フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛

春咲さゆ

文字の大きさ
11 / 48
第一章 暗闇は深く

第10話 変わっていく生活

しおりを挟む
 藤堂さんの家に居候を始めて、私の生活は信じられないほど安定した。

 住ませてもらっていることのお礼に、少し早起きして朝食の準備をするのも、もうだいぶ慣れてきた。

 フライパンから立ち上る匂いが部屋に広がった頃、寝起きのラフなシャツ姿の藤堂さんがキッチンに顔を出す。

「おはよう、今日もいい匂いだね」

 ちょうど盛り付けを終えた私は、振り返って軽く笑った。

「おはようございます」

 テーブルには卵焼きとおみそ汁、簡単なサラダ。
 藤堂さんはそれを一度眺めてから、いつものように椅子に腰を下ろした。

「朝からちゃんとしてるよな。無理してない?」

 何度目かに聞かれた言葉に、私は首を横に振る。

「大丈夫です。それに、藤堂さんは普段コーヒーだけでしょう?それじゃ体に良くないです」

「まあ……そうなんだけど」

 少し困ったように笑う彼に、私は箸を差し出す。

「ここにいさせてもらってる間くらい、私に任せてください」
「……ありがとう。でも、本当に無理はしないで」
「はい。気をつけます」

「じゃあ、いただこうかな。今日も美味しそう」

 そう言って箸を持つ藤堂さんは、ふと子供みたいな表情になった。

 会社では決して見せないその無防備な表情が、少しだけ嬉しい。

 食欲が湧かなかった以前が嘘みたいに、私は幸せな気持ちで朝食を口にしていた。


_/_/_/_/_/_/


 藤堂さんを送り出してから少し時間を空けて、私も家を出た。

 それは、同じ家から出てきたと知られないための、当たり前になりつつあるふたりのルールだった。

 駅へ向かう道は、朝の光が少しずつ柔らかくなってきている。

 そろそろ暖かくなる。
 春先のブラウスを取りに一度帰らないといけない。

 流れるように京介のことを思い出し、私は小さくため息をついた。

 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、つり革につかまる。

 窓に映る自分は、以前よりは血色がよく健康的な表情に見えた。

 どれもこれも藤堂さんのおかげ。
 冗談でも大袈裟でもなく、彼は私の命の恩人になってしまった。

 そんな彼が、こんなにも良くしてくれているのに、私は一時も、京介のことを忘れられない。

 必要なものだけを選んで持ち出した仮の生活のまま、荷物はほんの少しずつしか持ち出すことができないのだ。

 いつか「帰ってこい」と言われたら、戻れるように。

 そんな帰り道を、まだ手放せずにいる自分が情けない。

 終わらせる覚悟が足りないのか、完全に切り離してしまうのが怖いだけなのか。

 電車が揺れて、窓の外の景色が流れていく。

 なんだか私だけが置き去りになっているみたいで苦しくなった。

 ——このままじゃだめなことは分かってる。

 藤堂さんにだって、ずっと甘えてはいられない。

 家を探して、ちゃんと区切りをつけて、全部終わらせる。

 そう決めたはずなのに、胸の奥にはまだ、揺れる気持ちが残っていた。


_/_/_/_/_/_/


 出社すると、夏目さんが泣きそうな顔で私のところへやってきた。

「木崎さぁん……っ、もう無理です……」
 というより、もうほとんど泣いている。

 彼女のそんな姿を見るのは初めてで、思わず目を見開く。

 夏目さんといえば、いつも適当で、怒られてもどこかケロッとしている印象の方が強い。

「どうしたの?」

 体を向けながら画面を見て、何となく理由を察する。

 藤堂さんが参画している「アルカ」の新作アップデート。
 そのプロジェクトのアシスタントには、夏目さんが抜擢されていたはずだ。

 正確には、自主的立候補だけど。

 数日前まで彼女は幸せそうに喜んでいた。

「藤堂さん、かっこいい!同じプロジェクトなんて超目の保養~~」と。

「あんな人だと思わなかったです~……」

 こんな数日で泣かされることになるとは私だけではなく、彼女自身も思わなかったことだろう。

 話を聞くと、資料の修正と内容理解で何度も突き返され、今日で三回目。

 赤字はまだ多く、心が折れてしまったらしい。

 資料を覗き込みながら、私は正直に言う。

「でもここ、これまでも指摘されてたところだよ。
 難しいことは言われてないと思うから出来るよ大丈夫。一個ずつ直そう。途中で見せて、私も確認するから」

「ありがとうございます……っ」

 鼻を啜りながらも、夏目さんは小さく頷いた。

 その姿に彼女が入社一年目だった頃を、ふと思い出す。

 肩を落としていても決して途中では諦めない。
 そんな良いところを昔も感じたことがあるのに、ここ最近は忘れてしまっていた。

 最近は仕事にも慣れて、叱られてもどこか他人事みたいに受け流すことが増えていたし。

 だからこそ、藤堂さんはどんな言葉で、どんな表情で伝えたのかに興味が湧いた。

 やっぱり凄いな、と素直に思う。

 数時間後、何度もチェックして提出した書類を手に、藤堂さんが夏目さんの席にやってくる。

「やばい、木崎さん、また来た……っ!」

 ふるふるとうさぎのように震えて助けを求めてくる彼女に苦笑いしながらしっかり対応するように頷く。

 彼女は強ばった顔で彼の言葉を待った。

「やるじゃん」

 夏目さんの顔が、一瞬でぱっと明るくなる。
 隣でこっそりと聞き耳を立てていた私も、小さく息をついた。

 良かった、無事通ったみたい。

 安心したのも束の間、藤堂さんは空気をピリッと冷たく変えた。

「でも、これ、ひとりじゃないよね」
「えっ……」

 隣で、夏目さんの焦った声が聞こえる。

 手を出しすぎたかもしれない、という後悔が胸をよぎり、私も身を隠すように隣で肩を竦めた。

「ちゃんと自分でやり切れるようになってもらわないと困る。もう三年目だろ」

 空気が一気に冷える。

「言っておくけど、今回の指摘は全部初歩的なものだ。次、同じ指摘があれば即突き返す」

 ——こわ。
 家での空気が嘘みたいな、冷徹さだった。

 入社してから1ヶ月。
 彼の有能さに加えて、その冷徹さは社内でも周知のものとなっている。

 けれど藤堂さんは、資料を閉じてから続けた。

「でも、やり切ったのはえらい。次はここ。分からなかったら、聞きに来て」

「はい!ありがとうございます!」

 何とか乗り越えた夏目さんが小さく息を吸うのが分かって私もホッとした。

「それと、助けてくれたの、木崎さんでしょ」

 ずっと隣でこっそり聞いていた私。
 突然話しかけられたことに驚いて大きく肩を揺らしてしまう。

「丁寧な資料だったからすぐ分かったよ」

「いやえっとその……」

 夏目さんがやったことにしてあげたかったんだけど。
 少し迷ってから私は席を立って小さく頭を下げた。

「はい。余計な手出しをしてしまったかもしれません、すみません」

 藤堂さんは首を左右に振って、資料に視線を落とす。

「いや、見やすくて理想通りの資料だった。近くにこんな先輩がいるなら、夏目さんもきっとすぐ成長する」

 ほんの一瞬、口角だけがわずかに上がる。
 その微笑みに、フロア全体がざわついた。

「ありがとうございます」
「うん、引き続きよろしくお願いします」

 去っていく後ろ姿から、私はしばらく目を離せなかった。


_/_/_/_/_/_/


第10話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!

次回もぜひよろしくお願いいたします。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

わたしの愉快な旦那さん

川上桃園
恋愛
 あまりの辛さにブラックすぎるバイトをやめた。最後塩まかれたけど気にしない。  あ、そういえばこの店入ったことなかったな、入ってみよう。 「何かお探しですか」  その店はなんでも取り扱うという。噂によると彼氏も紹介してくれるらしい。でもそんなのいらない。彼氏だったらすぐに離れてしまうかもしれないのだから。  店員のお兄さんを前にてんぱった私は。 「旦那さんが欲しいです……」  と、斜め上の回答をしてしまった。でもお兄さんは優しい。 「どんな旦那さんをお望みですか」 「え、えっと……愉快な、旦那さん?」  そしてお兄さんは自分を指差した。 「僕が、お客様のお探しの『愉快な旦那さん』ですよ」  そこから始まる恋のお話です。大学生女子と社会人男子(御曹司)。ほのぼのとした日常恋愛もの

偽装結婚を偽装してみた

小海音かなた
恋愛
「家借りるときさぁ、保証人が必要だと困るとき来そうで不安なんだよね」 酒の席で元後輩にそんなことをグチったら、旦那ができました――。 降って湧いたような結婚話を承諾したら、そこにはすれ違いの日々が待っていた?! 想いを寄せている相手の気持ちに確信が持てず、“偽装”を“偽装している”夫婦のモダモダ遠回り生活。 苦くてしょっぱくて甘酸っぱい、オトナ思春期ラブストーリー第2弾。 ※毎日19時、20時、21時に一話ずつ公開していきます。

ワケあり上司とヒミツの共有

咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。 でも、社内で有名な津田部長。 ハンサム&クールな出で立ちが、 女子社員のハートを鷲掴みにしている。 接点なんて、何もない。 社内の廊下で、2、3度すれ違った位。 だから、 私が津田部長のヒミツを知ったのは、 偶然。 社内の誰も気が付いていないヒミツを 私は知ってしまった。 「どどど、どうしよう……!!」 私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?

夜の帝王の一途な愛

ラヴ KAZU
恋愛
彼氏ナシ・子供ナシ・仕事ナシ……、ないない尽くしで人生に焦りを感じているアラフォー女性の前に、ある日突然、白馬の王子様が現れた! ピュアな主人公が待ちに待った〝白馬の王子様"の正体は、若くしてホストクラブを経営するカリスマNO.1ホスト。「俺と一緒に暮らさないか」突然のプロポーズと思いきや、契約結婚の申し出だった。 ところが、イケメンホスト麻生凌はたっぷりの愛情を濯ぐ。 翻弄される結城あゆみ。 そんな凌には誰にも言えない秘密があった。 あゆみの運命は……

社長から逃げろっ

鳴宮鶉子
恋愛
社長から逃げろっ

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!

楓乃めーぷる
恋愛
 見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。  秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。  呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――  地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。  ちょっとだけ三角関係もあるかも? ・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。 ・毎日11時に投稿予定です。 ・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。 ・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...