仕事も恋も

宵月

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カイピロスカ

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目が覚めるといつもの自分のベッドにいた。


どうやって帰ったのか覚えていない。


歩いて…家に着いて…ベッドに入ったのだろうか。


着替えもしないまま。


メイクもそのままなのだろうか。


そうだとしたら昨日よりも酷くなっているだろう。


目元を強く擦るけどちゃんと落としていたのかアイシャドウがついてるようには見えない。


あぁ、暗いからか。


カーテンを開けてやっと、まだ外がくらいことに気付く。


5時。


生活習慣が狂っても睡眠時間だけはそこまで変わらない。


まぁ…どちらにせよ今日からは連勤で家に居ないんだし…いいでしょ。


今の福利厚生というのは凄いもので社員寮の貸し出しがある。


もちろん、給料から差し引かれるが。


繁忙期だけでも借りられるのは正直ありがたい。


労基が守られれにくいと言われるが、こんな仕事人間には最高の職場だった。


シフトを見ようと手に取ったスマホの画面を見ると着信履歴が増えてた。


それを見てなにか変に力が抜けてスマホが顔の横に落ちた。


危な…とは思いつつもう一度スマホを見る。


メッセージも、沢山来てる。


嬉しいやら、悲しいやら。


開いてみれば心配のメッセージばかりだ。


ごめん、なんでもない。しばらくは繁忙期だから。


そう、一言だけ返した。


逃げと同様の返信だ。


会いたくない。


ただそれだけ。


まだ、傷つきたくはなかった。


その恐怖感というのは、きっと飛び込んでしまえば終わるものなのだが。


今、見える位置にあるのは、飛び込む先に見えるのは針の山だ。


そんな所に、行きたくはない。


何でか分からない手の熱さをぎゅっと握りしめることで無理やり押し込める。


これが、今が繁忙期になる頃で良かったと心から思う。


まだ夢心地の頭を無理に起こして自分の体を立ち上がらせる。


昨日みたく、コーヒーを飲んだら少し寂しさが薄れるかもしれない。


仕事でずっとやっていると不思議なことにインスタントよりもコーヒーメーカーで入れた方が早いと思ってしまうもので。


リビングに降りて、気づいた時にはペーパーフィルターを折りたたんでいた。


輪ゴムでとめられたコーヒーの粉をフィルターに1人分、入れる。


新しい袋がふたつ増えていてこっちは使われないのだろう。


春のブレンド、と桜の描かれた袋がふたつも置かれてひとつは開いていた。


少ししか使っていないのに、勿体ないな。


プリンセサワイ二ーと書かれたそれは自分では手を出しにくいものだがそれを置いて春のブレンドが置かれるなんて。


よくわからない感覚だ。


朝ごはんも…今から食べた方がいいだろう。


そう思いつつカウンターにあるロールパンの袋から1つ手に取ってコーヒーが落ちる前に食べる。


行儀悪いとは分かっているがお皿も出さずに。


食べ切る頃にはコーヒーもちょうどよく落ちていて酸味のある香りが部屋を包んでいた。


適当なカップに注いで口に含む。


苦味が弱く、正直、美味しくはない。


すっかり酸化しきってしまっているらしい。


元々フルーティな味わいがいいドミニカのコーヒーだがこれは間違いなく酸化している味だった。


酸化してしまったものはやはり美味しいとは言えないので仕方なくシンクに流そうかと考える。


でもそれももったいない気がした。


「…あ、そうだ。」


そこで昨日の1幕を思い浮かべる。


ガムシロップのあの甘い味と、冷えたオールドファッショングラス。


さすがにガムシロップはなくてお砂糖を少しだけ混ぜてみる。


真っ白なお砂糖は真っ黒なコーヒーにゆっくりと溶けていき沈む。


もう一度1口だけ口に含んで見ると先程よりは飲みやすくなっていた。


これは…甲斐中さんのおかげだな、とか思いながら甘酸っぱく、果物のようなコーヒーをゆっくりと飲んだ。


静かな外もゆっくりと日差しが出てくるものでシャッターのない窓から外を見ると少しづつ明るくなっていた。


1人のこの時間はすごく幸せだ。


まだ冷えている空気にはピッタリの甘く温かいコーヒーをもう一口、もう一口と飲んだ。


目が冴えてくる頃には日が入ってきていた。


適当に纏めておいた荷物を手に取りリビングのソファに投げるように置く。


適当な休憩用カーディガン2つとワンピース2つ。


あとはかさばらない程度のアウター。


寝巻き、私服用のズボンとシャツ。


充電器、美容品系、財布と携帯が入る程度の小さなバッグ。


それからこういう時用の、陶器のカップ。


しばらく…というかジューンブライドまでだから2ヶ月くらいか。


できる限り軽量化した結果がこれだ。


服はほとんど仕事着だろうし外に出ることと言えば食料品の買い出しぐらいだ。


元々ホテルの近くには仮眠室兼社員寮があり業界では珍しくもないが住み込みで働くのが可能なのだが。


帰れる位置にあるんだからと止められてるのが今の現状だ。


正直自分でも社員寮に入ったらきっと仕事漬けにするんだろうな…とは思ったけど。


繁忙期になると休む暇もなく動くことになるから貸し出しをしてくれるところは、福利厚生として素直にすごいなと思う。


適当に整えた薄いメイク。


ハーフアップにした髪。


首元が少し涼しく感じる。


準備が終わる頃には日も昇っていて、短い針は7時を指していた。


「お姉ちゃん早いねー。おはよう。」


その声が聞こえた途端、空気が冷えきった気がした。


自分でも、驚くほど。


「あれ?お姉ちゃん泊まりにでも行くの?まさか彼氏の家とか?」


「行くわけないっでしょ。」


もちろん視線の先にいるのは妹、花鈴だ。


柔らかそうな、ネグリジェを着て、立っていた。


自分の妹とは思えないほど、違っていた。


そして、さっきの言葉を聞いてあんなやつのところなんかという言葉を必死に噛み砕いた。


「仕事だよ。ゴールデンウィーク。」


「ああ!じゃあしばらくはお姉ちゃんいないんだね。寂しいなぁ…。」


どの口が…と思ったけど何も言わず黙り込んだ。


花鈴は笑顔で、その笑顔を私は酷く、怖く感じた。


少なくとも一昨日のあの時までは、そんなこと感じなかったのに。


「お姉ちゃんってすごいよね…なんでも出来て。」


「そんなことあるわけないでしょ。」


それはまるで、私に対する皮肉のようにも聞こえた。


「もういい?荷物置きにも行きたいから。」


「あっ、ごめんね!引き止めちゃって!頑張って働いてきて!」


妹の笑顔を背に、何も口にしないまま外へと出た。










「なんでなのよ…!」


響いた声は私とは思えないほど低く響いた。


1人が家を出たことで恐ろしい程の静けさに包まれたこの場所はなにもないはずなのに居心地が悪い。


ため息は重く、さっきの姉の瞳を思い出す。


何一つ変わらない、真っ直ぐすぎて、腹が立つ。


なんであんたばっかり色々なものを持ってるの。


全部全部欲しい。


手垢のついたものなんていらないのよ。


「彩芽ばっかり…」









~カイピロスカ~

・ウォッカ
・ライム
・シュガー

カイピリーニャのベースをウォッカに変えたもの。
ちなみにカイピリーニャのベースはカシャーサ。
ウォッカなので手軽に作れる。
冷えたウォッカと刻んだライムが爽やかで夏にピッタリなカクテル。
爽やかと言えど度数は高めなのでご注意を。
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