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契約結婚の終わり

34. 戸惑い

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(お、おかしい……何でこんな展開に……)

 一之瀬の実家を辞し、タクシーでやって来たのは羽田空港。立ち寄った化粧室で鏡に映る自分の顔を見て、ヒカリは大きな息を吐き出した。

 今朝地元で海を見ていた時が遠い太古の昔のように思える程に怒涛の一日だった。

 全てが想定の範囲外。ストックホルムから一之瀬が追ってきたことも、彼に「添い遂げて欲しい」と言われたことも、彼の両親と会って結婚を認めてもらったことも、とても現実のこととは思えない。

 加えて父親のあの反応。驚かせてしまうだろうとは思っていたが、あれほどまでに怒りを買うとは全く考えていなかった。
 
 両親の了解が得られるまでヒカリは日本で待機することになる。一之瀬は何度でもヒカリの実家に足を運ぶ心積もりのようだが、日本とスウェーデンをそう何度も往復できるものでもあるまい。いつまでも両親の了解が得られないのならば、ヒカリは反対を押し切って渡航せねばならないだろう。

 心の中をもやもやと灰色の霧のような感情が渦巻いている。はっきりと形の見えないこのどんよりとした感情はいったい何なのか。気を抜くとその霧に飲み込まれて息ができなくなりそうだ。

 ふとスマートフォンを開くと、スケジュールの通知が入っていた。明日のこの時刻に予定されている就職面接のリマインドである。

(面接……)

 中堅メーカーのマーケティング部の二次面接である。そこそこ名のある企業にもぐりこむには第二新卒の肩書きが使える今が最後のチャンスと意気込んでいた訳だが、断りの連絡を入れねばならないだろう。

 日本で働くことは諦め、ストックホルムへ戻ってバイト生活だ。いや、バイトも辞めてしまったから無職か。とはいえ夫たる一之瀬隼は大手商社の駐在員。十分な収入があるわけだから、ヒカリは彼に養ってもらえばいいのだが――

(あれ、わたしもしかして今人生の岐路に立ってる……?)

 ストックホルムで一之瀬と暮らしていく。そのために捨てねばならないものの何と大きなことか。

 少なくとも日本での再就職の機会と経済的な自立は諦めなければならない。場合によっては両親との関係も壊れてしまう。学生時代の友達とも会えなくなるし、日本語で買い物をしたりテレビを見たりといったことも不可能になる。様々なものを諦め切り捨て失った先に、ようやく彼との暮らしが可能となるのだ。

(いや、でもストックホルムに一生いる訳でもないし……)

 一之瀬の駐在の任が解かれれば、日本に戻って来ることになる。可南子の話では五年で本帰国となる人が多いという。

 だけど帰国したヒカリを待ち受けるのは、今日見てきたような異空間。要塞のような住宅街、外商の来る豪邸――自分の生育環境と全くもって様子が違う。そんな環境でヒカリに親戚付き合いなどが無事にできるのか。

 加えて頼みの一之瀬はゆくゆくは政治の道へ入るという。ヒカリは何もしなくていいと彼は言うが、妻としてそういう訳にもいくまい。果たして自分に務まるのか。

 彼を選ぶということは、自分の人生を大きく変えるということだ。今更ながらそのことに気付き、ヒカリはどうしようもなく戸惑いを覚えた。

***

「ヒカリ?」

 名前を呼ばれてはたと我に返る。出国ゲートの前で一之瀬が怪訝な顔をしてこちらを覗き込んでいた。

「さっきからぼんやりしてるけど、どうかした?」
「いえ……怒涛の一日だったからちょっと疲れてしまったみたいで」

 ヒカリは慌てて笑みを浮かべた。空港のレストランで遅めの昼食を取った時も、出国ゲートの前で会話をしている今も、ふと気を抜くと思考がふらりと独り歩きしてしまう。

 今から一之瀬はストックホルムに帰ってしまうが、ヒカリは日本に残る。ヒカリの両親の了解を得ていないのに連れていけないと一之瀬が主張するし、そもそも現在パスポートは実家の自室に置き去りだ。父が怒りを爆発させた直後のどさくさに紛れて出てきてしまったのだから仕方がない。

 少しの間、彼とは離れ離れになる。一緒に居られるこの時間はとても貴重なのだから、会話に集中しなければ――そう思って口の端を上げて笑ったような表情を作ってみたが、彼は全く誤魔化されてくれなかった。

 一之瀬はしばらく黙り込んだ後、難しい顔をしてぽつりと呟く。

「……俺、勇み足してる?」
「え?」
「ヒカリは俺の元を去るつもりで日本に帰ってきたのに、俺が追いかけてきてあれよあれよという間にうちの親にまで会わされて。戸惑っているんでしょう?」
「そ、そんなこと……」

 ヒカリの否定の言葉にも、彼の表情は晴れることはない。真剣な眼差しでヒカリの瞳の中を覗き込むように見つめてくる。まるで心の中を見透かされたような気がして、ヒカリは渋々と本音を打ち明けた。

「そりゃ、まあ、正直戸惑ってますよ。今日は朝から色々あったので」

 拗ねるように言うと、彼は苦笑した。

「色々あって戸惑っているだけならいいんだ」

 そして言葉を区切ると、彼は手を伸ばしヒカリの腕を強い力で掴んだ。切実さを帯びた瞳に見つめられ、ヒカリは息を止める。

「悪いけど、俺はヒカリを諦められないよ」
「諦めるだなんて、そんな……」
「愛してるんだ。ヒカリのいない人生なんて俺はいらない」

 そう言うと彼はヒカリの腕を自分の方へ強く引き寄せた。そしてヒカリを両腕の中に収めてしまうと、髪に顔をうずめるようにして小さく呟く。

「……本当は今日連れて帰りたい」

 思わず心の声が漏れたかのようなその呟きに、ヒカリの胸は締め付けられる。そんなに不安そうな声を出さないで欲しい。安心させてあげたい。だけど、自分の胸の内に沸き上がる戸惑いの感情をどうしていいか自分自身が分からないのだから、何と言えばいいのか分からない。

 この人のことが好き。その感情は間違えようがない真実だと思う。だけどどうして現実はこうも単純ではないのだろう。

 しばらくの沈黙の後、ヒカリがやっと口に出せたのは妙に現実的な内容だった。

「パスポート持って出てくれば良かったですね……」
「ヒカリ、さっきのは冗談だから。気にしないで」

 彼は眉を上げて困ったような表情を作ると、苦笑いしながら首を横に振った。

「パスポートを持っていたとしても、今日は連れていかないよ。ヒカリの大事なご両親だから、きちんと認めてもらってから正々堂々と連れて帰る。また近いうちに来るから」
「近いうちって?」
「悪いけど来週は無理。次の月曜朝に外せないアポがあって、この強行スケジュールで来るのは避けたいんだ」

 その一言から、今回の渡航が彼にとってかなり無理をしたものだということが窺われた。ヒカリは申し訳ない気持ちでいっぱいで肩をしゅんとさせる。

「すみません、わたしが急に帰ってきちゃったからこんなことになって。向こうできちんと話し合えばこんなことにはならなかったのに」
「本当だよまったく」

 彼はわざとらしく眉をひそめると大袈裟に同意して見せた。その芝居めいた言い方がおかしくて、ヒカリは噴き出してしまう。こちらがあまり自分を責めないよう、彼なりの優しさなのだと思う。

「――だけどいい機会だったよ。いずれヒカリのご両親に会いに行かなくてはと思っていたんだ。次は有休も組み合わせてもう少し長く滞在できるようにするから。――じゃ、そろそろ時間かな」

 彼は名残惜しそうにヒカリの額にキスを落とすと、ゲートの中へ消えていった。
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