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思い出せない
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どうしても、名前が思い出せない。
それどころか、自分の顔も年齢も。
あの人の名前や あの人の声も 目の前の彼と重ねて思い出していたはずのあの人の顔すら、明確には思い出せない。
僕は誰で、あの人は誰だったんだろう。
あの人が優しく笑う顔も、聞くだけて安心する声も、抱き締めてくれる温もりも、ほのかに香るシャンプーの匂いも全部全部大好きで、絶対に忘れる事なんか無いと思っていたのに……今、僕の中の全てがぼんやりと霞んでいる。
『思い……出せないです』
「思い出せない?」
『ごめん なさい』
今はもう出すことのできない涙を心の中でそっと流した。
名前が思い出せない程度で謝る必要などないけれど呼び名が無いのは一緒に暮らすには不便だと彼は苦笑した。
至極当然のように一緒に暮らすと言う彼の言葉に ほんの少しの歓びと、出て行けない申し訳なさと、あの人への不義理を感じてモヤモヤする。
「あ。あんた内見の日も部屋の角っちょ居たけどさ、そこが好きなの?」
『ぇ……ぁ、邪魔かなって……思って……』
今まで、僕がどこに居たって誰も気付かなかったし、何をしてても関係ないだろうと思ってはいたけど、すれ違いざまに体をすり抜けられると僕も何となく気分が良くないし、相手も不思議そうに顔をしかめて寒そうに震えてたりしたから出来る限り、角の人目につかない場所へ隠れていたんだ。
目の前の彼にはそもそも無意味だったみたいだけど。
「好きとかじゃねぇなら、んなとこ居ないで自由にしてていいよ。あ、布団もいる? かけらんねぇか? つーか、そもそも寝る?」
彼は本当にここに僕が居るのみたいに話しかけてくれる。
首を捻って、くだらないことに頭を悩ませてくれてる。
なんて人間らしくて 温かいんだろう。
なんだか 酷く久しぶりに、人と会話した気がする。
それもそうか。もう何人の住居者が入れ替わったと思ってるんだ。数え切れない程の……いや、途中で数えることを諦める程の人数だ。もう何年ここに居るんだろう。
『僕、寝なくても大丈夫なんです。眠気も食欲も……色々と……感じ無いので』
「まじか」
少し驚いたあと、そりゃそうかと頷いてから何かを思い立った様に頭を掻きながら『俺はまぁ、普通に色々あっから夜ちょっとあっちに居てくれって頼む日もあっかも』と言ってドア向こうのキッチンを指さした。
『? ……分かりました。その時は出来る気配を消してお邪魔しません』
きっと、ご友人や恋人を連れてくる日もあるのだろう。そんな時は、あの時みたいに僕が居ることを悟られないよう じっと息を潜めて隠れてなきゃ。
……あの時みたいに?
深く思い出そうと思うと、名前同様に靄がかかって思い出せなかった。
それどころか、自分の顔も年齢も。
あの人の名前や あの人の声も 目の前の彼と重ねて思い出していたはずのあの人の顔すら、明確には思い出せない。
僕は誰で、あの人は誰だったんだろう。
あの人が優しく笑う顔も、聞くだけて安心する声も、抱き締めてくれる温もりも、ほのかに香るシャンプーの匂いも全部全部大好きで、絶対に忘れる事なんか無いと思っていたのに……今、僕の中の全てがぼんやりと霞んでいる。
『思い……出せないです』
「思い出せない?」
『ごめん なさい』
今はもう出すことのできない涙を心の中でそっと流した。
名前が思い出せない程度で謝る必要などないけれど呼び名が無いのは一緒に暮らすには不便だと彼は苦笑した。
至極当然のように一緒に暮らすと言う彼の言葉に ほんの少しの歓びと、出て行けない申し訳なさと、あの人への不義理を感じてモヤモヤする。
「あ。あんた内見の日も部屋の角っちょ居たけどさ、そこが好きなの?」
『ぇ……ぁ、邪魔かなって……思って……』
今まで、僕がどこに居たって誰も気付かなかったし、何をしてても関係ないだろうと思ってはいたけど、すれ違いざまに体をすり抜けられると僕も何となく気分が良くないし、相手も不思議そうに顔をしかめて寒そうに震えてたりしたから出来る限り、角の人目につかない場所へ隠れていたんだ。
目の前の彼にはそもそも無意味だったみたいだけど。
「好きとかじゃねぇなら、んなとこ居ないで自由にしてていいよ。あ、布団もいる? かけらんねぇか? つーか、そもそも寝る?」
彼は本当にここに僕が居るのみたいに話しかけてくれる。
首を捻って、くだらないことに頭を悩ませてくれてる。
なんて人間らしくて 温かいんだろう。
なんだか 酷く久しぶりに、人と会話した気がする。
それもそうか。もう何人の住居者が入れ替わったと思ってるんだ。数え切れない程の……いや、途中で数えることを諦める程の人数だ。もう何年ここに居るんだろう。
『僕、寝なくても大丈夫なんです。眠気も食欲も……色々と……感じ無いので』
「まじか」
少し驚いたあと、そりゃそうかと頷いてから何かを思い立った様に頭を掻きながら『俺はまぁ、普通に色々あっから夜ちょっとあっちに居てくれって頼む日もあっかも』と言ってドア向こうのキッチンを指さした。
『? ……分かりました。その時は出来る気配を消してお邪魔しません』
きっと、ご友人や恋人を連れてくる日もあるのだろう。そんな時は、あの時みたいに僕が居ることを悟られないよう じっと息を潜めて隠れてなきゃ。
……あの時みたいに?
深く思い出そうと思うと、名前同様に靄がかかって思い出せなかった。
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