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September
3. アーランダ空港着
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九月下旬、ヒカリは無事にストックホルム・アーランダ空港に降り立ち、到着ロビーで一之瀬と落ち合った。
彼は「こっち」と言うなりすたすたと歩き始める。その後ろを付いて行くと、空港に付属する広大な駐車場に入った。多種多様の車が停められており、それぞれのエンブレムに目を引かれてしまう。円の中に三方向へ伸びる星が入っているのがメルセデスベンツで、四つの円が重なっているのがアウディ。ライオンが吠えているのはプジョーだったか。トヨタや日産などの日本車も時折見かけた。
しばらく歩くと、彼は白い車の前で立ち止まる。全体的にスタイリッシュではあるが、タイヤが大きくて荒い道も難なく走れそうな印象の車である。その前面に鎮座するエンブレムを見て、ヒカリは首を傾げた。円の右上が矢印になっていて、その中心には青地に白抜きで「VOLVO」とある。
「ヴォ、ル、ヴォ……?」
「ボルボ。スウェーデン車だよ。どうぞ乗って」
一之瀬は助手席のドアを開け、ヒカリに乗車を促す。
中に乗り込んだヒカリは、目を輝かせて周囲を見渡した。シートは総革張りで高級感があるが、カーペットはオレンジ色でどこかポップな印象だ。これも北欧デザインの賜物なのだろうか。
「何だかかっこいい車ですねえ」
「都市型SUVなんだ」
シートベルトをしながら一之瀬は機嫌よく教えてくれるが、残念ながらヒカリにはよく分からない。ボルボというメーカーを今初めて知ったくらいの車音痴なのだ。
「わたし車のことはさっぱりで。左ハンドルの車に乗るのもこれが初めてです」
「こちらは右側通行だから左ハンドルの車が普通だよ」
何でもないことのように一之瀬は言うと、エンジンを掛けて車を発進させた。車は滑らかに走り出す。
ヒカリは快適なシートに身を任せ、流れていく車窓へと目を向ける。
空港の駐車場群を抜けると、車は真っ直ぐに伸びる道を走り出した。道路脇にはすぐ際まで森が迫っている。シラカバや針葉樹の生える森は、やはり日本の東京近辺とは植生が違う。いよいよ異国に来たのだなとヒカリはワクワクと胸が躍るのを感じた。
「――遠かったでしょう?」
唐突に話を振られ、ヒカリは運転席の一之瀬を見る。ハンドルを握る彼の視線は前方へと向けられており、何の表情も窺えない。もしかしてこれは「遠いからわざわざビジネスクラスにしてやったんだぞ、感謝したまえ」みたいな話になるのだろうか。
ヒカリは慎重に会話のボールを打ち返した。
「そうですね。でもシートがフラットに近い状態まで倒せたので快適でした。わざわざビジネスクラスにしてくださってありがとうございました」
「それは良かった。旅費は会社から出ることになったから気にしないで」
「あ、そうなんですね」
なるほど、配偶者の渡航費は会社持ちなのか、とヒカリは納得すると同時に少し反省した。一之瀬が突然雑談めいた話をふってきたのは何か裏の意図があるのではと穿った見方をしてしまったが、彼は本当にただ雑談がしたかっただけなのかもしれない。
再び窓の外へと目を遣ると、再び彼が声をかけてきた。
「親御さん心配していなかった?」
(あ、そこ気になるんだ?)
少し気遣わし気な声に、この会話の本題はこれだったのかとヒカリは合点した。彼はもしかしたら今になって良心の呵責を感じているのかもしれない。何しろ、両親に無断で入籍しただけでなく、半年後には籍を抜きヒカリはバツイチとなる予定なのだ。親が事実を知ったら嘆き悲しむこと間違いなし。
この話を持ち掛けられた時は軽んじられたと憤りを感じたものだが、彼が少しでもヒカリの両親へと思いを馳せてくれているならその時の気持ちが少しは慰められるというものだ。
とはいえこの件の片棒を担ぐと決めたのはヒカリ自身だ。彼だけが悪い訳ではない。
ヒカリは殊更明るい声を出した。
「大丈夫ですよ。親にはワーホリに行くって言って出てきたので」
「――え?」
一之瀬は怪訝な顔をした。
ワーホリとはもちろんワーキングホリデーの略である。日本と協定を結んだ国から就労・観光・就学が可能なビザを支給してもらい、その国で働いて生活費を稼ぎながら長期滞在できるという制度である。
両親にはストックホルムへ半年ほど滞在するとは伝えたが、離婚前提で入籍するとはとても言えなかった。悩みに悩んで捻り出した苦肉の言い訳がワーキングホリデーである。ワーホリのビザが下りたから半年ほどストックホルムで働きながら観光してくるね、と宣言してみたところ、両親はそれをあっさり受け入れた。
「うちの父、若い頃バックパッカーだったらしいんですよ。だからむしろ『一つの街に留まり続けるなんてつまらないと思わないのか』って言われちゃいました」
「へえ。豪快な意見だな」
「あとはストックホルム行きを知らせたのは友人一人くらいですね」
大学時代からの友人真紀にはストックホルムへ行くことは告げた。まあこれもワーホリと称してだが。
真紀は大学の学祭実行委員として知り合った。当然一之瀬のことも知っており、共通の知り合いもゼロではない。真実を告げて後から口止めするよりは、ややこしい事実は伏せておこうと思ったのだ。
彼は「こっち」と言うなりすたすたと歩き始める。その後ろを付いて行くと、空港に付属する広大な駐車場に入った。多種多様の車が停められており、それぞれのエンブレムに目を引かれてしまう。円の中に三方向へ伸びる星が入っているのがメルセデスベンツで、四つの円が重なっているのがアウディ。ライオンが吠えているのはプジョーだったか。トヨタや日産などの日本車も時折見かけた。
しばらく歩くと、彼は白い車の前で立ち止まる。全体的にスタイリッシュではあるが、タイヤが大きくて荒い道も難なく走れそうな印象の車である。その前面に鎮座するエンブレムを見て、ヒカリは首を傾げた。円の右上が矢印になっていて、その中心には青地に白抜きで「VOLVO」とある。
「ヴォ、ル、ヴォ……?」
「ボルボ。スウェーデン車だよ。どうぞ乗って」
一之瀬は助手席のドアを開け、ヒカリに乗車を促す。
中に乗り込んだヒカリは、目を輝かせて周囲を見渡した。シートは総革張りで高級感があるが、カーペットはオレンジ色でどこかポップな印象だ。これも北欧デザインの賜物なのだろうか。
「何だかかっこいい車ですねえ」
「都市型SUVなんだ」
シートベルトをしながら一之瀬は機嫌よく教えてくれるが、残念ながらヒカリにはよく分からない。ボルボというメーカーを今初めて知ったくらいの車音痴なのだ。
「わたし車のことはさっぱりで。左ハンドルの車に乗るのもこれが初めてです」
「こちらは右側通行だから左ハンドルの車が普通だよ」
何でもないことのように一之瀬は言うと、エンジンを掛けて車を発進させた。車は滑らかに走り出す。
ヒカリは快適なシートに身を任せ、流れていく車窓へと目を向ける。
空港の駐車場群を抜けると、車は真っ直ぐに伸びる道を走り出した。道路脇にはすぐ際まで森が迫っている。シラカバや針葉樹の生える森は、やはり日本の東京近辺とは植生が違う。いよいよ異国に来たのだなとヒカリはワクワクと胸が躍るのを感じた。
「――遠かったでしょう?」
唐突に話を振られ、ヒカリは運転席の一之瀬を見る。ハンドルを握る彼の視線は前方へと向けられており、何の表情も窺えない。もしかしてこれは「遠いからわざわざビジネスクラスにしてやったんだぞ、感謝したまえ」みたいな話になるのだろうか。
ヒカリは慎重に会話のボールを打ち返した。
「そうですね。でもシートがフラットに近い状態まで倒せたので快適でした。わざわざビジネスクラスにしてくださってありがとうございました」
「それは良かった。旅費は会社から出ることになったから気にしないで」
「あ、そうなんですね」
なるほど、配偶者の渡航費は会社持ちなのか、とヒカリは納得すると同時に少し反省した。一之瀬が突然雑談めいた話をふってきたのは何か裏の意図があるのではと穿った見方をしてしまったが、彼は本当にただ雑談がしたかっただけなのかもしれない。
再び窓の外へと目を遣ると、再び彼が声をかけてきた。
「親御さん心配していなかった?」
(あ、そこ気になるんだ?)
少し気遣わし気な声に、この会話の本題はこれだったのかとヒカリは合点した。彼はもしかしたら今になって良心の呵責を感じているのかもしれない。何しろ、両親に無断で入籍しただけでなく、半年後には籍を抜きヒカリはバツイチとなる予定なのだ。親が事実を知ったら嘆き悲しむこと間違いなし。
この話を持ち掛けられた時は軽んじられたと憤りを感じたものだが、彼が少しでもヒカリの両親へと思いを馳せてくれているならその時の気持ちが少しは慰められるというものだ。
とはいえこの件の片棒を担ぐと決めたのはヒカリ自身だ。彼だけが悪い訳ではない。
ヒカリは殊更明るい声を出した。
「大丈夫ですよ。親にはワーホリに行くって言って出てきたので」
「――え?」
一之瀬は怪訝な顔をした。
ワーホリとはもちろんワーキングホリデーの略である。日本と協定を結んだ国から就労・観光・就学が可能なビザを支給してもらい、その国で働いて生活費を稼ぎながら長期滞在できるという制度である。
両親にはストックホルムへ半年ほど滞在するとは伝えたが、離婚前提で入籍するとはとても言えなかった。悩みに悩んで捻り出した苦肉の言い訳がワーキングホリデーである。ワーホリのビザが下りたから半年ほどストックホルムで働きながら観光してくるね、と宣言してみたところ、両親はそれをあっさり受け入れた。
「うちの父、若い頃バックパッカーだったらしいんですよ。だからむしろ『一つの街に留まり続けるなんてつまらないと思わないのか』って言われちゃいました」
「へえ。豪快な意見だな」
「あとはストックホルム行きを知らせたのは友人一人くらいですね」
大学時代からの友人真紀にはストックホルムへ行くことは告げた。まあこれもワーホリと称してだが。
真紀は大学の学祭実行委員として知り合った。当然一之瀬のことも知っており、共通の知り合いもゼロではない。真実を告げて後から口止めするよりは、ややこしい事実は伏せておこうと思ったのだ。
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