フリーランスエンジニアの優しすぎる無償の愛

春咲さゆ

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第四章 支え合いの形

第41話 触れられない大きな壁

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 その夜、柊真さんは寝室にこもり、ひとりでお酒を飲んでいた。

 廊下からそっと覗くと、控えめな間接照明だけが部屋を柔らかく照らしている。

 あれだけ多くの人と話し、次々と案件をまとめていたのだから、疲れているのは当然だ。
 それは分かっているけれど、理由はそれだけじゃない気がして、胸の奥がざわついていた。

 心配だった。
 それでも一歩踏み出せずにいるのは、彼の中に、まだ触れてはいけない領域があるように感じているからだ。

 相変わらず、拒絶されることが怖くて一歩踏み出せない私は、結局、あの頃から何ひとつ変われていないのかもしれない。

「……盗み見?入ってきたらいいのに」

 不意に声が響き、視線がぶつかった。
 驚いて、私は思わず肩をすくめる。

 柊真さんがこちらを見て、いつものように穏やかな目を向けていた。
 けれど、その瞳の奥には、隠しきれない疲れが滲んでいる。

「いえ、その……大丈夫かなって」
 言葉を選びながらそう答えると、彼はわずかに口元を緩めた。

「大丈夫だよ」
 そう言って、ゆっくりと両腕を広げ、私を招き入れる。

 近づいた瞬間、ふわりとお酒の匂いが漂った。
 触れた体温から、彼がいつもより酔っていることが伝わってきた。

「茉莉」

 静かに名前を呼ばれる。

 お酒の勢いに流されるように、大きな手が私の首筋へ伸びてきた。

 思わずその手を止め、私は彼を見つめる。

「……片桐さん」
 ただ、連絡先を聞かれたことを伝えようとしただけだった。

 けれど、その名前を口にした瞬間、彼の表情がすっと曇る。

「あの……片桐さんって」
 思わずそう尋ねると、柊真さんは体を起こし、何も言わずにグラスへ口をつけた。

「あぁ。正社員をしていた頃の同僚だよ」

 淡々と答えながら、新しい缶に手をかけた柊真さんを慌てて止める。

「飲み過ぎです」

 一緒に暮らし始めてから半年。
 こんなふうにお酒を煽る姿を見るのは、初めてだった。

 まるで、大事な感情を無理やり流し込もうとしているみたいで。

 どうしても、放っておけなかった。

「……片桐さんと、何かあったんですよね?」

 奪い取ったビールをローテーブルに置き、改めて向き合う。

 すると彼は、少し不機嫌そうに眉を寄せた。

「ないよ、別に」

「……嘘」

 小さくそう言うと、彼は視線を逸らし、ぽんぽんと私の頭を撫でる。

「昔の話だよ。茉莉が気にするようなことは、本当になにもない」

 その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 ——昔のことだなんて思っていないくせに。

 今も、こうして苦しそうにしているのに。

 私は、いつまでも、彼の心の外側に立たされている。

 彼は、私から距離をとり、背を向けてベッドに潜り込んだ。

「疲れたから今日はもう寝ようかな。茉莉も早く寝な。おやすみ」

 突き放すようにも感じる声色。

「……わかりました」

 私は、搾り出すようにそう答えるのが精一杯だった。
 ゆっくりと立ち上がり、柊真さんの隣を離れる。

 何かを言いかけることもできないまま、静かに部屋を出た。

 ドアがそっと閉まった、その瞬間。
 胸の奥に溜め込んでいた悔しさと無力感が一気に押し寄せてきて、視界が滲んだ。

 柊真さんが抱えているものに、私は触れることすらできない。
 そんな残酷な距離感を思い知った夜だった。


_/_/_/_/_/_/


第41話、読んでいただきありがとうございます_(⑉• •⑉_)
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次回もぜひよろしくお願いいたします。
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