鬼上司は間抜けな私がお好きです

碧井夢夏

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「最近忙しそうだな」

 大きな庭を持つホテルの飲食店で、二人はテラス席に座っている。
 1杯目を白ワインで乾杯して、東御と花森は周囲に目をやった。

「平日、なかなか一緒にご飯も食べられてなくてごめんなさい」
「いい。その位の年齢の時は仕事に手を抜けないのもよく分かる。後輩や同僚との付き合いもあるだろう」

 東御はふわりと微笑むと、黒いパンツスーツ姿の花森を目に入れる。
 夜のテラスはライトアップされ、まだ花の残る桜が光っていた。

「俺の妻が、すっかり仕事人間になったのは理解しているから」
「家庭をないがしろにしているわけではないんですよ?」
「そんな風に思ったことはない」
「八雲さんと、もっと一緒にいたいと思ってます……」

 しゅんとする花森を見て、東御は小さく笑った。

「食事をしたら、タクシーで帰ろう。久しぶりに」
「久しぶりに?」
「4年前、沙穂を送りたくて俺が毎日タクシーを使っていた頃を思い出した」
「ああ、そういえば」
「もう、別々の家に帰らなくてもいい」
「はい」

 二人は穏やかに笑うと、言葉も少なく食事を進める。
 土日以外で夕食を共にするのは年末年始以来のことだった。

「桜の季節も、もうすぐ終わりそうだな」
「あ、あの……八雲さん、今は仕事がバタバタしてるんですけど……」
「ああ、分かってる。案件も把握しているから気にしなくていい」
「結婚記念日のころには、仕事も落ち着くと思うんです」
「そうか。7月にはもう4年か……早いな」

 東御はワイングラスを左手で持ち上げようとしながら、4年前の日々を懐かしんだ。
 薬指には、花森のものよりも控え目なデザインの指輪がはまっている。

「5年目は、子づくりします?」
「?!」

 花森が小声で言ったので、東御は動揺してワイングラスを倒した。
 この二人が一緒にいて、東御の手元が狂ったのはこれが初めてだ。

 店員が慌てて駆け寄って来てテーブルを拭いたり東御にワインが掛かっていないかを気にしてくれるが、東御はそれどころではない。

 店員が去ると、恥ずかしそうに俯く花森を見ながら、東御は改めて先ほどの言葉を頭の中で反芻した。

「するかしないかの二択か? 俺はしたい」
「……ですよね」
「でも、沙穂が何かを諦めたり、妥協しての選択ではないんだな?」
「違います」
「その、心変わりというか、一体なにが……」

 東御は気まずそうに花森に尋ねた。
 周りとの席は離れている。会話は聞こえないだろうが花森は話しにくいに違いない。
 家に帰った方が良いだろうかとすら思う。

「そんなの、別に深い理由なんかありません」
「仕事を休業しなければならなくなるんだぞ?」
「あなたの子どもに会いたいと思いました」
「……?」
「八雲さんの子どもに会いたくなりました」

 その時、春の強い風が吹いた。
 花森の長い髪を揺らし、桜の花びらが舞う。
 照明が部分的に色を見せ、花森の顔が赤くなっているのが東御からもよく見えていた。

 東御はそこで、すっと手を挙げる。

「会計を」
「えっ?」

 東御は店員を呼び急いで会計を済ませ、花森の手を引きホテルの正面ロータリーでタクシーに乗り込む。
 移動中も、ずっと手は繋がれたままだ。

「あの、八雲さん、私、5年目になったらって……」
「分かっている」

 一緒に住む東御の買ったマンションに着くと、やはり東御は花森の手を引いていつもより早いペースで部屋に向かった。
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