フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛

春咲さゆ

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第四章 支え合いの形

第40話 彼を知る男

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 曖昧なままにされたいくつかの不満を胸に抱えながら、それでも穏やかな日々は続いていた。

 気づけば私は、ほとんど主婦のような時間の流れを、心地よいものとして受け入れるようになっていて。

 そんな頃、ほんの少しだけ、日常から外れた出来事が訪れた。


_/_/_/_/_/_/


 煌びやかなシャンデリアが天井から光を落とす会場で、私は思わず柊真さんのスーツの裾をぎゅっと掴む。

 周囲には、上質なスーツや華やかなドレスに身を包んだ人々が集い、優雅な音楽と賑やかな話し声が溶け合っていた。

「あ、藤堂くん!今日はありがとう!」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます!」
「君に紹介したい人がたくさんいるんだ。さあ、こちらへ」

 ダンディな口髭をたくわえた男性に声をかけられ、柊真さんは自然な所作で応じる。

 私はその横で軽く会釈をしながら、無意識のうちに彼の隣にぴたりと寄り添っていた。

 その日は、経営者たちが集う会食パーティー。
 招待を受けた柊真さんに同行し、私は『秘書』という立場で彼の隣に立っている。

 慣れない空気に、きょろきょろしないよう気を張るだけで精一杯の私とは対照的に、彼は会話の輪を渡り歩きながら、さりげなく私を気遣ってくれる。

「茉莉は、隣にいればいいから」

 小さく囁かれたその言葉に、私はほっと息をついて、静かに頷いた。

 彼は、瞬く間にビジネスモードへと切り替わり、柔らかな笑顔を纏いながら、次々と人の輪で会話を滞りなく進めていく。

 的確で無駄のない言葉選び。
 相手の関心を自然に引き出し、気づけば場の中心に立っているトーク力。

 落ち着いた態度と堂々とした振る舞いに、私は思わず息をのむ。

 フリーランスという働き方に、どこか自由で気ままなイメージを抱いていた。

 けれど、柊真さんを見ていると、それが大きな勘違いだったと気づかされる。

 ひとりで仕事をするということは、技術力だけでなく、営業も、人との関係づくりも、判断も、責任も、すべてを自分ひとりで背負うということなのだ。

 やっぱり柊真さんはすごい……。

 そんなふうに、少し誇らしく、少し遠くを見るような気持ちで彼を見つめていた、そのとき。

 また一人、スーツ姿の男性が、柊真さんのもとへ歩み寄ってきた。

「藤堂じゃないか。こんなところで会うなんてな。元気にしてるのか?」

 柔らかな笑顔を浮かべた男性は、柊真さんと同世代くらいに見えた。

 負けず劣らずの長身に、すらりとした体つき。
 明るく整えられた髪が印象的で、二人が並ぶと自然と周囲の視線を集めてしまうほどの存在感がある。

「……片桐」

 その名を口にした瞬間、柊真さんの空気が、わずかに変わった。

 ほんの一瞬。
 けれど確かに、表情が引き締まり、温度が一段下がったように感じる。

 私は思わず彼を見上げたけれど、柊真さんの視線は、ただ、片桐と呼ばれた男性だけをまっすぐ捉えていた。

 片桐さんは、その変化に気づいているのかいないのか、薄く笑ったまま続ける。

「そちらの方は?秘書?それとも……特別な存在か何か?」

 思いがけない言葉に、私は思わず柊真さんを見る。

 彼の表情は柔らかいままなのに、その瞳の奥が笑っていない気がして、胸がざわついた。

 無意識に、私は彼のスーツの裾をぎゅっと握りしめる。

「ただの秘書です」

 冷たい声色が響き、明確に雰囲気が暗くなる。
 片桐さんは一瞬だけ目を細め、すぐに軽く笑った。

「そんな怖い顔をするなよ。それじゃあまた」

 そう言い残して、彼は人の流れに紛れていった。

 小さく息を漏らした彼が気になって見上げる。
 だけどその視線はあうことなく、またすぐに柊真さんは歩き出した。

「斉藤さん。この間はお世話になりました!」

「おおー!藤堂くんじゃないか!」

 違う男性と談笑を交わす彼は、それまでと何も変わらないように見えた。
 けれど、どこかぎこちなくなった彼の横顔が気になって、こっそりと視線を向け続けていた。


_/_/_/_/_/_/


 会がひと段落した頃、ひとりでお手洗いへ向かった私は、廊下で思いがけず片桐さんと鉢合わせた。

「あれ、藤堂の秘書の……。先ほどは失礼しました」

 薄く笑みを浮かべるその表情が、先ほどよりもずっと不審に見える。

 柊真さんがそばにいない。
 ただそれだけで、こんなにも印象が変わるものなのだろうか。

「いえ……とんでもないです」

 彼が柊真さんの知り合いである以上、失礼があってはいけない。

 そう思って、私は無理に口元を緩め、軽く頭を下げた。

「よければ、連絡先を交換しませんか? 何かお力になれることがあるかもしれません」

 内ポケットからスマートフォンを取り出す片桐さんに、私は戸惑う。

 仕事先の人と、私個人が直接連絡先を交換することはほとんどない。
 やり取りの窓口は基本的に柊真さんで、私は補助的にメールを確認する程度なのだ。

 私は、木崎茉莉として、柊真さんの仕事相手と連絡を取る立場ではなかった。

「申し訳ありません。お仕事のご連絡は、藤堂の個人アカウントがありますので、そちらからお願いいたします」

 確かさっきは本当に一言だけの会話で、名刺のやりとりはしていなかったはず。

 事前に受け取っていた柊真さんの連絡先が印刷された名刺を差し出す。
 片桐さんはそれを受け取ると、くすっとおかしそうに笑った。

「さすが藤堂の秘書。しっかりしてるなあ」

 口調を崩しながら、彼は私の前を二、三歩、ゆっくりとうろつく。
 思わず一歩だけ後ずさると、その距離を埋めるように彼が立ち止まった。

「僕はね、藤堂じゃなくて、木崎さんと連絡を交換したいんですよ」

 そう言って、ぐっと距離を詰めた片桐さん。

 鼻先が触れそうなほどの近さに、息が詰まる。
 私は驚いて、身体を固くしたまま動けなかった。

「ご、ご冗談を……」

 精一杯の苦笑いを返すのがやっとだった私を、片桐さんは楽しそうに見下ろす。

 くくっと喉の奥を鳴らしながら、意味ありげな視線を向けてきた。

「藤堂が秘書をおくなんて驚いたんだよ。あいつ、自分の仕事は全部自分で抱え込まないと気が済まない男だったから」

 心当たりのある言葉に、思わず顔を上げてしまった。

 片桐さんは、それを見逃さず、面白そうに口元をわずかに吊り上げる。

「言ったでしょ。君の力になれることがあると思うよ」

 胸の奥が、ざわりと揺れた。

 この人と連絡先を交換するのは、きっと良い判断じゃない。
 そう思うのに、はっきり断る言葉が喉の奥で止まってしまう。

 ——柊真さんに相談してからにするべきだ。

 きっと、それが正しい。

 それでも。
 もっと知りたい。
 柊真さんのことを。

 彼が抱えているものを。

 ここ最近、心の奥で燻っていた小さな不満が、こんな形で顔を出すなんて思ってもいなかった。

 この人を通してなら、何かが見えるかもしれない。

 そんな期待が、ほんの少しだけ理性を上回る。

 気づけば、私はスマートフォンを取り出していた。

「……ありがとうございます」

 小さく礼を言って、片桐さんと連絡先を交換する。

「嬉しいよ。じゃあ、また連絡するね」

 軽やかに言い残し、去っていく後ろ姿を見送りながら、嫌な音を立てる胸に手を当てた。

 ——本当によかったのだろうか。

 そんな胸騒ぎを抱えたまま、私は静かに頭を下げる。

 この出会いが、私たちの関係にどんな影を落とすのか。
 そのときの私は、まだ知る由もなかった。


_/_/_/_/_/_/


第40話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
気に入っていただけたら、お気に入りやエールをいただけますと励みになります!

次回もぜひよろしくお願いいたします。  
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