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第二章 光となる人
第17話 彼の気持ち
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私はリビングでスマホを眺めながら、オーブンから漂ってくる甘い匂いを楽しんでいた。
リビングは静かだ。
土日の今日は私はお休みだけど、個人で事業を持つ柊真さんは在宅で仕事をしている。
彼が朝から引きこもっているのは、玄関を入ってすぐ左手にある仕事部屋。
人がいないように思えるほどの静けさに、彼の集中力を思い知る。
対照的に予定のない私は、暇を持て余すように家事に力を入れていた。
だけど心の奥には、彼の力になりたいという本音が渦巻いているのを、もう私は自覚している。
通勤するときと同じ時間に起きて、朝食を用意した。
仕事部屋へいく柊真さんを見送った後は、掃除機をかけ、洗濯を回し。
ひと息ついた頃に冷蔵庫を開けて、少しだけ手の込んだ昼食を作った。
頼まれたわけでもないのに、体が勝手に動く。
このわくわくして楽しい感覚は、本当に久しぶりだった。
——京介と出会ってすぐの頃は、こんな感じだったっけ。
思い返してみれば、彼に喜んでほしくて、いつも私のほうが動き回っていた。
そう考えると、最近の私は、確かに京介の言う通りだったのかもしれない。
きっと、怖いという気持ちばかりが先立って、自分から彼のために何かをしようとすることが、なくなっていたんだと思う。
——京介の言うことにも、一理はあったんだ。
そう冷静に思えている自分に、少し驚く。
一人でいるとやっぱり思い出すことはあるけれど、それでも以前のような、どうしようもない喪失感はもうなかった。
それよりも今は、柊真さんの役に立ちたいと思える自分が、ただ嬉しい。
_/_/_/_/_/_/
手持ち無沙汰で作っていたフィナンシェが焼き上がり、オーブンから取り出したところで、柊真さんが仕事部屋から出てきた。
黒いパーカーにグレーのスウェット姿の藤堂さんがリビングを覗き込んできた。
下ろした前髪が眼鏡にかかるその柔らかな雰囲気に、胸がふと高鳴る。
「美味しそうな匂い」
「あ、柊真さん……」
私は、ちょうど手に持っていた小皿を差し出す。
「よかったら、休憩にどうぞ」
少し照れながら言うと、彼は一瞬目を丸くして、それからぱっと笑った。
「作ったの?ちょうどコーヒーを取りに来たところなんだ。いただこうかな」
「それじゃあ、コーヒーも入れますね」
そう言って踵を返した、その瞬間だった。
背後から、そっと抱きしめられる。
「茉莉がいる在宅勤務もいいな」
耳元で聞こえた声に、体が小さく震えた。
京介を忘れさせるための、私たちの恋愛の真似事は継続中。
「っ……」
ドキドキしてしまっているこの気持ちが伝わってしまわないか私は気が気ではなかった。
だって、本当に柊真さんのことを好きになってしまったら。
京介を忘れ去ることができてしまったら。
柊真さんは離れていってしまうかもしれない。
そんな不安を誤魔化すように、私はお腹に回された彼の手の甲に、そっと触れる。
「そう言われると、迷惑だけじゃないのかなって、少しだけ安心します」
小さくそう告げると、柊真さんは腕を少し緩めて、いつもより控えめに、私の頭を撫でた。
その仕草が、いつも以上に彼を近く感じさせて、私は受け入れるように目を閉じた。
_/_/_/_/_/_/
夕方になり、早めに仕事を切り上げてくれた柊真さんと、一緒にキッチンに立つ。
「お仕事お疲れさまです。先にお風呂に入りますか?」
リビングに来た彼にそう声をかけると、私の隣まで歩み寄った。
「今日もありがとう。おかげで捗ったよ」
少し大げさな言い方が可笑しくて、つい吹き出してしまう。
「そんな、大したことしてないですよ」
「いや、本当に助かるよ。茉莉が、朝も昼もご飯を用意してくれたおかげで集中できた。前は仕事に没頭しすぎて、食事を忘れることも多かったから」
「助かる」という一言が、胸にじんわりと広がる。
私のささやかな行動が、彼の生活に少しでも寄り添えていると思うと、嬉しくてたまらない。
これから作ろうとしていた夕食にも気合いが入る。
そんな気持ちで腕まくりをしながら、彼に笑いかけた。
「今日は、春巻きを作ろうと思ってて」
「春巻き? いいな。俺も手伝うよ」
柊真さんも真似をするようにパーカーの袖を捲るから、私は慌てて両手を振った。
「いいですよ。私がやりますから。柊真さんは休んでてください」
「いや、二人でやったほうが早いだろ。それに、全部任せるのも悪いし」
押し問答が繰り返される中、私たちは気づけば声を立てて笑っていた。
特別なことは何もしていない。
それでも、こんな何気ない時間さえ、柊真さんと一緒だと、少しだけ特別に感じられるのだ。
春巻きを油に入れると、ぱちぱちと小さな音が立った。
その様子を、柊真さんが少し後ろから眺めている。
「いい匂いだな」
その声に、なんとなく気持ちが緩んだ、そのときだった。
キッチンカウンターに置かれた彼のスマホが震える。
「あ、悪い。電話だ」
すぐにスマホを手にとった彼は、いつもと同じように私の頭に優しく触れてキッチンを出ていってしまう。
画面に映った名前までは見えなかったけれど。
きっと、電話の相手は女の人。
「……はい。どうしたの?」
廊下から聞こえてくる柔らかくて優しい声のトーンに、胸の奥がきゅっと苦しくなる。
私は何も考えないふりをして、春巻きに向き直った。
けれど、油の温度も、時間も、頭に入ってこない。
狐色になるのを待てず、何度も箸で触ってしまう。
——きっと彼はこのあと、あの電話の先の人のところへ行ってしまう。
分かってる。
私だって、偶然の産物でここにいる。
私の方が、邪魔をしている方なのかもしれないんだから。
必死に言い聞かせるけれど、感情は言うことを聞いてくれなかった。
揚げ物の途中だというのに、思わず廊下へ出そうになる。
——行かないで。
リビングの扉に手をかけた瞬間、ちょうど柊真さんが戻ってきて扉が開かれた。
至近距離で目が合ってしまい、私は目を丸くした。
その振動で、いつの間にか溜まっていた潤いが一筋の雫となって頬に流れる。
頬にできた一本の道筋を、彼がはっきり見てしまったのが分かった。
「ど、どうしたの」
戸惑った声が聞こえ、頭が真っ白になった私は、彼の胸に飛び込んでいた。
ぎゅっと、彼の大きな背中に手を伸ばす。
「……っ」
言いたい言葉は、喉まで出てきていた。
だけど、それを言ってはいけないことだけは、その理性だけは最後まで残り続ける。
「……なんでも、ないです」
なんとか絞り出すようにそう言って、腕をほどく。
そのまま背を向けて、私はキッチンへ戻った。
春巻きは、焦げるぎりぎりのところで色づいている。
慌てて引き上げると、その一つだけこんがりとした揚げ色になってしまっていた。
まだ半分ある残りの春巻きは揚げずに火を止めた。
きっと、これは私一人で食べることになるから、これだけあれば十分だから。
「春巻き、冷蔵庫に入れておきますね」
できるだけ明るい声を作って柊真さんに声をかけた。
「もし帰ってきて、お腹減ってたら、揚げて食べてください」
彼の膝あたりを見つめ、顔を向けられないまま言う。
「茉莉」
心配そうに名前を呼ばれて、堪えていたものが一気に込み上げる。
目に溜まった涙は、俯いているせいで簡単に落ちていって、私は慌てて彼に背を向け、天井を仰いだ。
少しの沈黙のあと、足音が近づく気配がして、コンロに火が入る音がした。
「なんで泣くの。一緒に食べよう」
背中から聞こえる声は、少し困っているようだった。
じゅわ、と油の音がして振り返ると、残りの春巻きを揚げる彼の背中があった。
「でも……連絡……」
電話先の女性については、直接口にしたことのない話題で、どう伝えたらいいのか分からず、言葉が途切れる。
柊真さんは、春巻きを入れ終えてから、こちらを向いた。
「大丈夫だよ。いつも、気遣ってくれてありがとう」
本質には触れないまま、彼は曲げた指で、そっと私の頬の涙を拭った。
何も言えなかった。
困った声を出させてしまったことへの後悔と、残ってくれたことへの嬉しさがぐるぐると胸を締め付けていって。
言われた言葉を受け取ることしかできない私は、ただ流れる涙を止めるしかなかった。
_/_/_/_/_/_/
そして、無言のまま、食事が始まってしまった。
お皿の上の春巻きは、ちゃんと美味しそうに揚がっているはずなのに、味がしない。
「美味しいね」
彼の言葉にも、曖昧に頷くことしかできなかった。
引き留めておいて、自分だけ切り替えられずにいる。
そんな自分が情けなくて、自己嫌悪が止まらなかった。
——すっきりしないから、余計に苦しい。
ぐるぐると回り続ける頭で、行き着いた結論に、気づいたら口が先に動いていた。
「あの……」
柊真さんは「ん?」と優しく言葉を待ってくれている。
「さっきの電話って……彼女さん、ですか?」
前置きもなく投げてしまった言葉に、はっとして顔を上げた。
柊真さんは、こちらを見ていた。
見たことのない表情に、私の方が驚いて固まってしまう。
少し冷たくも見えて、困っているようでもあって、どうにも掴めない表情だった。
——間違えた。
彼女かどうかなんて、私が気にしていいことじゃない……。
慌てて、私は言い訳のように言葉を重ねた。
「や、あの……もしそうなら、私も早く出ていかなくちゃって思って……」
小さくなっていく語尾に、気まずい沈黙ができたあと、柊真さんがふっと笑った。
「……なんだ」
彼の口調に、息苦しかった雰囲気が一気に緩む。
「ずっと、そう思ってたの?」
そう言って、首を振る彼は、はっきりと否定をした。
「違うよ。彼女はいない」
驚いたけれど、私はまた自分に言い聞かせる。
絶対嘘だ。
あんなに優しい声で、返答をする相手が、特別じゃないわけがない。
「でも……」
言葉を挟もうとした私に、彼は箸を置いて、静かに続けた。
「本当に違うんだ。だから、気にしないで。茉莉が俺を必要としてる限り、俺は離れないから。いつまででもいてくれていい」
その言葉に、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
安心と、それ以上に、どうしていいか分からない感情が、いっぺんに押し寄せてきた。
ずっと前から、ぼんやりと感じていた違和感。
温かさは感じるのに、奥へ踏み込もうとすれば、全く読み取れない彼自身の感情。
今になって、それがはっきりと形を持って現れた気がした。
私が必要としているから、そばにいてくれている。
——それって、柊真さんの気持ちは、どこにあるんだろう。
考え始めた途端、その奥にあるものがひどく冷たいもののような気がして、少し怖くなった。
結局私はそれ以上踏み込むことができず、曖昧なままの距離に、身を置くことを選んでしまった。
_/_/_/_/_/_/
第17話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
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恋愛小説大賞よろしくお願いいたします…!
引き続きお話は続きます!
次回もぜひよろしくお願いいたします。
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土日の今日は私はお休みだけど、個人で事業を持つ柊真さんは在宅で仕事をしている。
彼が朝から引きこもっているのは、玄関を入ってすぐ左手にある仕事部屋。
人がいないように思えるほどの静けさに、彼の集中力を思い知る。
対照的に予定のない私は、暇を持て余すように家事に力を入れていた。
だけど心の奥には、彼の力になりたいという本音が渦巻いているのを、もう私は自覚している。
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頼まれたわけでもないのに、体が勝手に動く。
このわくわくして楽しい感覚は、本当に久しぶりだった。
——京介と出会ってすぐの頃は、こんな感じだったっけ。
思い返してみれば、彼に喜んでほしくて、いつも私のほうが動き回っていた。
そう考えると、最近の私は、確かに京介の言う通りだったのかもしれない。
きっと、怖いという気持ちばかりが先立って、自分から彼のために何かをしようとすることが、なくなっていたんだと思う。
——京介の言うことにも、一理はあったんだ。
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一人でいるとやっぱり思い出すことはあるけれど、それでも以前のような、どうしようもない喪失感はもうなかった。
それよりも今は、柊真さんの役に立ちたいと思える自分が、ただ嬉しい。
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手持ち無沙汰で作っていたフィナンシェが焼き上がり、オーブンから取り出したところで、柊真さんが仕事部屋から出てきた。
黒いパーカーにグレーのスウェット姿の藤堂さんがリビングを覗き込んできた。
下ろした前髪が眼鏡にかかるその柔らかな雰囲気に、胸がふと高鳴る。
「美味しそうな匂い」
「あ、柊真さん……」
私は、ちょうど手に持っていた小皿を差し出す。
「よかったら、休憩にどうぞ」
少し照れながら言うと、彼は一瞬目を丸くして、それからぱっと笑った。
「作ったの?ちょうどコーヒーを取りに来たところなんだ。いただこうかな」
「それじゃあ、コーヒーも入れますね」
そう言って踵を返した、その瞬間だった。
背後から、そっと抱きしめられる。
「茉莉がいる在宅勤務もいいな」
耳元で聞こえた声に、体が小さく震えた。
京介を忘れさせるための、私たちの恋愛の真似事は継続中。
「っ……」
ドキドキしてしまっているこの気持ちが伝わってしまわないか私は気が気ではなかった。
だって、本当に柊真さんのことを好きになってしまったら。
京介を忘れ去ることができてしまったら。
柊真さんは離れていってしまうかもしれない。
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「そう言われると、迷惑だけじゃないのかなって、少しだけ安心します」
小さくそう告げると、柊真さんは腕を少し緩めて、いつもより控えめに、私の頭を撫でた。
その仕草が、いつも以上に彼を近く感じさせて、私は受け入れるように目を閉じた。
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夕方になり、早めに仕事を切り上げてくれた柊真さんと、一緒にキッチンに立つ。
「お仕事お疲れさまです。先にお風呂に入りますか?」
リビングに来た彼にそう声をかけると、私の隣まで歩み寄った。
「今日もありがとう。おかげで捗ったよ」
少し大げさな言い方が可笑しくて、つい吹き出してしまう。
「そんな、大したことしてないですよ」
「いや、本当に助かるよ。茉莉が、朝も昼もご飯を用意してくれたおかげで集中できた。前は仕事に没頭しすぎて、食事を忘れることも多かったから」
「助かる」という一言が、胸にじんわりと広がる。
私のささやかな行動が、彼の生活に少しでも寄り添えていると思うと、嬉しくてたまらない。
これから作ろうとしていた夕食にも気合いが入る。
そんな気持ちで腕まくりをしながら、彼に笑いかけた。
「今日は、春巻きを作ろうと思ってて」
「春巻き? いいな。俺も手伝うよ」
柊真さんも真似をするようにパーカーの袖を捲るから、私は慌てて両手を振った。
「いいですよ。私がやりますから。柊真さんは休んでてください」
「いや、二人でやったほうが早いだろ。それに、全部任せるのも悪いし」
押し問答が繰り返される中、私たちは気づけば声を立てて笑っていた。
特別なことは何もしていない。
それでも、こんな何気ない時間さえ、柊真さんと一緒だと、少しだけ特別に感じられるのだ。
春巻きを油に入れると、ぱちぱちと小さな音が立った。
その様子を、柊真さんが少し後ろから眺めている。
「いい匂いだな」
その声に、なんとなく気持ちが緩んだ、そのときだった。
キッチンカウンターに置かれた彼のスマホが震える。
「あ、悪い。電話だ」
すぐにスマホを手にとった彼は、いつもと同じように私の頭に優しく触れてキッチンを出ていってしまう。
画面に映った名前までは見えなかったけれど。
きっと、電話の相手は女の人。
「……はい。どうしたの?」
廊下から聞こえてくる柔らかくて優しい声のトーンに、胸の奥がきゅっと苦しくなる。
私は何も考えないふりをして、春巻きに向き直った。
けれど、油の温度も、時間も、頭に入ってこない。
狐色になるのを待てず、何度も箸で触ってしまう。
——きっと彼はこのあと、あの電話の先の人のところへ行ってしまう。
分かってる。
私だって、偶然の産物でここにいる。
私の方が、邪魔をしている方なのかもしれないんだから。
必死に言い聞かせるけれど、感情は言うことを聞いてくれなかった。
揚げ物の途中だというのに、思わず廊下へ出そうになる。
——行かないで。
リビングの扉に手をかけた瞬間、ちょうど柊真さんが戻ってきて扉が開かれた。
至近距離で目が合ってしまい、私は目を丸くした。
その振動で、いつの間にか溜まっていた潤いが一筋の雫となって頬に流れる。
頬にできた一本の道筋を、彼がはっきり見てしまったのが分かった。
「ど、どうしたの」
戸惑った声が聞こえ、頭が真っ白になった私は、彼の胸に飛び込んでいた。
ぎゅっと、彼の大きな背中に手を伸ばす。
「……っ」
言いたい言葉は、喉まで出てきていた。
だけど、それを言ってはいけないことだけは、その理性だけは最後まで残り続ける。
「……なんでも、ないです」
なんとか絞り出すようにそう言って、腕をほどく。
そのまま背を向けて、私はキッチンへ戻った。
春巻きは、焦げるぎりぎりのところで色づいている。
慌てて引き上げると、その一つだけこんがりとした揚げ色になってしまっていた。
まだ半分ある残りの春巻きは揚げずに火を止めた。
きっと、これは私一人で食べることになるから、これだけあれば十分だから。
「春巻き、冷蔵庫に入れておきますね」
できるだけ明るい声を作って柊真さんに声をかけた。
「もし帰ってきて、お腹減ってたら、揚げて食べてください」
彼の膝あたりを見つめ、顔を向けられないまま言う。
「茉莉」
心配そうに名前を呼ばれて、堪えていたものが一気に込み上げる。
目に溜まった涙は、俯いているせいで簡単に落ちていって、私は慌てて彼に背を向け、天井を仰いだ。
少しの沈黙のあと、足音が近づく気配がして、コンロに火が入る音がした。
「なんで泣くの。一緒に食べよう」
背中から聞こえる声は、少し困っているようだった。
じゅわ、と油の音がして振り返ると、残りの春巻きを揚げる彼の背中があった。
「でも……連絡……」
電話先の女性については、直接口にしたことのない話題で、どう伝えたらいいのか分からず、言葉が途切れる。
柊真さんは、春巻きを入れ終えてから、こちらを向いた。
「大丈夫だよ。いつも、気遣ってくれてありがとう」
本質には触れないまま、彼は曲げた指で、そっと私の頬の涙を拭った。
何も言えなかった。
困った声を出させてしまったことへの後悔と、残ってくれたことへの嬉しさがぐるぐると胸を締め付けていって。
言われた言葉を受け取ることしかできない私は、ただ流れる涙を止めるしかなかった。
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そして、無言のまま、食事が始まってしまった。
お皿の上の春巻きは、ちゃんと美味しそうに揚がっているはずなのに、味がしない。
「美味しいね」
彼の言葉にも、曖昧に頷くことしかできなかった。
引き留めておいて、自分だけ切り替えられずにいる。
そんな自分が情けなくて、自己嫌悪が止まらなかった。
——すっきりしないから、余計に苦しい。
ぐるぐると回り続ける頭で、行き着いた結論に、気づいたら口が先に動いていた。
「あの……」
柊真さんは「ん?」と優しく言葉を待ってくれている。
「さっきの電話って……彼女さん、ですか?」
前置きもなく投げてしまった言葉に、はっとして顔を上げた。
柊真さんは、こちらを見ていた。
見たことのない表情に、私の方が驚いて固まってしまう。
少し冷たくも見えて、困っているようでもあって、どうにも掴めない表情だった。
——間違えた。
彼女かどうかなんて、私が気にしていいことじゃない……。
慌てて、私は言い訳のように言葉を重ねた。
「や、あの……もしそうなら、私も早く出ていかなくちゃって思って……」
小さくなっていく語尾に、気まずい沈黙ができたあと、柊真さんがふっと笑った。
「……なんだ」
彼の口調に、息苦しかった雰囲気が一気に緩む。
「ずっと、そう思ってたの?」
そう言って、首を振る彼は、はっきりと否定をした。
「違うよ。彼女はいない」
驚いたけれど、私はまた自分に言い聞かせる。
絶対嘘だ。
あんなに優しい声で、返答をする相手が、特別じゃないわけがない。
「でも……」
言葉を挟もうとした私に、彼は箸を置いて、静かに続けた。
「本当に違うんだ。だから、気にしないで。茉莉が俺を必要としてる限り、俺は離れないから。いつまででもいてくれていい」
その言葉に、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
安心と、それ以上に、どうしていいか分からない感情が、いっぺんに押し寄せてきた。
ずっと前から、ぼんやりと感じていた違和感。
温かさは感じるのに、奥へ踏み込もうとすれば、全く読み取れない彼自身の感情。
今になって、それがはっきりと形を持って現れた気がした。
私が必要としているから、そばにいてくれている。
——それって、柊真さんの気持ちは、どこにあるんだろう。
考え始めた途端、その奥にあるものがひどく冷たいもののような気がして、少し怖くなった。
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