完全には離れられなくて。
「私、最低なんです。藤堂さんのこと利用して……そんなに優しくされていい人じゃ……っ」
泣きじゃくる私を落ち着かせるように、藤堂さんは一歩近寄って私の頭に触れた。
「急にどうしたの、とりあえず部屋入ろ。もう遅いし、疲れたでしょ」
その優しい声に落ち着かされ、気付けばソファに座っていた。
「でー?何があったの、京介くんに酷いことされた?」
喉が乾いていると察したのか、冷たいお茶を差し出される。
ひとくち飲めば、信じられないほど美味しくて、一気に飲み干してしまった。
「……何もされてないです」
言いながら彼の言葉を思い出して、熱くなる目元を隠すと、彼は隣に座って、その両手を優しく掴んだ。
「何も無かった顔じゃないよ」
穏やかな優しさの中に、心配の色が見えて、ぼろぼろだった心が魔法みたいに安心していく。
私は震える口元で、そのままの思いを口にした。
「……気付かされただけです。
京介のことが憎くて、怖くて、もう散々だって思うのに。
同棲してた家に女性を連れ込むような人許せないって思うのに……。
それでも「俺と一緒にいたいなら謝れよ」って、そう言われて謝りそうになった」
さっきの出来事を口にすると、藤堂さんは驚いたように、手のひらの力を弛めた。
自由になった両手で、私はまた涙を隠す。
「私、もう離れられないんです。
京介のこと最低だって思うのに……。
あんな生活、もう嫌なのに、せっかく藤堂さんに助けてもらったのに……」
涙が流れていくまま、私は藤堂さんを見つめた。
こんな話をしてもまだ心配の色をしている彼の瞳は、本当に私になんて向けられるべきじゃないと思いながら。
また最低で自分勝手な気持ちを口にする。
「……藤堂さんのこと、好きになりたい……っ」
一瞬の沈黙のあと、藤堂さんは、今まで見たことのない表情で笑った。
「好きになってよ。茉莉が楽になるのなら、どれだけでも俺を利用して」
低い声で、初めて名前を呼ばれる。
「俺だって、茉莉のことを利用してるんだ」
その小さな声に、私は目を見開いた。
——ずるい。
意地悪な顔をして言うその一言さえ、今の私が一番欲しかったものだったのだ。
利用しているという言葉の裏に、どんな本音があるのかは分からないけど。
今の私にとっては、罪悪感を薄めてくれる都合の良い言葉に違いなかった。
「俺は、茉莉が必要としてくれる限りは離れないよ。絶対にひとりにはしない」
わたしはその言葉を聞きおわる前に、彼の唇に口付けした。
彼は、そのまま、優しく私の口付けを受け止める。
私は最低だけど、藤堂さんも大概残酷だ。
だって、ひとりにはしないなんて言っておいて、彼にとって、私はただの一人の女性じゃない。
その事実は、洗濯物に紛れた名刺や、時々シャツに残る口紅の跡が、何度も教えてくれていた。
気付けば体制は逆になり、彼の柔らかな唇が首筋に沿っていく。
痺れるような快感に、現実がぼやけていくのが心地いい。
残酷なくらいで、いいのかもしれない。
誰かが自分だけを大切にしてくれるなんて、もう信じられる気がしなかった。
京介に引き裂かれた心は、思っていた以上に深く傷ついていて、そんな純朴な信用なんて持ってくれない。
それなら、最初から。
この人の特別にはなれないと分かっていたって、不確かな関係のまま寄りかかる弱さを、許してもらえるなら。
……それで幸せだと思ってしまう私は、やっぱり、ずるいのかもしれない。
「……柊真さん、好きです」
自分を騙すようにそう言って彼の首に腕を回す。
彼は私を受け入れて、ぎゅぅと力を強めてくれた。
今まで何度も、落ち込んだ夜に、眠れないときに、彼はただ黙って抱きしめてくれた。
でも今夜は違う。
優しさだけじゃない熱を帯びた腕に包まれながら、私は彼に寄りかかる弱さを受け入れた。
_/_/_/_/_/_/
次の週末。
泣き腫らしてパンパンの目で、いくつかの段ボールを持って帰宅した私を、柊真さんは嬉しそうに招き入れた。
「頑張ったね」
「はい」
優しく撫でてくれる大きな手に、京介との思い出が完全に塗り潰されるまで。
私はこの人のことを好きでいる。
_/_/_/_/_/_/
第11話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
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