空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第6章 ヴァルメリア

第39話 深夜の果物狂想曲

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 沖合での爆発阻止から数時間後。

 港に戻った俺たちは、港湾管理局の倉庫を臨時の休憩所として借り、泥のように座り込んでいた。倉庫内は薄暗く、積み上げられた木箱や麻袋の間に、わずかなランプの明かりが揺れている。外からは波の音と、夜番の衛兵たちの足音が規則正しく聞こえてきた。

 バルグは壁に背を預けたまま、戦斧を横に置いて微動だにしない。普段は精力的な彼も、今夜ばかりは完全に疲労困憊していた。リィナは椅子に腰掛け、毒ガスの影響で荒れた喉に薬草茶を流し込んでいる。湯気が立ち上る茶碗を両手で包み、温かさで身体を温めようとしていた。

 俺はといえば――翼をだらんと垂らし、床に転がって天井を見つめていた。石造りの天井には蜘蛛の巣が張っており、埃が積もっている。普段なら気になるところだが、今はそれすらどうでもよかった。

 疲労は限界。筋肉は鉛のように重く、羽毛は海水と汗で湿っている。装置を運んだ時の負荷が翼に残っており、少し動かすだけでも鈍痛が走る。……にもかかわらず、脳裏を占めているのはただひとつ。

「干し果物……」

 俺のつぶやきに、リィナが飲んでいた茶を吹きかけそうになった。

「は? 今の状況でそれ?」

「戦いを終えた鷲は糖分補給が必要なんだ。いや、必須なんだ! これは生存本能なんだぞ!」

 俺の言葉に、リィナは半眼で睨んでくる。その表情は明らかに「またか」と言いたげだった。しかし、俺にとっては真剣な問題だ。激しい戦闘の後は、身体が糖分を欲している。これは決して我儘ではない。

「……はいはい、生存本能ね。甘党本能の間違いじゃないの?」

 リィナの半眼が突き刺さるが、俺は譲らない。確かに普段から甘いものが好きなのは事実だが、今回は違う。本当に身体が必要としているのだ。

「いいから休め。夜も遅いし、店なんて――」

 バルグの言葉を聞き終える前に、俺は倉庫の扉を押し開けて外へ飛び出していた。

 夜風が湿った羽毛を撫でていく。冷たい空気が肺に入り、少しだけ疲労が和らいだ。翼はまだ重いが、短距離なら飛べるはずだ。甘味への欲求が、疲労を上回っていた。



 港町の夜は、漁師たちの朝が早いせいで意外と静かだ。

 大通りには人影もまばらで、酒場からの喧騒も控えめになっている。月明かりが石畳を照らし、港の向こうには封鎖を続ける監視船の明かりが点々と見えた。平和な夜景だが、つい数時間前まで毒霧の脅威があったとは思えない静けさだ。

 だが、俺は知っている。深夜でも干し果物を売ってくれる小さな屋台が、港の裏路地にひっそりと存在することを。

 その屋台の主人は老漁師で、引退後に小さな商売を始めた。昼間は魚市場で働く人々相手に、夜は夜更かしする船乗りたちに干し果物を売っている。品質は良く、値段も手頃。何より、俺の甘味への執着を理解してくれる数少ない人物だ。

 石畳を走り抜け、潮風を切って飛び、小さな路地へ滑り込む。

 翼の痛みを我慢しながら、低空飛行で路地を進む。狭い路地は建物に挟まれ、風の流れも複雑だ。しかし、甘い香りが鼻を導いてくれる。干し果物特有の濃縮された果糖の匂いが、夜風に混じって漂っている。

 そこには、ランプの灯りを頼りに商売をしている老人の姿があった。彼の屋台には、色とりどりの干し果物が山のように積まれている。黄金色の干し杏、深紅の干しイチゴ、琥珀色の干し柿、緑色の干しキウイ――まさに宝石箱のような光景だった。

「おう、翼の兄ちゃんか。今日は派手にやったらしいな」

 老人はにやりと笑い、俺に木箱を差し出した。彼は港町の情報通でもあり、俺たちの活動についてもよく知っている。今夜の騒動についても、既に噂が回っているようだ。

 中には黄金色の干し杏、真紅の干しイチゴ、砂糖をまぶした柑橘の皮――。

 甘い香りが鼻腔を満たし、俺の視界が幸せで白く染まった。疲労で重かった身体が、急に軽くなったような気がする。これこそが俺の求めていたものだ。

「全部くれ」

「全部!? ……いや、まぁ構わんが」

 老人は驚いたような顔をしたが、商売人らしく快く応じてくれた。俺は懐から銀貨を取り出し、屋台の上に置く。銀貨を置くと同時に、俺は干し果物を嘴に運ぶ。

 甘酸っぱさと濃縮された果汁が口の中に広がり、脳に直接幸福が流れ込むような感覚――。

 これまでの疲労や緊張が一気に解けていく。翼の痛みすら和らいだような気がした。糖分が血流に乗って全身を巡り、エネルギーが回復していく。やはり戦闘後の甘味補給は欠かせない。



 「……やっぱりいた」

 背後から聞き慣れた声。

 振り向くと、リィナとバルグが腕を組んで立っていた。二人とも呆れたような表情を浮かべているが、どこか安堵しているようにも見える。恐らく俺を心配して追いかけてきたのだろう。

「だから言っただろう、干し果物の匂いを辿れば見つかるって」

 リィナは呆れ笑い。確かに俺の行動パターンは読みやすいかもしれない。甘味があるところに俺あり、というのは仲間内では常識になっている。

 バルグは俺の横の木箱を見て眉をひそめた。

「お前、これ一晩で全部食う気か?」

「食う。いや、食わなきゃいけない」

 きっぱりと言い放つ俺。これは決して贅沢ではない。必要な栄養補給なのだ。戦闘で消費したエネルギーを回復するためには、良質な糖分が欠かせない。

 二人は深くため息をついたが、結局その場で干し果物をつまみ始めた。

 最初は「付き合ってやる」という感じだったが、食べ始めると案外美味しそうに頬張っている。特にリィナは、干しイチゴの甘酸っぱさを気に入ったようで、次々と口に運んでいた。

 港の夜は静かで、ランプの灯りが温かく、戦いの緊張がようやくほどけていく。

 老人も俺たちの様子を微笑ましそうに見守っており、時折世間話を挟んでくる。港の近況や、他の街で起きた事件の話など、平和な話題が心地よかった。

 こうして、港町の片隅で、俺たちはささやかな甘味の宴を楽しんだ。

 三人で木箱を囲み、それぞれが好みの干し果物を選んでいる。バルグは意外にも干し柿を気に入り、「甘くて歯ごたえがある」と満足そうだった。リィナは干しイチゴと干し杏を交互に食べ、「薬草の苦味の後だと特に美味しい」と笑っている。

 明日の脅威も、黒羽同盟の次の一手も、この時だけは遠い世界の話のように感じられた。

 月は中天に昇り、港町を柔らかく照らしている。波の音が心地よいリズムを刻み、夜風が疲れた身体を優しく包んでくれる。戦いの後の静寂は、何物にも代えがたい贅沢だった。

 俺は干し杏を嘴に運びながら、仲間たちの顔を見回した。疲れてはいるが、皆満足そうな表情を浮かべている。こんな平和な時間が、いつまでも続けばいいのにと思った。

 しかし、俺たちの戦いはまだ終わっていない。黒羽同盟は必ず次の一手を打ってくるだろう。だが、今夜のように仲間と甘味を分かち合えるなら、どんな困難も乗り越えられるような気がした。
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