フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛

春咲さゆ

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第四章 支え合いの形

第36話 新生活

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 数日間の出勤を終え、有給消化に入った私は、ソファに身を預けてのびのびとくつろいでいた。

 今日は柊真さんも在宅ワークで家にいるので、本当は、何か手伝わなきゃと思ってはいる。
 けれど、久しぶりに肩の力を抜いたせいか、身体はなかなか言うことを聞いてくれなかった。

「茉莉、今ちょっといい?」

 突然、静かなリビングに、柊真さんの声が落ちた。

 その一言を聞いた瞬間、反射的に背筋が伸びる。
 ソファから立ち上がり、慌てて入口に立つ彼を見つめた。

「は、はい……!」

 そんな私を見て、柊真さんは少し驚いたあと、くすっと笑う。

「ゆっくりしてて大丈夫だよ」

 柔らかくそう言われて、ようやく自分が過剰に緊張していたことに気づいた。

「無事に辞められたわけだし……これからの話をしようかなって思って」

 そう言って、柊真さんは私をもう一度ソファに座らせてから、隣に腰を下ろした。

 ソファがわずかに沈み、その距離の近さに、胸が小さく跳ねる。

「あ……その、柊真さんのところで働かせていただける、っていう話ですよね。でも、改めてなんですけど、本当にいいんですか?」

 言葉を選びながら、私は続ける。

「正直、辞める勇気をもらえただけで、十分すぎるくらいで……転職も、ちゃんと頑張りますし。ですから――」

 そこまで言ったところで、柊真さんの表情が、わずかに変わった。

 眉を寄せて、少しだけ不満そうな顔。

「……また、そんなこと言う」

 低くそう言って、こちらを見る。

「俺が、茉莉の力を借りたいって思ったんだよ。
 もちろん、嫌なら断っていいよ。でも、それは遠慮じゃなくて、ちゃんと考えた上でなら聞く」

 彼の不貞腐れたような声色は珍しい。

「い、嫌だなんて、そんな……!」

 思わず即答してしまって、我ながら心は正直だと笑いそうになってしまう。
 私は一度息を吸い込み、余計な言葉を飲み込んだ。

「……働かせていただきたいです。お世話になります」

 はっきりと告げると、柊真さんは嬉しそうに、ふっと笑った。

「こちらこそ、お願いします。……って、堅いな」

 横から私の顔を覗き込み、肩の力を抜くように柔らかく微笑む。

「働くって言っても、フリーだし。
 時間もやり方も、わりと自由はきくから。困ったことがあったら、何でも相談して」

 その笑顔を見たら、胸の奥に溜まっていた不安が、すっと軽くなった気がした。

「よし。……とは言っても、不安にはさせたくないから。契約は、ちゃんとしよう」

 そう言って、柊真さんはタブレットを手に取り、私のほうへ画面を向けた。

 用意してくれていたのだろうか。
 そこには彼が手がけているプロジェクトの概要が、丁寧にまとめられている。

「わっ……」

 ゲーム系が中心なのかと思っていたけれど、実際はそれだけじゃないみたいだった。

 企業向けの業務ツール、店舗の管理システム、バックオフィス向けのアプリ。
 扱っている分野は思っていた以上に幅広い。

「すごい……」

 思わず、声が漏れる。

「エンジニア部分は俺がやるから、茉莉には直接関係ないところも多いけどね。まあ、なんとなくの紹介ってことで」

 そう言いながら、私の様子を見て、十分見終えたところで、画面をスクロールする。

「で……契約条件の話なんだけど」

 提示された条件を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。
 しばらく黙り込んでしまった私を見て、柊真さんが慌てたように続ける。

「額面だともしかしたら減ってしまうかもだけど。家賃とか、生活にかかるお金は経費で落とすつもりだから。そこは福利厚生みたいなものだと思ってほしい。基本的に、茉莉に負担はかけないよ」

「い、いや……違います。今より、ずっと多いんです……」

 驚きと戸惑いを隠せずにいると、柊真さんは真剣な目でこちらを見つめた。

「フリーランスの仕事って、どうしてもやることが多岐にわたるし、楽じゃない。
 それに……見ての通り、俺は家事とか整頓とか、ほぼ戦力外だからさ」

 困ったように頭を掻いて、少し照れた笑いを浮かべる。

「身の回りのことも含めて手伝ってもらえるなら、正直、足りないくらいだと思ってる」
「……ええ……」

 思わずもう一度、タブレットの画面を見つめ直す。

「期待以上のことをしてくれるって、信じられるから。
 茉莉には、それだけの価値があるんだよ」

 ——価値がある。

 たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がいっぱいになった。
 どれだけ頑張っても、評価されない場所に長くいた私にとって、その一言は、あまりにも大きかった。

「……ガッカリされないように、頑張ります」
「大丈夫。問題なければ、署名しておいて。
 気になるところが出てきたら、その都度、二人で直していこう」

 私は、しっかりと彼に向かって頷いた。

 26歳という年齢になって。
 今、私は確かに、新しい未来の入口に立っている。

 何かが始まる直前の、新卒だった頃の自分が抱いていたような、少し怖くて、それでも感じる確かな高揚感。

 ひとりでは、立つ勇気のなかった場所に、今は彼と並んで立っている。
 ひとりじゃないというだけで、不思議なことに、不安よりも、わくわくのほうがずっと大きいのだ。


_/_/_/_/_/_/


 タブレットを閉じた柊真さんが、ひと仕事終えたというふうにふっと表情を緩める。

「お疲れさま、茉莉」
 そう言いながら、気づけば私の髪を指先ですくうように撫でていた。

「え……?」
 突然の仕草に、体がびくりと反応する私を見て、彼は小さく笑う。

「仕事の話は終わり。これからはプライベートの時間」

 耳元で低く囁かれて、心臓が一気に跳ね上がる。

 タブレットを机に置く音が、やけに大きく響いた。

「ずっと我慢してたんだよ」
 不意に手を取られ、引き寄せられる。

「えっ、ちょっと——」

「お祝いしないと」
 唇が触れるか触れないかの距離で、彼は一瞬、私の目をじっと見つめた。

 その視線だけで、もう逃げ場がなくなる。
 そっと背中に回された手が、私を包み込み、やさしいキスが落ちてきた。

 触れるだけのキスがくすぐったくて、私は無意識に彼のシャツをぎゅっと掴む。
 それに気付いた柊真さんの腕に力がこもった。

「……そういうところが、ずるいんだよ」
 低く甘い声が耳に落ちて、もう一度、今度は少しだけ深く口づけられる。

 唇が離れるたびに、名残惜しそうに額が重なって、息が近すぎて、頭がふわふわする。

「不思議。茉莉だと、我慢できなくなる」
 そう言って、今度はぎゅっと抱きしめられた。

 胸に顔を埋めると、彼の心臓の音がすぐそこにあって、鼓動が重なる感覚が心地よい。

「頑張ります、私」

 離れたくない。
 ぼんやりと浮かんだ感情をそのままつぶやくと、柊真さんは、ぎゅっと腕を強めた。

「パートナーなんだから、一緒に頑張るんだろ」

 その言葉と一緒に、髪に顔に、額に、ゆっくりとキスが落ちてくる。
 大切にされているみたいに優しいひとつひとつに、胸がいっぱいになった。


_/_/_/_/_/_/


第36話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!

新章開幕です!
次回もぜひよろしくお願いいたします。
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