虚映ノ鏡は真を映さず ─神気宿す少女と、月詠む死神審問官─

あさとゆう

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第3章 心に棲む者と審問の楔

第49話 死神、エプロンを着る

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 それから約二時間後、藍良と千景はいつも通り並んで高校へ向かった。だが、教室に入ると、見慣れた姿がない。

「……兼翔、いないね。いつもなら、この時間にはもう来てるのに」

 藍良が呟いたとき、チャイムが鳴り響き、担任の犬飼いぬかいが教室に入って来た。慌てて席に座る二人。犬飼はいつも通りの口調で、ホームルームを始めた。雑多な連絡事項を淡々と読み上げたあとで、「なにか質問はあるか?」とクラスを見回す。そのとき、千景がスッと手を挙げた。

「先生。橘くんがいないようですが……今日はお休みですか?」
「ああ。橘は、手続き──いや……なんていうのかな。個人的な事情で今日は休みだ」

 ──手続き?

 藍良は思わず犬飼を見つめた。どこか躊躇ためらうような物言いに、千景の表情も険しくなる。そして次の瞬間、千景はふと天井の一点を見上げた。彼の視線を追うと、天井板が僅かにずれ、隙間からキュルンと潤んだ瞳がこちらを見つめていた。タマオだ。

 千景はタマオに向かってほんの少し頷くと、彼の意図を理解したかのように、暗がりへ「しゅるり」と姿を消した。その直後、ホームルーム終了のチャイムが鳴った。犬飼が教室を出るのを見届けたあと、藍良は千景に椅子を引き寄せ、声をかける。

「タマオに何伝えたの?」
「兼翔の動きを探るように。最近やけにコソコソしてるから。それにしても、先生が言っていた手続きって何だろね」
「うん……個人的な事情……とか言ってたけど」

 千景はふうっと、ため息を吐き、露骨ろこつに不満げな顔をした。

「ユエも捕まえたんだから、さっさと帰ればいいのに」

 ぼそっと飛び出た千景の本音に藍良は思わず吹き出した。千景はどういうわけか兼翔を毛嫌いしている。とにかく早く死神界に帰って欲しいと、以前からたびたびぼやいていたのだ。

「藍良、千景君!早く、早く!一限目は音楽室だよー!」

 廊下から響く咲の声。筆記用具と教科書を抱え、こちらに向かって手を振っている。

「やばっ!千景、急ごう!」

 二人は慌てて荷物をまとめ、足早に廊下へ飛び出した。そのとき、千景の言葉が頭の中で反響する。

 ──ユエも捕まえたんだから、さっさと帰ればいいのに。

 黒標対象だったユエは捕まえた。つまり、兼翔もそうだが、千景も死神審問官としての役目は終えているはずなのだ。それなのに、彼はまだここにいる。

 ──わたしに気があるから?それともやっぱり疑ってる?わたしが、黒標対象じゃないかって……

 そう考えた瞬間、心臓がきゅっとなる。

「藍良?」

 顔を上げると、千景が振り返り、藍良を見つめていた。その瞳はいつものように穏やかで、どこか不安げに揺れている。藍良は慌てて微笑むと、首を横に振った。

 ──考え過ぎ、考え過ぎ。千景はきっともう疑ってなんかいない。

 そう自分に言い聞かせながら、藍良は足早に歩き出した。


 ☽   ☽   ☽


 時刻は夜の六時を少し過ぎていた。厳しい日差しはようやく落ち着き、今は心地よい風が肌を撫でていく。空は茜から藍へと色を変え、小さな三日月が雲の隙間から顔を覗かせていた。

 そんな夕焼けのグラデーションを見ながら、藍良は並んで歩く千景の横顔をちらりと見る。

 藍良は気付いていた。千景がいつも自分の歩調に合わせてくれていること。スーパーの袋も、重たい方を千景は必ず持ってくれる。そして、買い物中も目が合うなり、優しく微笑みかけてくれる。そんな些細なことが、藍良にとってとてつもなく嬉しかった。

 そんなとき、どこからかほっこりとした甘じょっぱい香りが漂ってきた。
 藍良は大きく息を吸い込んだ。

 ──肉じゃが、かなあ?

 食欲をそそる香りが鼻孔を満たし、胸まで広がっていく。藍良は手にしているスーパーの袋を見つめた。我が家の今日の晩御飯は麻婆豆腐。父・慈玄じげんも好きなメニューだし、真白と話して、今夜はこれが作りたくなったのだ。

「楽しみだなァ~藍良の料理。麻婆豆腐……麻婆豆腐か……どんな味なんだろう」

 藍良は少し照れながら、言葉を返した。

「でも、初めて作るから……あんまり期待しないでね」

 顔を伏せながら千景を見ると、彼はどこか嬉しそうに微笑んでいた。その笑顔を見ただけで、胸の奥がポカポカと温かくなる。

 初めて会ったときより、一緒にユエを追っていた日々よりもずっと。
 昨日よりも今日、明日にはもっと、この気持ちが大きくなっていくのだろう。

 けれど同時に、それとは逆の想いも湧き上がってくる。何度打ち消そうとしても、心のどこかでくすぶる不安。それは確かな言葉にならないまま、藍良の胸を締め付けていた。

 気付くと、藍良は立ち止まっていた。数歩先で千景が振り返り、そっと声をかける。

「……藍良?」

 藍良は深く息を吸い、彼を真っ直ぐ見つめた。そして、胸の奥を掘り起こすように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……ねえ、もうユエはいないんだよね」
「……うん」
「じゃあ、千景は死神の世界に帰るの?」

 そのとき、さらりと風が吹いた。新緑の葉がひとひら、二人の間に舞い落ちる。目を逸らさずに見つめてくる千景の視線に、藍良は耐えきれずそっと顔を伏せた。

「……どうして、ユエはもういないのに、ここにいてくれるの?何か、他に理由があるの?」

 藍良の声は震えていた。この問いは、心の奥に沈めていた想いそのものだったのだ。
 千景はゆっくりと藍良へ歩み寄る。空から漏れる夕焼けの光が、彼の黒髪と輪郭りんかくを柔らかく染める。千景は言葉を探すように黙ったあと、こうささやいた。

「……あるよ」

 この言葉に、藍良はぎくりとした。やはり、千景は目的があってまだこの世界にいるのだ。その理由は“任務”なのか、それとも──。

 藍良は迷いを押し殺し、覚悟を決めたように千景を見返す。千景もまた、藍良を見つめ、口を開いた。すると……。

 ──ボテッ。

 空から降る、間の抜けた音。電線の上から小さな物体が千景の肩にずしりと乗る。このお決まりの登場の仕方は、タマオだ。

「た……大変じゃ!千景、藍良!」
「タマオ!?」
「何!?どうしたの!?」

 タマオはぜーぜー言いながら、何度も喉を鳴らし、途切れ途切れに言葉を吐き出す。

「藍……藍良の……家で……」

 この言葉が放たれた瞬間、千景は大きく目を見開き、タマオを肩に巻きつかせたまま藍良の手を握った。

「行こう!」
「えっ、ちょ、千景!?」

 藍良は走りながら、父・慈玄のことを想った。今、慈玄はひとりで家にいるはず。何かあったのだろうか。どうしてタマオはこんなに慌てているのだろうか──。

 二人(とタマオ)は夕暮れの街を駆け抜け、数分後には藍良の家──寺の門前へとたどり着いた。

「タマオはここに隠れて」

 千景がそっと、スーパーの袋を指さす。タマオは文句も言わず、ぐったりとした様子のまま、ひゅるりと中へ滑り込んだ。

 その直後、玄関の引き戸が唐突に開き、藍良は肩を震わせた。しかし、姿を現したのは、黒い法衣に身を包み、手に竹ぼうきを持った、いつもの慈玄だった。

「お、お父さん!?」
「お~藍良、千景君も。おかえり」

 のんびりと微笑みながら、外の落ち葉をき始める慈玄。あまりにも平和すぎる光景に、藍良と千景は揃って肩透かしを食らったような気持ちになる。

「あの……何か、変わったこと、ありませんでしたか?」
「ん?変わったこと?」
「いえ、その……虫の知らせといいますか。なんとなく、気になってしまって」

 すると、慈玄は一瞬押し黙る。次の瞬間、目を細めて大きく笑った。

「いやぁ~~!勘が鋭いね、千景君は。サプライズで伝えようと思ってたんだけど」
「サプライズ……?」
「どういうこと?お父さん!」

 藍良が怪訝けげんな顔を向けると、慈玄は落ち葉を掃きながら、玄関を指さした。

「中に入ればわかるよ」

 その言葉に、藍良と千景は顔を見合わせ、揃って小さく首を傾げる。何かを企んでいるような言い回しに戸惑いつつ、二人は玄関を開け、中へ足を踏み入れた。藍良は靴を脱ぎながら千景にこそっとささやいた。

「何なんだろうね、いったい……お父さんったら」

 だが、千景の表情は固かった。眉をひそめ、どこか焦りも滲んでいる。

「もの凄く嫌な予感がする。もしかして──」

 千景の言い終わる前に、廊下の奥から聞き覚えのある低い声が響いた。

「帰ったか。遅かったな」

 ……ギョッ。

 目を丸くして前を見る藍良と千景。
 そこにいたのは、エプロン姿の兼翔。右手に菜箸、左手にフライパンを持ったまま、無表情で仁王立ちしていた。
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