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Case:岡本 2

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 水族館の水槽の前でキスをした後、カフェに入りお昼ごはんを食べる。石畳の通路に面したオープンカフェでランチに舌鼓をうつ。やはり高級ホテルだ。カフェといえどもランチの味に驚いてしまう。

 お、美味しい、美味しすぎる!

 スープ、パン、そしてこのパスタ。どれも言葉を失う美味しさだ。この場所は『名はなくても高級ホテル』という事実である事を改めて突きつけられ、肩をこわばらせてしまう。

 しかし、目の前の岡本はそんな私とは違う態度を取っている。大きな身体をもじもじとさせ上目遣いで私を見る。

 何なの? この余裕というか気の抜ける態度は。

 私が無言で岡本を見つめると、意を決して岡本が話し始めた。

「あの! 倉田さん……じゃなかった涼音さん、いや、涼音! 僕……前々からやりたいと思っていた事があるんです」
「はひ?」
 私は素っ頓狂な声を上げてしまう。そうだった名前で呼ぶんだったわ。そして呼び捨てで。

 私の変な答え方に聡司は小さく吹き出していた。

 水族館では言葉もなく大胆にキスをして、寄り添っていた割には突然名前を呼ばれると気恥ずかしくどもってしまう。フォークにパスタを絡めていた手を止めて改めて咳払いをする。

「ご、ごめんなさい。食べるのに夢中になってしまって。コホン。えっと、岡も……じゃない。聡司のやりたい事って何かしら?」
 私は気を取り直して微笑む。

 岡本……もとい聡司は、少しだけ身を乗り出して無邪気に笑った。

「僕、恋人にあーんってして貰った事ないんですよ。まぁ恋人は涼音が初めてなんで当然ですけど。ほら、天野さんの前ですると馬鹿にされそうでしょ? 言えなかったんですけど、やってみたいなぁってずっと思っていたんです。ねぇ涼音、僕の願いを叶えてくれる?」
 聡司は白い頬を少し赤らめて私の手元にある、フォークに絡めたパスタと私の顔を行ったり来たりしている。

「ぇ」
 私は微笑んだ顔のまま固まってしまった。心の中の私は、頭上から雷に打たれた気分だった。

 聡司、何て恐ろしい子! 三十過ぎの私が『あーん』って。家の中でも恥ずかしいのに、カフェでなんて出来ないわよっ! 

 ──と、いつもならそう思う。

 オープンカフェの外、ウッドデッキに設置されたテーブルに私達二人は座っていた。ウッドデッキは大勢の人達が行き交う通りに面している。

 だけど──この場所はそんな事は気にしなくていい場所。

 旅の恥はかき捨て。いや、別に旅はしていないけれども。

 恥ずかしいって思わなくていいのよ、涼音。自分もやってみたかったでしょ? そんなキャラクターに見えないから言えなかったでしょ? だから、ここは素直に従ってみたらいいじゃない。

 そうよ! 心を解き放つのよ。

 私は、ゴクリと唾を飲み込んでフォークに絡めたパスタを持ち上げる。聡司はその動きに目を大きく開き爛々と輝かせた。

 うん……大型犬が尻尾を振っているみたい。そしてパスタを絡めたフォークを聡司に向ける。

「はい聡司、あーん」
 私は語尾にハートマークをつけて言うと、聡司は大きな口を開けてパスタを頬張った。それから、いつも涼しそうにしている切れ長の瞳を閉じ、ゆっくりと咀嚼をする。ゴクンと飲み込んだら、目尻をこれでもかと下げて、自分の両頬に手を添えてブルブルと震えた。

「ああ……幸せ……生きててよかった」
 生きててよかったは、大げさだと思う。

 イケメンだけど、大人がデレデレしていて、気持ち悪いと思う人もいるかもしれない。

 それでも目の前の聡司が心底可愛いと思ってしまうのは、私が彼を好きだから。

「……ふふ、私も一口貰おうかな?」
「もちろん! 今度は僕の番ですね。はい、あーん……」
 私と聡司は『あーん』を数回繰り返す。マナーが悪いって理解していても、誰の視線を気にしなくてもいいこの瞬間を幸せだと感じた。

 私達二人は、そんな風にゆっくりとランチの時間を過ごした。



 ◇◆◇

 食後のコーヒーを一口飲んだ後、私は今日の一大イベントであるお姉さんに紹介して貰う事について、聡司に尋ねる。

「ところで、聡司のお姉さんとは何時頃に会うの?」
 天野……悠司の時と違って、最初から会うという話は聞いていない。

 紹介時に食事を共にするのか、それとも本当に紹介程度の場にするのか。岡本……聡司とはそういった打ち合わせを何一つしていない。悠司の家族である陽菜さんに会ったという経験が、私に少しの余裕を作っていたからだ。

 おかげで聡司から何の話がなくても気にせず過ごせている。しかし、お昼前からゆっくりと水族館をめぐりこうしてランチをしても、会うはずの聡司のお姉さんの姿はない。そうなると、少しずつ気になってくる。

 私の一言を聞いた聡司がコーヒーカップを持ち上げようとして手を止めた。

 細いフレームの向こう側で弧を描いていた瞳がそのままの形で固まる。口元も口角が上がって微笑んだままになる。無言で動きが固まる聡司に私は思わず首を傾げる。

 ん? 聞こえなかったのかしら。

 そう思って同じ言葉を繰り返す。
「だからお姉さんに会うのは──」
 そこで聡司は私の言葉を遮った。相変わらず顔には笑顔を張りつかせたまま口だけが開いて動く。
「ええ。姉ですよね」
「そう。お姉さん」
「もちろん分かっていますよ」
「うん」
「……」
「?」
 短い言葉を交わして、聡司は笑顔を張りつかせたまま無言になってしまった。

 そんな聡司に、私は不審に思って首を傾げる。
「お姉さんに会うのよね? 『今まで彼女を作らなかったのに、どういう事? 恋人に会わせてよ』って言われて。仕方ないから観念して紹介するって」
 私の言葉に聡司が張りつけていた笑顔を剥がして、あっという間に青い顔になる。それから大慌てで首を左右に振る。
「違いますよ。仕方ないから観念してなんてこれっぽっちも思ってません! そんな馬鹿な事を思うわけがないですよ。こんなに可愛くて美しくて素敵で目に入れても痛くないし閉じ込めていたい涼音をお披露目する事自体夢みたいで天にも昇る思いなのにこれ以上の幸せはな状態なんですから誤解しないでくださいよそれに僕の涼音をそんな風に言わないでください」
 聡司の恐ろしい早口に、私は口が開いたままになる。だって後半なんて句読点がない。聡司は焦りに焦って今度は冷や汗をだらだらとかいている。私は苦笑いをするしかなかった。

「わ、分かってるわよ。そんなに早口で言わなくてもいいから。そろそろ会う時間なのかな~って思ってね?」
 何故、私が聡司を落ち着かせる側に回っているのだろう。私はテーブルに身を乗り出して、辺りをキョロキョロと見回してみる。しかし、やはりお姉さんらしき人物の姿はない。

 聡司は細いフレームの眼鏡を外すと、ハンカチで冷や汗を拭い再び眼鏡をかける。それから溜め息をついて両手をテーブルに置き私を見つめる。
「姉と会うのは夜です」
「えっ夜なの?」
 聡司の意外な予定に私は思わず驚いて声を上げた。

 それならお昼前から待ち合わせをしなくてもよかったのでは。そう言おうと思ったけれど、二人きりの水族館デートで甘い時間に浸った事や、食事のやりとりを思い出して言葉を飲み込んでしまった。

 私の考えが透けて見えたのか聡司が眉を垂らして笑っていた。

 うっ。何を思い出したのか聡司にバレたのね。恥ずかしい……

「そ、それなら、まだゆっくり出来るって事ね」
 私は頬に熱が集まっている事を自覚し、ごまかす為に一口コーヒーを飲んだ。

 そんな私の様子を微笑んだ聡司は、それから一つ咳払いをし私の顔を真っ直ぐ見つめた。
「ええ。ゆっくり夜までの時間を楽しみましょう。でも、姉の事も気になりますよね」
「ええ。気になるわ。だって初めて会うんだし」
「そうですよね。更に僕の姉、かなり個性的でして。何の知識もなく会うのは危険と思うんです」
「え? 危険?」
「はい。だから姉について取り扱い説明をしておこうと思うんです」
「えっ、と、取り、取り扱い説明って、どう言う??」
 私は言われた言葉をどもりながら反芻するが上手く理解出来ない。

 取り扱い説明って……家電じゃあるまいし。個性的と言うけれども、そもそも聡司も随分と個性的だと思うのに。それ以上って事なのかしら。私は頭の上に何個もはてなマークを浮かべる。

「確か聡司より十歳年上で、お仕事はヘアメイクアーティストよね。そして四回の離婚を経験しているのよね」
 私は聡司に聞いたお姉さんの情報をまとめる。

 十歳年上って事は、三十九歳か。ヘアメイクアーティストの腕前は確かで、世界で活躍する有名人から指名があのだとか。そうなると、金銭的にも裕福でセレブな生活をしているのではないだろうか。気になると言えば聡司はお姉さんの事を『Bullet』……弾丸みたいな女性とも言っていた。飛んでいったら戻らない勢いがあるのだとか。

「ええ、そうなんです。その四回の離婚の話が分かりやすいんですけれど──」
 聡司は細いフレームの眼鏡を光らせ、お姉さん──里羅りらさんの話を始める。私は改めて姿勢を正して話に耳を傾けた。
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