鬼上司は間抜けな私がお好きです

碧井夢夏

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第一章

新入社員、スーツを買う

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 花森沙穂、配属33日目ーー。

 ベージュのパンツスーツを着て出社した花森に、先輩社員たちが「似合うね」と声をかけている。それを苦々しい目で見ているのは営業部課長の東御八雲だった。

 スーツを買う金など無いと思っていたら、あっさりと買って翌日に着て来る。

 自分のせいで傷ついた様子の花森を見ていた東御は、今日あたり謝罪も含めてスーツの1着や2着くらいはプレゼントしようなどと思っていた。

 なぜ自分を頼らなかったのかと悔しい気持ちでいるが、そもそも花森にとって東御はただの上司でありスーツをたかる相手ではない。彼女がその場面で他人を頼るとしたら、せめて親あたりであろう。

 そんな東御の異様な雰囲気を察して、営業部には東御はどうしたんだ? の空気が流れており、爽やかに笑う花森と対照的に映る。
 営業部内で、東御が花森を好いていることを知る者は誰一人としていない。

 東御に虐められているように見える花森が、心配する周りに対して「東御さんはうるさくて姑みたいですけど、悪い人ではないです」とフォローしたので、花森の根性を見直す声が増えているくらいだ。

 本来、東御は厳しいことを言ってもちゃんとその後でフォローをしている。
 但し、それを優しいと評価する者はいなかった。
 優しければ最初から厳しいことを言わなければいい、というのが人間の感情であって……。

「来週出張なんですけど、東御さんにリクルートスーツなのは……って言われちゃいまして」
「ああー……」

 その場が、新人なんだから周りは気にしないのに、という意見を押し殺した空気になる。

 このまま順調にいけば、東御の評判が地の底へ落ちていきそうだ。

「花森。昨日作ってもらった資料なんだが……」

 東御は仕事を口実に花森に近づくことにした。

「はい」

 花森が返事をすると、東御はデスクに向かっていく。

「今、その資料出せるか?」

 東御は隣に立ち、花森のモニターを覗き込んでさりげなく物理的な距離を縮めた。今のところ、警戒はされていない。

「はい、これです」

 花森のモニターに映る資料を見ながら、東御は改善点を細かく伝えていく。

「うちの資料では、セルの結合は使わない方が良い。理由は、このデータを抜き出して使う時に困るからだ。ここと、ここ。あとは関数の書き方なんだが……」
「あ、すいません、メモ取って良いですか?」
「ああ」

 花森は手書きで指摘された点をメモに残していた。修正点や改善点を指摘すると落ち込む部下と違い、ちゃんと意図や理由まで納得しながら聞いている。

「……というわけで、いくつか修正点も指摘したわけだが、初めて作ってここまでできている点は褒めたい」
「そうなんですか?」
「ああ、この調子で頼む」
「かしこまりました。では、先ほどの点を修正したものを再度お送りします」
「よろしく」

 そう言って花森の席を離れる東御は、何度か無意識に上がってくる「花森、好きだ」の気持ちを抑えることができて清々しい気持ちでいる。
 自分に打ち克った時ほど心地の良いことはない。

 自席に戻った東御に、隣の隣の席に座る部下の三木(みき)が興味深げな視線を送っている。

「東御さん、花森ちゃんて、なんかかわいっすね」

 三木は東御の席に近寄って、こそりと囁くように言う。すると、東御はおどろおどろしい化け物のような雰囲気で三木を睨んだ。

「貴様、仕事中に何を考えている……!」
「ええっ、怒りすぎじゃないスか? なんでこんなことで」

 三木に言われて東御は気付いた。独占欲的なものが外に漏れすぎているかもしれない。

「いや、それは課長として当然の責務だからな」
「へえ、そうなんですね」

 三木はつまらなそうな顔をして自分の仕事に向かった。東御より2つ年下で26歳の三木はいかにも軽そうだ、と東御は勝手に思っている。
 パーマをかけていたり、明るめの色のスーツを選んでいる時点で軽い、というのが東御の意見だ。ほぼ偏見に近い。

 三木のような若手の社員から見ても花森は可愛いのだろうか。
 東御の心配事がまたひとつ増えた瞬間だった。

  *

 花森は出張前に提出する売上表データを開き、修正が入った箇所を直していた。
 思ったよりも修正点は少なかったので、そこまで時間もかからないだろう。
 いい気分で午前中の業務に取り組んでいると、斜め向かいに座る三木に話しかけられた。

「花森ちゃんさあ、お昼行かない?」

 ちょうど東御は席を外している。花森は三木と会話をしたことがなかった。

「あ、はい」

 職場の先輩に誘われたら、とりあえず断らない方がいいのかなと花森は思う。
 確かに面倒ではあるし、リラックスもできないだろう……しかし、新人でまだ誰も頼れない身。顔を売っておいて損は無いからだ。

「お、よかったー。今日は先輩の奢りだから、好きなもの食べようよ」
「いいんですか??」
「最初だけだから遠慮しないで」

 時間はまだ11時半。三木はすぐに席を立った。

「混む前に行こうよ。12時過ぎると入りづらいところ多いからさ」
「なるほど、はい」

 営業部は昼休みの時間が固定されていない。個人で好きなタイミングを選んで1時間休憩をとることが出来る。
 そんなわけで、早めに昼休みをとる人も、遅めにとる人もいるようだ。

 花森は携帯電話と財布を持つと三木と共に休憩に向かった。

 この会社は先輩後輩でランチに行くことも多く、男女の社員が共にランチにいくのは割と普通の光景だ。

 が、東御においては同僚とのランチ機会は訪れない。
 気難しそうという印象からランチに誘おうとする猛者は現れず、直属の部下は東御と昼休みを共にしたいとは思わない。

 そのため、東御は自席で手軽なものを買って済ませるか、ひとりで遅めのランチに行くことが多かった。

 この日も東御は会議を終えて席に戻って来た。時刻は11時45分、良い時間だ。
 花森は前日にスーツを買っていたようだし、昼を奢ってやってもいいかもしれない。なんなら毎日昼を奢ってやらんこともないぞと思うと、自然と口角が上がる。

 それを見た部下たちは恐ろしさに震え上がった。何かを睨みながら不敵な笑みを浮かべているように見える。

「おい、そういえば花森はどうした?」

 5分経っても空席になっている花森の席を見ながら、東御は隣に座る部下に尋ねた。

「ああ、花森さんでしたら三木さんとお昼に行きましたよー」

 東御は耳を疑う。

 あの三木が、花森をかわいいと呟いたあの三木が、花森を昼に拉致したのだーー。
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