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第1章 アシェント伯爵家の令嬢
第7話
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グレイがどんなつもりでそんなことを言ったのかはわからなかった。
けれどフリージアは、気付けば「はい」と答えていた。
「おっしゃることは今はまだよくわかっていないかもしれません。けれど、グレイ様のことなら信じられます」
そう言って、自然と微笑んでいた。
グレイがその言葉通り「人でなし」だとは思えない。
だとしたら、何かわけがあるのだろう。
とても勇気がいったはずのそんな話をフリージアに明かしてくれたことが嬉しかった。
それも、フリージアのために。
だからグレイを信じるにはそれだけでよかった。
「ありがとう……。人でなし、というのは古い言い方でね。僕の家は三百年前――」
「フリージア。父上が呼んでいるよ」
唐突に声を掛けられ、グレイは口をつぐんだ。
「わかりましたわ、お義兄様。でも今はグレイ様と」
「フリージア。きっと口で説明しても信じがたいと思う。だから今度、我が家に招待するよ。みんなのことも、紹介したいんだ」
「ええ。楽しみにしています」
そうしてその会話は終わりになり、フリージアがグレイに会うことはなくなった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「このコルセットってやつだけは、何度着せられても慣れないわ」
侍女に囲まれ、腰に巻かれたコルセットの紐をぎゅうぎゅうに引き絞られながら、リディはうんざりとした顔を浮かべた。
文句は言えど、彼女がそれをやめさせることはない。
すべて覚悟の上で、わかった上でこの邸に来ているのだ。
「ねえ、フリージア。このドレス、似合わなくない? やっぱりあっちの薄緑のがいいんだけど」
コルセットを着け終え、げんなりと振り返ったリディが気まぐれにクローゼットを指さす。
フリージアははっとして、すぐにふるふると首を振った。
「いえ、だめです。あのドレスだけはお貸しできません」
「いや、だから私相手に敬語なんて使わなくていいけどさ。なんであのドレスは駄目なのよ。私があなたにうまく成り代わるためなんだから協力しなさいよね」
「別にあのドレスでなくとも支障ないはずです」
「なぁんかそうやって拘られると気になるよね? 何、好きな人からもらったり?」
言われて、赤らむどころか一気に青ざめた。
「あれ? 図星? どっち? なんで青ざめんのよ」
それはリディにグレイを奪われると怯えているからだ。
仕方がないこととはどうしても思えなかった。
長らくかかっていた病から快復したと侯爵家に伝え、久しぶりにグレイがやってくることになったこの日になっても、フリージアはいまだに自分を納得させられないでいた。
リディをグレイに会わせたくない。
グレイが来るのなら、自分が会いたい。
しかしここには自分の味方になってくれる人はいない。
カーティスに逆らえば、使用人たちは罰を受けてしまうのだから。
リディもここに来るためにカーティスから多額の金を受け取っていると言っていた。
そのお金で、彼女の弟妹を養うのだと。
そんな仕事をリディから奪うわけにもいかない。そもそもリディがいなくなってもまた似ている人間を探して連れてこられるだけだ。
カーティスを説得できない限りは、意味がない。
それがわかっていても、心がリディを向かわせたくないと拒んでいた。
しかしフリージアのその強張った顔に、リディは違う解釈をしたようだった。
「まさか好きな人じゃなくて、あの病んでる拗らせアニキにでももらった?」
「――え?」
「いやだってさ、フリージアが怯えるのなんてあのアニキくらいでしょ?」
怯えてないんていない。そう答えようとしたのに、否定できないことに気が付いた。
「まあ、いくら血が繋がってないとはいえ、すごい執着だもんねー。あれは異常だわ」
「……執着?」
訊き返すと、リディは訝しげに眉を寄せ、それから呆れたようにため息を吐いた。
「気づいてないの? 家族は選べないってことが双方にとっての不幸だったわね。で、あのアニキじゃないとしたら、誰? あんたその感じだと男からはモテそうだもんね。儚い感じでいかにも守ってあげたい! 的な?」
冷やかすように笑ったリディに、耐えかねたような声が飛んだ。
「いい加減にしてください! フリージア様はこの伯爵家の正当なご息女であって、偽物のあなたとは違います! いくらカーティス様が連れていらした方だからって、フリージア様を馬鹿にするような発言は慎んでください」
侍女のアニーだった。
フリージアとは歳も近く、仲が良かった。だからこそいきなり他所から来た、フリージアにそっくりなだけの彼女の奔放さに耐えられなかったのだろう。
しかし震える手を握り締めて怒りを堪えるアニーに、リディは予想外にも素直に謝った。
「あー、ごめん。そんなバカにするつもりじゃなかったんだけど。お貴族様のノリがまだいまいちよくわかんなくて。そのうち慣れるからさ、勘弁してよ」
そうこられては、アニーも強くは出られない。
だが一度溢れ出したものはなかなか収めることができず、アニーは声を落としながらも吐き出した。
「先ほどのドレスはグレイ様がフリージア様にお贈りになられたものです。お二人は本当に仲睦まじくて、よいご夫婦になられるだろうと思っていたのに――。突然あんな、カーティス様が変わってしまわれて」
「アニー。ありがとう、もういいわ」
「でも! 私、悔しいです! フリージア様がご病気になってしまわれたのは仕方のないことですが、でも、こんなに元気でいらっしゃるのに……。ご病気なんて実は嘘で、本当はただフリージア様をお嫁に出したくないだけなんじゃ……」
「アニー!」
鋭く叱責したのは、アニーよりも二つ上のナンだった。
「申し訳ありません……。あまりにフリージア様がおかわいそうで、つい」
「アニーもナンも、大丈夫よ」
静かに笑ってとりなせば、ナンもやるせない顔を浮かべて一つ頭を下げる。
邸で働く人たちに、本当の理由を明かすわけにはいかない。
力のことはカーティスと父しか知らないから。
それを見ていたリディは面倒そうに肩をすくめた。
「ま、ドレスなんて何でもいいか。今までの私よりよっぽど立派になれるんだから。他人らしくしなきゃいけないってのは癪だけど、なかなかの好青年なんでしょ? 侯爵家の跡継ぎだし、将来は安泰よね」
そう言って浮き足立つように鏡の前に立ち、用意された水色のドレスを当てて見せる。
再び侍女に取り囲まれてドレスを着つけられ、髪をハーフアップにまとめあげられるとリディは満足げに微笑んだ。
それから見守っていたフリージアをくるりと振り返った。
「まあ、あなたの気持ちはわかるけれど。あなたの大切な婚約者は私に任せて」
言っていることは何も変わらないのに、その口調からは下町の少女は消えていた。
その顔に浮かぶのは、フリージアがよくするような、口元を少しだけ緩ませた控えめな笑み。
「恨まないでよね。これは仕事なんだから。むしろあなたのためにやってるのよ? そのことを忘れないで」
フリージアを真似て見せた表情で、フリージアが一番言われたくない言葉でしっかりと釘を刺し、リディは淑やかな足取りで部屋を出て行った。
けれどフリージアは、気付けば「はい」と答えていた。
「おっしゃることは今はまだよくわかっていないかもしれません。けれど、グレイ様のことなら信じられます」
そう言って、自然と微笑んでいた。
グレイがその言葉通り「人でなし」だとは思えない。
だとしたら、何かわけがあるのだろう。
とても勇気がいったはずのそんな話をフリージアに明かしてくれたことが嬉しかった。
それも、フリージアのために。
だからグレイを信じるにはそれだけでよかった。
「ありがとう……。人でなし、というのは古い言い方でね。僕の家は三百年前――」
「フリージア。父上が呼んでいるよ」
唐突に声を掛けられ、グレイは口をつぐんだ。
「わかりましたわ、お義兄様。でも今はグレイ様と」
「フリージア。きっと口で説明しても信じがたいと思う。だから今度、我が家に招待するよ。みんなのことも、紹介したいんだ」
「ええ。楽しみにしています」
そうしてその会話は終わりになり、フリージアがグレイに会うことはなくなった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「このコルセットってやつだけは、何度着せられても慣れないわ」
侍女に囲まれ、腰に巻かれたコルセットの紐をぎゅうぎゅうに引き絞られながら、リディはうんざりとした顔を浮かべた。
文句は言えど、彼女がそれをやめさせることはない。
すべて覚悟の上で、わかった上でこの邸に来ているのだ。
「ねえ、フリージア。このドレス、似合わなくない? やっぱりあっちの薄緑のがいいんだけど」
コルセットを着け終え、げんなりと振り返ったリディが気まぐれにクローゼットを指さす。
フリージアははっとして、すぐにふるふると首を振った。
「いえ、だめです。あのドレスだけはお貸しできません」
「いや、だから私相手に敬語なんて使わなくていいけどさ。なんであのドレスは駄目なのよ。私があなたにうまく成り代わるためなんだから協力しなさいよね」
「別にあのドレスでなくとも支障ないはずです」
「なぁんかそうやって拘られると気になるよね? 何、好きな人からもらったり?」
言われて、赤らむどころか一気に青ざめた。
「あれ? 図星? どっち? なんで青ざめんのよ」
それはリディにグレイを奪われると怯えているからだ。
仕方がないこととはどうしても思えなかった。
長らくかかっていた病から快復したと侯爵家に伝え、久しぶりにグレイがやってくることになったこの日になっても、フリージアはいまだに自分を納得させられないでいた。
リディをグレイに会わせたくない。
グレイが来るのなら、自分が会いたい。
しかしここには自分の味方になってくれる人はいない。
カーティスに逆らえば、使用人たちは罰を受けてしまうのだから。
リディもここに来るためにカーティスから多額の金を受け取っていると言っていた。
そのお金で、彼女の弟妹を養うのだと。
そんな仕事をリディから奪うわけにもいかない。そもそもリディがいなくなってもまた似ている人間を探して連れてこられるだけだ。
カーティスを説得できない限りは、意味がない。
それがわかっていても、心がリディを向かわせたくないと拒んでいた。
しかしフリージアのその強張った顔に、リディは違う解釈をしたようだった。
「まさか好きな人じゃなくて、あの病んでる拗らせアニキにでももらった?」
「――え?」
「いやだってさ、フリージアが怯えるのなんてあのアニキくらいでしょ?」
怯えてないんていない。そう答えようとしたのに、否定できないことに気が付いた。
「まあ、いくら血が繋がってないとはいえ、すごい執着だもんねー。あれは異常だわ」
「……執着?」
訊き返すと、リディは訝しげに眉を寄せ、それから呆れたようにため息を吐いた。
「気づいてないの? 家族は選べないってことが双方にとっての不幸だったわね。で、あのアニキじゃないとしたら、誰? あんたその感じだと男からはモテそうだもんね。儚い感じでいかにも守ってあげたい! 的な?」
冷やかすように笑ったリディに、耐えかねたような声が飛んだ。
「いい加減にしてください! フリージア様はこの伯爵家の正当なご息女であって、偽物のあなたとは違います! いくらカーティス様が連れていらした方だからって、フリージア様を馬鹿にするような発言は慎んでください」
侍女のアニーだった。
フリージアとは歳も近く、仲が良かった。だからこそいきなり他所から来た、フリージアにそっくりなだけの彼女の奔放さに耐えられなかったのだろう。
しかし震える手を握り締めて怒りを堪えるアニーに、リディは予想外にも素直に謝った。
「あー、ごめん。そんなバカにするつもりじゃなかったんだけど。お貴族様のノリがまだいまいちよくわかんなくて。そのうち慣れるからさ、勘弁してよ」
そうこられては、アニーも強くは出られない。
だが一度溢れ出したものはなかなか収めることができず、アニーは声を落としながらも吐き出した。
「先ほどのドレスはグレイ様がフリージア様にお贈りになられたものです。お二人は本当に仲睦まじくて、よいご夫婦になられるだろうと思っていたのに――。突然あんな、カーティス様が変わってしまわれて」
「アニー。ありがとう、もういいわ」
「でも! 私、悔しいです! フリージア様がご病気になってしまわれたのは仕方のないことですが、でも、こんなに元気でいらっしゃるのに……。ご病気なんて実は嘘で、本当はただフリージア様をお嫁に出したくないだけなんじゃ……」
「アニー!」
鋭く叱責したのは、アニーよりも二つ上のナンだった。
「申し訳ありません……。あまりにフリージア様がおかわいそうで、つい」
「アニーもナンも、大丈夫よ」
静かに笑ってとりなせば、ナンもやるせない顔を浮かべて一つ頭を下げる。
邸で働く人たちに、本当の理由を明かすわけにはいかない。
力のことはカーティスと父しか知らないから。
それを見ていたリディは面倒そうに肩をすくめた。
「ま、ドレスなんて何でもいいか。今までの私よりよっぽど立派になれるんだから。他人らしくしなきゃいけないってのは癪だけど、なかなかの好青年なんでしょ? 侯爵家の跡継ぎだし、将来は安泰よね」
そう言って浮き足立つように鏡の前に立ち、用意された水色のドレスを当てて見せる。
再び侍女に取り囲まれてドレスを着つけられ、髪をハーフアップにまとめあげられるとリディは満足げに微笑んだ。
それから見守っていたフリージアをくるりと振り返った。
「まあ、あなたの気持ちはわかるけれど。あなたの大切な婚約者は私に任せて」
言っていることは何も変わらないのに、その口調からは下町の少女は消えていた。
その顔に浮かぶのは、フリージアがよくするような、口元を少しだけ緩ませた控えめな笑み。
「恨まないでよね。これは仕事なんだから。むしろあなたのためにやってるのよ? そのことを忘れないで」
フリージアを真似て見せた表情で、フリージアが一番言われたくない言葉でしっかりと釘を刺し、リディは淑やかな足取りで部屋を出て行った。
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