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第五話 山へ
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金曜日。
仕事を終えた圭吾は、ほとんど逃げるようにオフィスを後にした。
定時退社への罪悪感は、もはや彼の心にはなかった。
あるのは、週末の山で食べるキャンプ飯への抑えきれない期待感だけだった。
帰り道のスーパーで食材を買い込み、家に向かった。
帰宅後、リビングに広げたままだったキャンプ道具を手際よく大型のバックパックに詰め込んでいく。
意外だ、と圭吾は思った。
大学の頃、何度も繰り返したパッキング作業。
手順は不思議と体が覚えていた。
---
土曜日の早朝。
まだ薄暗い中、圭吾は愛車のエンジンをかけた。
都心の喧騒を抜け、高速道路をひた走る。
目指すは、学生時代に仲間たちと訪れた記憶のある、奥多摩の山域だ。
カーナビが示すルートは、あの頃とは比べ物にならないほど整備されてた。
数時間後、目的の登山口に近い駐車場に到着した。
標高はすでに800メートルを超えている。
木陰を選んで車を慎重に止め、エンジンを切ると、車内を満たしていた空調の人工的な静寂に代わって、夏の森の音が耳に流れ込んできた。
様々な種類の蝉の声が、まるでシャワーのように降り注いでくる。
ドアを開けて外に出ると、むわりとした湿気を帯びた空気が肌にまとわりついた。
空は見上げる限り雲一つない快晴だが、山を吹き抜ける風は、海の近くのようなじっとりとし重さを含んでいる。
山の天気は変わりやすい。
天気予報は晴れだったが、雷雲が湧くかもしれない。
圭吾は空を見上げ、わずかな不安を覚えつつも、それ以上に高揚感が勝っているのを感じた。
バックパックを背負い、登山靴の紐を固く結び直す。
ずしりとした重みが肩に食い込む。
登山口の脇に設置された古びた木製のポストへ、事前に記入しておいた登山届を投函した。
氏名、連絡先、登山ルート、日程、装備…。
一枚の紙に過ぎないが、これは山への敬意であり、自分自身の安全への誓約でもある。
ポストの横から、これから登るであろう山の稜線が木々の間から見えた。
緑深いその頂きは、まだ遥か遠くに見える。
背負った荷物は決して軽くはない。
寝袋、二人用のテント、着替え、雨具、水筒にペットボトル、合計2リットルの水、そして何よりも、今夜の主役となる食材と調理器具。
一泊二日の行程だとしても、快適さを求めれば荷物は自然と嵩張るものだ。
だが、この重みこそが、日常から切り離された場所へ向かうための「切符」のように感じられた。
「よし、行くか」
誰に言うともなく呟き、圭吾はリュックのショルダーハーネスをぐっと引き締め、土と落ち葉で覆われた登山道へと、力強く第一歩を踏み出した。
序盤は鬱蒼とした針葉樹林の中を緩やかに登っていく。
ひんやりとした空気が漂い、木漏れ日が足元をまだらに照らしている。
鳥のさえずりや蝉の声、風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる高いとは違う喧騒を持つ世界。
額にはすぐに汗が滲み、背中を伝っていく。
都市生活で鈍りきった体が、悲鳴を上げ始めているのを感じる。
だが、苦しさよりも、一歩一歩、確実に標高を上げていく達成感が心地よかった。
傾斜がきつくなり、息が上がる。
立ち止まって水を飲み、呼吸を整える。
見上げれば、木々の間から見える空が、先ほどよりも広く、青く感じられた。
標高が上がるにつれて、周囲の植生も少しずつ変化していく。
背の高い針葉樹が減り、広葉樹や灌木が目立つようになる。
時折、視界が開けた場所に出ると、遠くの山並みが見渡せた。
緑の濃淡が幾重にも重なり、雄大なパノラマを作り出している。
あのタワーマンションから見る、無機質なビル群とは全く違う、生命力に満ちた景色だ。
昼食は、行動食のカロリーバーとゼリー飲料で簡単に済ませた。
目指すテン場はまだ先だ。
さらに登り続け、やがて森林限界が近づいてきた。背丈よりも高い草木が少なくなり、岩がちな道が増えてくる。
風も強くなってきたが、その風が汗ばんだ体を冷やしてくれて心地よい。
標高計は、おおよそ1400メートルを示していた。
そして、ついに視界が開け、目的地の広場が見えてきた。
なだらかに傾斜した、草原のようなその広場に到着したのは、夕方の5時を少し回った頃だった。
西に傾きかけた太陽が、周囲の山々をオレンジ色に染め始めている。
心地よい疲労感と共に、圭吾はバックパックを地面に下ろし、大きく深呼吸をした。
澄んだ山の空気が、肺の隅々まで満たしていく。
休憩もそこそこに、圭吾はテキパキとテントの設営に取り掛かった。
ポールを組み立て、インナーテントを広げ、フライシートを被せる。
ペグを地面に打ち込み、張り綱を調整する。
学生時代に嫌というほど繰り返した作業だ。
体が覚えている。
彼が持ってきたテントは、一人で使うには少し大きい二人用サイズだ。
これには理由がある。
昔、北海道の大雪山系を縦走した際、夜中にテントの外に置いておいた食料を含む荷物をエゾシマリスに漁られ、中身をめちゃくちゃに散らかされた苦い経験があるのだ。
それ以来、荷物はすべてテントの中に仕舞い込むことを徹底している。
だから、少し余裕のあるサイズが必須なのだ。
テントがしっかりと設営され、寝袋やマット、その他の荷物を中に運び込むと、次はいよいよ、この山行の最大の目的である夕食の支度を始めた。
多くの登山者はカップ麺やアルファ米などで簡単に食事を済ませることが多いだろう。
それも一つの山の楽しみ方だが、今日の圭吾には譲れない目的があった。
――あのアヒージョを作ること。
それも、学生時代に食べた、あのニンニクをたっぷり効かせた、エビとマッシュルーム、ブロッコリーのやつだ。
仕事を終えた圭吾は、ほとんど逃げるようにオフィスを後にした。
定時退社への罪悪感は、もはや彼の心にはなかった。
あるのは、週末の山で食べるキャンプ飯への抑えきれない期待感だけだった。
帰り道のスーパーで食材を買い込み、家に向かった。
帰宅後、リビングに広げたままだったキャンプ道具を手際よく大型のバックパックに詰め込んでいく。
意外だ、と圭吾は思った。
大学の頃、何度も繰り返したパッキング作業。
手順は不思議と体が覚えていた。
---
土曜日の早朝。
まだ薄暗い中、圭吾は愛車のエンジンをかけた。
都心の喧騒を抜け、高速道路をひた走る。
目指すは、学生時代に仲間たちと訪れた記憶のある、奥多摩の山域だ。
カーナビが示すルートは、あの頃とは比べ物にならないほど整備されてた。
数時間後、目的の登山口に近い駐車場に到着した。
標高はすでに800メートルを超えている。
木陰を選んで車を慎重に止め、エンジンを切ると、車内を満たしていた空調の人工的な静寂に代わって、夏の森の音が耳に流れ込んできた。
様々な種類の蝉の声が、まるでシャワーのように降り注いでくる。
ドアを開けて外に出ると、むわりとした湿気を帯びた空気が肌にまとわりついた。
空は見上げる限り雲一つない快晴だが、山を吹き抜ける風は、海の近くのようなじっとりとし重さを含んでいる。
山の天気は変わりやすい。
天気予報は晴れだったが、雷雲が湧くかもしれない。
圭吾は空を見上げ、わずかな不安を覚えつつも、それ以上に高揚感が勝っているのを感じた。
バックパックを背負い、登山靴の紐を固く結び直す。
ずしりとした重みが肩に食い込む。
登山口の脇に設置された古びた木製のポストへ、事前に記入しておいた登山届を投函した。
氏名、連絡先、登山ルート、日程、装備…。
一枚の紙に過ぎないが、これは山への敬意であり、自分自身の安全への誓約でもある。
ポストの横から、これから登るであろう山の稜線が木々の間から見えた。
緑深いその頂きは、まだ遥か遠くに見える。
背負った荷物は決して軽くはない。
寝袋、二人用のテント、着替え、雨具、水筒にペットボトル、合計2リットルの水、そして何よりも、今夜の主役となる食材と調理器具。
一泊二日の行程だとしても、快適さを求めれば荷物は自然と嵩張るものだ。
だが、この重みこそが、日常から切り離された場所へ向かうための「切符」のように感じられた。
「よし、行くか」
誰に言うともなく呟き、圭吾はリュックのショルダーハーネスをぐっと引き締め、土と落ち葉で覆われた登山道へと、力強く第一歩を踏み出した。
序盤は鬱蒼とした針葉樹林の中を緩やかに登っていく。
ひんやりとした空気が漂い、木漏れ日が足元をまだらに照らしている。
鳥のさえずりや蝉の声、風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる高いとは違う喧騒を持つ世界。
額にはすぐに汗が滲み、背中を伝っていく。
都市生活で鈍りきった体が、悲鳴を上げ始めているのを感じる。
だが、苦しさよりも、一歩一歩、確実に標高を上げていく達成感が心地よかった。
傾斜がきつくなり、息が上がる。
立ち止まって水を飲み、呼吸を整える。
見上げれば、木々の間から見える空が、先ほどよりも広く、青く感じられた。
標高が上がるにつれて、周囲の植生も少しずつ変化していく。
背の高い針葉樹が減り、広葉樹や灌木が目立つようになる。
時折、視界が開けた場所に出ると、遠くの山並みが見渡せた。
緑の濃淡が幾重にも重なり、雄大なパノラマを作り出している。
あのタワーマンションから見る、無機質なビル群とは全く違う、生命力に満ちた景色だ。
昼食は、行動食のカロリーバーとゼリー飲料で簡単に済ませた。
目指すテン場はまだ先だ。
さらに登り続け、やがて森林限界が近づいてきた。背丈よりも高い草木が少なくなり、岩がちな道が増えてくる。
風も強くなってきたが、その風が汗ばんだ体を冷やしてくれて心地よい。
標高計は、おおよそ1400メートルを示していた。
そして、ついに視界が開け、目的地の広場が見えてきた。
なだらかに傾斜した、草原のようなその広場に到着したのは、夕方の5時を少し回った頃だった。
西に傾きかけた太陽が、周囲の山々をオレンジ色に染め始めている。
心地よい疲労感と共に、圭吾はバックパックを地面に下ろし、大きく深呼吸をした。
澄んだ山の空気が、肺の隅々まで満たしていく。
休憩もそこそこに、圭吾はテキパキとテントの設営に取り掛かった。
ポールを組み立て、インナーテントを広げ、フライシートを被せる。
ペグを地面に打ち込み、張り綱を調整する。
学生時代に嫌というほど繰り返した作業だ。
体が覚えている。
彼が持ってきたテントは、一人で使うには少し大きい二人用サイズだ。
これには理由がある。
昔、北海道の大雪山系を縦走した際、夜中にテントの外に置いておいた食料を含む荷物をエゾシマリスに漁られ、中身をめちゃくちゃに散らかされた苦い経験があるのだ。
それ以来、荷物はすべてテントの中に仕舞い込むことを徹底している。
だから、少し余裕のあるサイズが必須なのだ。
テントがしっかりと設営され、寝袋やマット、その他の荷物を中に運び込むと、次はいよいよ、この山行の最大の目的である夕食の支度を始めた。
多くの登山者はカップ麺やアルファ米などで簡単に食事を済ませることが多いだろう。
それも一つの山の楽しみ方だが、今日の圭吾には譲れない目的があった。
――あのアヒージョを作ること。
それも、学生時代に食べた、あのニンニクをたっぷり効かせた、エビとマッシュルーム、ブロッコリーのやつだ。
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