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第三章 一番星の光
第33話 これからの話
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週が明け、会社に出社すると、相変わらず胸の奥がざわついた。
最寄駅に降りた瞬間から呼吸が浅くなる感覚を押し殺して、やっとの思いで私はフロアへと足を踏み入れる。
「おはようございます」
控えめに挨拶をしながら自席に向かった。
「あぁ……おはよう」
返事をくれる社員の視線を避けるように、私は俯きがちに足を進める。
噂をきっかけに、返される挨拶のわずかな間や、声の温度にまで敏感になってしまった。
直接嫌な言葉をぶつけられたことなんて一度もないのに、それでも勝手な想像が膨らんでいくのだ。
――もうすぐ完成だし、頑張ろう。
少し前から進めていたマニュアルの作成は、ようやく形が見えてきていた。
目の前の作業に集中している間だけは、余計なことを考えずにいられる。
会社という組織の中にいながら、私はただ淡々と一台のパソコンと向かい合う毎日を過ごしていた。
_/_/_/_/_/_/
「ごめん、この修正、今日中に入れられる?」
遠くから聞こえた、柊真さんの声に、思わず顔をあげる。
「はい、すぐに取り掛かります」
彼に話しかけられた同期の男の子は、まっすぐな目で柊真さんに受け答えをしていた。
「藤堂さん、例の負荷テストの件なんですけど――」
その会話が終わる前に、横からまた別のエンジニアさんが柊真さんに話しかける。
彼のプロジェクトである『アルカ』のアップデートが佳境に入っていて、ここ最近の柊真さんは明らかに忙しそうだった。
ガタッと慌ただしい音が隣から聞こえて、肩を揺らす。
視線を向けると、資料を抱えた夏目さんが小走りでフロアを駆け抜けていくところだった。
「すみません!次の会議、資料これで大丈夫ですか?」
「ありがとう、確認する。それより会議室の準備は?」
「あ……!オンライン会議準備しておきます!」
「あと五分だよ、頼むよ!」
「はい~~っ」
切羽詰まったやり取りが続き、プロジェクトメンバーは誰一人として立ち止まらない。
見ているこちらが心配になるほどの慌ただしさなのに、不思議と彼らの表情は明るく、生き生きとしているように見えた。
ーーちょっと、羨ましいな。
柊真さんが、以前ぽつりと口にした「一緒に働く」という話は、結局、そのまま時間の底に沈んでいた。
本音を言えば、会社にいるだけで息が詰まる。
それでも、そんな弱さを、今の柊真さんにぶつけることはできなかった。
目の前で必死に走っている人の背中に、足を止めている自分の不安を投げるなんて、できるはずがない。
淡々と積み重ねているマニュアルは、確実に完成へ近づいているのに、心だけが取り残されている気がした。
それでも、今はこれしかできない。
そう言い聞かせながら、私はキーボードに視線を落とした。
_/_/_/_/_/_/
柊真さんがあんなふうに必死で走っているのだから。
彼の様子を眺めていると、なんとなく中途半端なところで切り上げる気になれなくて、私は定時を超えても作業を続けていた。
人が減ったオフィスは、余計なことを考えなくて済むから作業が捗る。
気づけば、画面に向かう指は止まらず、いつの間にかマニュアルの最終ページに到達していた。
——できた。
胸の奥に久しぶりの満足感が広がった。
今回マニュアル化したのは、必須のエラー対応や定例作業だけではない。
新人の頃に困ったこと。
人に教える立場になって、説明に詰まった記憶。
「ここ、最初からまとまってたらいいのに」と心の中でこぼした不満。
そういった経験のひとつひとつを丁寧にまとめて、1箇所にまとめていく作業だった。
椅子にもたれて大きく伸びをし、確認するように画面をスクロールする。
出来上がったのは、想像以上の分量だった。
見出しを細かく分けたページ構成は、まるで小さなウェブサイトみたいで可愛らしい。
これなら、今後人が増えても、仕様が変わっても、必要なところだけ手を入れればいい。
「我ながら、良い出来」
ふふ、と笑みをこぼしながら、私は何度もページをめくっていた。
「……茉莉」
すぐ耳元で囁くような声がして、私は勢いよく背筋を伸ばす。
会社で聞こえるはずのない声がして、驚きながら振り返ると当の本人は楽しそうな笑みを浮かべていた。
見渡してみれば、フロアはすでに静まり返っていて、灯っているのは私のデスク周りの明かりだけ。
「びっくりした」
息を吐きながら小さく笑うと、柊真さんは私の座る椅子の背もたれを回して、ちゅっと触れるだけのキスをした。
目を丸くして固まる私に微笑んで、柊真さんは平然とモニターに映るマニュアルに目を向ける。
「え、もしかして完成した?」
不意打ちにドキドキしながら私は、何度か頷いた。
「そうなんです!わかりやすくまとめられたと思います!」
このマニュアル作成の業務は急務じゃなかったこともあって、時間にゆとりがあった。
だからこそ、普段は手が回らないような細部までこだわることができて、自分としても自信があるものにできたのだと思う。
思わず柊真さんに笑顔を向けると、彼は優しく微笑んで私の頭に触れてくれた。
「……すごいな、茉莉は」
優しくて甘いその声に、胸がキュンっと鳴く。
少女漫画みたいな自分の心に浮かれている私を、彼はおかしそうに笑っていた。
_/_/_/_/_/_/
久しぶりに柊真さんと並んで帰る夜道は、幸せだった。
明日からのことを考えれば、憂鬱が消えたわけじゃない。
会社に足を踏み入れた瞬間の息苦しさも、きっとまた戻ってくる。
それでも、家に帰れば、信じられないくらい優しい彼氏がいる。
なにかあれば、すぐにぎゅっと抱きしめてくれる、安心をくれる。
そう思えただけで、仕事くらい、もう少し耐えられる気がした。
そんなことを考えながら歩いていると、隣の柊真さんがふと口を開く。
「仕事のキリもついたみたいだし……そろそろ、進めよっか」
一瞬、何の話かわからなくて、私は首を傾げた。
けれど、彼の向けてくる穏やかな微笑みが、すぐに答えを教えてくれる。
――ああ、全部わかってたんだ。
私がずっと飲み込んできたことも、後回しにしてきた話も。
その優しさが、胸の奥を静かに揺らした。
_/_/_/_/_/_/
第33話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!
次回もぜひよろしくお願いいたします。
最寄駅に降りた瞬間から呼吸が浅くなる感覚を押し殺して、やっとの思いで私はフロアへと足を踏み入れる。
「おはようございます」
控えめに挨拶をしながら自席に向かった。
「あぁ……おはよう」
返事をくれる社員の視線を避けるように、私は俯きがちに足を進める。
噂をきっかけに、返される挨拶のわずかな間や、声の温度にまで敏感になってしまった。
直接嫌な言葉をぶつけられたことなんて一度もないのに、それでも勝手な想像が膨らんでいくのだ。
――もうすぐ完成だし、頑張ろう。
少し前から進めていたマニュアルの作成は、ようやく形が見えてきていた。
目の前の作業に集中している間だけは、余計なことを考えずにいられる。
会社という組織の中にいながら、私はただ淡々と一台のパソコンと向かい合う毎日を過ごしていた。
_/_/_/_/_/_/
「ごめん、この修正、今日中に入れられる?」
遠くから聞こえた、柊真さんの声に、思わず顔をあげる。
「はい、すぐに取り掛かります」
彼に話しかけられた同期の男の子は、まっすぐな目で柊真さんに受け答えをしていた。
「藤堂さん、例の負荷テストの件なんですけど――」
その会話が終わる前に、横からまた別のエンジニアさんが柊真さんに話しかける。
彼のプロジェクトである『アルカ』のアップデートが佳境に入っていて、ここ最近の柊真さんは明らかに忙しそうだった。
ガタッと慌ただしい音が隣から聞こえて、肩を揺らす。
視線を向けると、資料を抱えた夏目さんが小走りでフロアを駆け抜けていくところだった。
「すみません!次の会議、資料これで大丈夫ですか?」
「ありがとう、確認する。それより会議室の準備は?」
「あ……!オンライン会議準備しておきます!」
「あと五分だよ、頼むよ!」
「はい~~っ」
切羽詰まったやり取りが続き、プロジェクトメンバーは誰一人として立ち止まらない。
見ているこちらが心配になるほどの慌ただしさなのに、不思議と彼らの表情は明るく、生き生きとしているように見えた。
ーーちょっと、羨ましいな。
柊真さんが、以前ぽつりと口にした「一緒に働く」という話は、結局、そのまま時間の底に沈んでいた。
本音を言えば、会社にいるだけで息が詰まる。
それでも、そんな弱さを、今の柊真さんにぶつけることはできなかった。
目の前で必死に走っている人の背中に、足を止めている自分の不安を投げるなんて、できるはずがない。
淡々と積み重ねているマニュアルは、確実に完成へ近づいているのに、心だけが取り残されている気がした。
それでも、今はこれしかできない。
そう言い聞かせながら、私はキーボードに視線を落とした。
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柊真さんがあんなふうに必死で走っているのだから。
彼の様子を眺めていると、なんとなく中途半端なところで切り上げる気になれなくて、私は定時を超えても作業を続けていた。
人が減ったオフィスは、余計なことを考えなくて済むから作業が捗る。
気づけば、画面に向かう指は止まらず、いつの間にかマニュアルの最終ページに到達していた。
——できた。
胸の奥に久しぶりの満足感が広がった。
今回マニュアル化したのは、必須のエラー対応や定例作業だけではない。
新人の頃に困ったこと。
人に教える立場になって、説明に詰まった記憶。
「ここ、最初からまとまってたらいいのに」と心の中でこぼした不満。
そういった経験のひとつひとつを丁寧にまとめて、1箇所にまとめていく作業だった。
椅子にもたれて大きく伸びをし、確認するように画面をスクロールする。
出来上がったのは、想像以上の分量だった。
見出しを細かく分けたページ構成は、まるで小さなウェブサイトみたいで可愛らしい。
これなら、今後人が増えても、仕様が変わっても、必要なところだけ手を入れればいい。
「我ながら、良い出来」
ふふ、と笑みをこぼしながら、私は何度もページをめくっていた。
「……茉莉」
すぐ耳元で囁くような声がして、私は勢いよく背筋を伸ばす。
会社で聞こえるはずのない声がして、驚きながら振り返ると当の本人は楽しそうな笑みを浮かべていた。
見渡してみれば、フロアはすでに静まり返っていて、灯っているのは私のデスク周りの明かりだけ。
「びっくりした」
息を吐きながら小さく笑うと、柊真さんは私の座る椅子の背もたれを回して、ちゅっと触れるだけのキスをした。
目を丸くして固まる私に微笑んで、柊真さんは平然とモニターに映るマニュアルに目を向ける。
「え、もしかして完成した?」
不意打ちにドキドキしながら私は、何度か頷いた。
「そうなんです!わかりやすくまとめられたと思います!」
このマニュアル作成の業務は急務じゃなかったこともあって、時間にゆとりがあった。
だからこそ、普段は手が回らないような細部までこだわることができて、自分としても自信があるものにできたのだと思う。
思わず柊真さんに笑顔を向けると、彼は優しく微笑んで私の頭に触れてくれた。
「……すごいな、茉莉は」
優しくて甘いその声に、胸がキュンっと鳴く。
少女漫画みたいな自分の心に浮かれている私を、彼はおかしそうに笑っていた。
_/_/_/_/_/_/
久しぶりに柊真さんと並んで帰る夜道は、幸せだった。
明日からのことを考えれば、憂鬱が消えたわけじゃない。
会社に足を踏み入れた瞬間の息苦しさも、きっとまた戻ってくる。
それでも、家に帰れば、信じられないくらい優しい彼氏がいる。
なにかあれば、すぐにぎゅっと抱きしめてくれる、安心をくれる。
そう思えただけで、仕事くらい、もう少し耐えられる気がした。
そんなことを考えながら歩いていると、隣の柊真さんがふと口を開く。
「仕事のキリもついたみたいだし……そろそろ、進めよっか」
一瞬、何の話かわからなくて、私は首を傾げた。
けれど、彼の向けてくる穏やかな微笑みが、すぐに答えを教えてくれる。
――ああ、全部わかってたんだ。
私がずっと飲み込んできたことも、後回しにしてきた話も。
その優しさが、胸の奥を静かに揺らした。
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第33話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
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