空を翔ける鷲医者の異世界行診録

川原源明

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第6章 ヴァルメリア

第40話 静寂を破る波紋

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 干し果物の甘さと、仲間との何気ない会話――そのひとときは、まるで長い戦いの中の小さな港のように穏やかだった。

 昨夜の甘味の宴は、心身共に疲弊した俺たちにとって貴重な癒やしの時間だった。老人の屋台で過ごした数時間は、戦いの緊張を忘れさせてくれる特別なものだった。リィナの笑い声、バルグの意外な干し柿好き、そして港町の静かな夜風――すべてが記憶に刻まれている。

 しかし、港の夜はその静けさを永遠には守ってくれない。

 平和な時間は束の間で、現実は容赦なく俺たちを戦いの渦中に引き戻そうとしている。昨夜の装置破壊で黒羽同盟に一撃を与えたが、それで終わりではないことは分かっていた。むしろ、追い詰められた敵はより危険になるものだ。

 翌朝、港湾管理局の倉庫に差し込む朝日で目を覚ますと、外が妙に騒がしいことに気づいた。

 倉庫の小さな窓から漏れ入る朝の光で、俺は浅い眠りから覚めた。床に敷いた毛布の上で、翼を折りたたんで休んでいたが、身体はまだ昨日の疲労を引きずっている。しかし、外の騒音が気になって完全に目が覚めてしまった。

 怒鳴り声や足音が行き交い、波止場からは衛兵たちが慌ただしく船を囲んでいるのが見える。

 窓から身を乗り出すと、港の様子が一変していることが分かった。昨夜の静けさとは打って変わって、衛兵たちが慌ただしく動き回っている。何かの緊急事態が発生したようだ。船の周りには人だかりができており、指揮官らしき人物が大声で指示を出している。

 リィナとバルグも物音で目を覚まし、慌てて身支度を整えている。三人とも昨夜は疲れ切っていたが、職業的な危機感が眠気を一瞬で吹き飛ばした。

 バルグが戦斧を背負いながら俺の横に立った。

 彼の表情は険しく、長年の戦闘経験から来る直感が働いているようだった。朝の騒動は単なる偶然ではない。何か重大な事件が起きているに違いない。

「……嫌な予感しかしねぇな」

 俺も同感だった。昨夜の平和な時間は、嵐の前の静けさだったのかもしれない。黒羽同盟が次の一手を打ってきた可能性が高い。

 三人は急いで倉庫を出て、騒動の中心に向かった。朝の港は潮風が冷たく、頬を刺すような寒さだった。しかし、その寒さよりも不安の方が身に染みている。

 港に近づくと、問題の船は黒羽同盟の印を掲げてはいなかったが、その船倉から見つかった荷が厄介だった。

 船は一見すると普通の商船で、外見上は怪しいところがない。船体も手入れが行き届いており、正規の商人が使うような船だった。しかし、船倉の中身は話が別だった。

 木箱に詰められた薬草や香料の束――だが、リィナがひと目見るなり表情を固くする。

 リィナは薬師として、様々な薬草や香料に精通している。一般人なら見過ごしてしまうような微細な違いも、彼女には分かる。その知識が今、警鐘を鳴らしていた。

「……これ、見覚えがある。あの装置に使われてた毒の中間原料だわ」

 リィナの声は緊張に震えていた。昨夜破壊した装置で使われていた毒物の原料と同じものが、この船に積まれているのだ。つまり、黒羽同盟は複数のルートで原料を運んでいたということになる。

 木箱を詳しく調べると、表向きは香料として偽装されているが、実際は毒物の中間体だった。巧妙な偽装工作で、普通の検査では見抜けないレベルの精巧さだ。

 しかも、荷はこの港ではなく、北方の内陸都市へ向けて運ばれる予定になっていた。

 船の積荷目録を確認すると、最終目的地は内陸の大都市だった。人口十万を超える大きな街で、もしそこで毒が製造されれば被害は甚大になる。港封鎖をすり抜け、陸路経由で原料を拡散させる計画――黒羽同盟の狡猾さを改めて思い知らされた。

 「連中、港が使えないなら陸路で運ぶつもりか」

 バルグが歯ぎしりする。港封鎖という俺たちの対策を見越して、既に代替手段を用意していたのだ。昨夜の装置破壊も、彼らにとっては想定内の損失だったのかもしれない。

 そこへ、見張り役の衛兵が息を切らして駆け寄ってきた。

 衛兵は若い男で、緊急事態の報告で興奮している様子だった。汗をかきながら、必死に状況を伝えようとしている。

「北門の方でも、不審な荷馬車が逃走中との報告です!」

 この報告で、事態の深刻さが明らかになった。港での発見は氷山の一角で、既に複数のルートで毒の原料が運び出されているのだ。黒羽同盟の計画は、俺たちの想像以上に大規模だった。

 俺たちは顔を見合わせた。

 三人の表情には、同じ危機感が浮かんでいる。昨夜の勝利に浸っている場合ではない。敵は既に次の段階に移行しており、俺たちは後手に回ってしまっている。

 黒羽同盟は、港を抑えられてもなお次の手を打ってきている。昨日の戦いで装置を失った分、動きは早く、広域的だ。

 組織的な動きと、複数の逃走ルートの確保。これは単なる密輸ではなく、綿密に計画された作戦だった。俺たちが一つの脅威を潰している間に、別の脅威が動き出していたのだ。

 ――休息は、もう終わりだ。

 昨夜の甘い時間は、既に遠い記憶のように感じられる。現実は容赦なく、俺たちを新たな戦いに駆り立てている。しかし、昨夜の糖分補給のおかげで、身体のエネルギーは回復している。

「行くぞ。干し果物の糖分は、これのためにある」

 俺は半ば冗談めかしてそう言ったが、実際のところ本気だった。戦闘には十分なエネルギーが必要で、昨夜の甘味補給は決して無駄ではなかった。むしろ、今日の戦いのための準備だったと言えるかもしれない。

 そう言って俺は翼を広げ、北門の方角へ飛び立った。

 朝の港町の空気は冷たく澄んでいたが、その下で広がろうとしている影は、昨日よりもさらに深かった。

 上空から見下ろすと、港町全体が慌ただしい動きに包まれているのが分かる。衛兵たちが各所に配置され、緊急事態に対応している。しかし、敵の動きは俊敏で、包囲網を突破しようとしている。

 北門の方角には、既に土煙が上がっているのが見える。荷馬車が全速力で逃走しているのだろう。俺は翼を強く羽ばたかせ、追跡を開始した。

 新たな戦いの始まりだった。昨夜の甘い時間とは対照的に、今日は苦い戦いになりそうだ。しかし、仲間と共に過ごした平和な時間が、俺に新たな力を与えてくれている。

 リィナとバルグも地上から追跡を開始したはずだ。三人の連携で、必ず敵を阻止してみせる。黒羽同盟の計画を、ここで食い止めなければならない。

 俺は眼下に広がる街並みを見下ろしながら、決意を新たにした。平和な日常を守るために、今日も戦い続ける。それが俺たち三人の使命だった。
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